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妃嬪の徴証

追憶の面影②

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「けがはありませんか?」

 徳妃――明玲はそう言って白狼の頬に指を添わせた。
 ひんやりとした指先に触れられた箇所はひりひりと痛む。柏との格闘で軽く擦りむいた程度だろうが、それを見ている徳妃の目がまた潤んだ。

「可哀そうに、痛かったでしょう」
「……別に」

 白狼としてはそう言うしかない。実際にひりついてはいるが、特別に痛むわけではない。それより後ろ手に縛られている状況の方を何とかして欲しい。
 その場で首を斬られることは回避したものの、結局白狼は囚われの身となっていた。物置小屋に連れていかれたのは四半刻ほど前。柱と共にぐるぐると麻縄で縛られた己の姿に、なんとも言えない既視感に襲われる。後宮にかかわって何度目だろうか。
 放り込まれた物置小屋は永和宮の中でもかなり隅の方にあった。中にしまわれているものもほこりや蜘蛛の巣だらけで長年使われている様子はない。朝になって大声をあげれば誰かに見つけてもらえるかもしれないが、夜中に忍び込んだとして公に罰せられると思えばそれも悪手だろう。
 さてどうしよう、と考えを巡らそうとしても目の前の女がそれを許さなかった。そして白狼自身もまだ混乱のさなかにいた。
 帝都から遠く離れた故郷にいたはずの、しかも底辺の庶民である自分の姉が、なぜ皇帝の徳妃として後宮などにいるのだろう。
 本当に姉だろうかという疑問はすぐさま消えた。そもそも本当の名前を知っているのが家族である証拠である。白玲という名は村を飛び出してから一切使っていない。
 しかも化粧をしていない徳妃の顔は確かによく見知ったもので、幼い頃に「そっくりだ」と言われた自分の顔ともどことなく似ている。徳妃が化粧をしていたというのに、そこに気が付いた黒花の目利きは大したものだったということだ。
 徳妃は水を絞った布で白狼の頬を拭った。煤とほこりだらけの物置で、汚れるのも構わず膝を付いている彼女の顔は涙の跡が残っている。ゆったりした夜着でも分かるほど膨らんだ腹は、産み月までもうあまり間がないことを告げていた。

「腹……苦しくない、ですか」

 狭い物置で屈んだままでは腹を圧迫しているだろう。ふと思ったら口からこぼれた。徳妃はふふっと小さく笑うと、愛しげに自分の腹を撫でた。

「さっきまで大暴れしていたのだけれど、今はもうすっかり寝てしまっているようです」

 そんなものかと白狼は徳妃の腹を見る。

「柏様の様子がおかしいとは思っていたのです。そのまま寝てしまおうとしたら、この子ったら思い切り中から蹴ってきたんですよ」
「そんなことが……?」
「きっと母の心が落ち着かない原因をはっきりさせろと言いたかったのでしょう。わたくしの気持ちがよくわかるようで、母思いの良い子にちがいありませんね」

 穏やかにほほ笑む表情は、慈愛に満ちた母親の顔だ。白狼はぼんやりとそれを見ながらまた記憶の奥にある姉を思い浮かべる。村にいたときの姉は、言葉遣いも表情もまるで異なっていたはずだ。名を騙っているのか、とまた一瞬疑念もわくが白狼の名を知っていることは動かしようもない事実で、やはり目の前の貴婦人は姉なのだろうと思わざるを得ない。
 徳妃の側もそれは同じようで、白狼と目が合うと眉根を寄せて難しい顔をした。

「それにしても、なぜあなたが宦官などと偽って後宮にいるのですか? 白玲、あなたは女子のはず。後宮に雇い入れられるとしても女官としてはいれるはずなのに、なぜ」
「……俺は」
「俺?」
「男として、生きてたから……」

 まあ、と徳妃は目を丸くした。

「村を出てから、ずっと男のふりを? 大変だったでしょうに」
「それは、別に……女ひとりで生きてくより、男ひとりって思われてた方が生きやすいから」
「それで男の姿で……それは、帝姫様はご存知のことなの?」

 こくりと白狼は頷いた。

「どうして後宮に?」
「……街で、ちょっとね」

 銀月は月の半分も枕から頭が上がらないほど病弱な帝姫、という事になっている。離宮のある河西の街中で出会ったというのは口外できない。白狼が口を濁すと、徳妃はそれ以上尋ねずまた頬を布で拭った。
 物置の中には燭台の灯りが一つだけで、揺らめく蝋燭の火に照らされた徳妃の横顔は憂いを浮かべていた。

「徳妃様……は、なんで……」

 確か徳妃は名のある貴族の娘として入宮したと聞いている。しかし実際は底辺の庶民である白狼の姉、明玲だった。ということは養女として貴族の家に引き取られたということだろうか。
 物思いに沈んでいた徳妃がハッとしたように顔を上げる。すぐさま微笑みを浮かべたがどこかぎこちないのは気のせいか。白狼は柱に括りつけられながらではあるが、身を乗り出して姉の顔を覗き込んだ。

「なんで、後宮にいるんだよ」
「縄が食い込んでしまうわ。おやめなさい、白玲」
「答えろよ。どうしてあんたが後宮にいるんだ?」
「そ、それは……」

 今度は徳妃が言い淀む。

「徳妃の実家はそれなりの貴族って聞いてる。うちの血縁に貴族の知り合いがいるようなのはいないはずだ。それなのに、なんであんたがそんなでかい貴族の姫ってことになってんだ?」
「し、親切な方が養女にと紹介してくださったのよ……」
「ど田舎のど平民を養女にする貴族なんて奇特なやつがいるのかよ」

 どうも嘘くさい。
 自分と銀月の出会いを棚に上げて、白狼は徳妃に詰め寄った。が、いかんせん体自体は一歩も前に進まない。物置とはいえ後宮の建物を支える柱はそれなりに丈夫で太く、小さな白狼が少し暴れたくらいではびくともしなかった。
 くそっと白狼はまた身を捩った。少しでも縄が緩んでくれないものかと期待するがどうやらそれも無駄らしい。それを見た徳妃の眉が悲しそうに下がっていく。
 がたっと音がして物置の扉が開く。振り返ると、戸口にひょろ長い影が立っていた。

「徳妃様は我が主の大切なご息女ですよ、白狼君。それ以上でもそれ以下でもなく、ね」

 いつから聞いていたのか、柏が腕を組みながら入ってきた。徳妃は膝を付きながら、白狼と少し距離を取る。汚れるのに、と思いながらも白狼は立ったままの宦官を睨みつけた。

「承乾宮の帝姫様がこちらにおいでになる。帝姫様が我が主にご協力くださるかどうかで君の処遇が決まるよ」
「なんだと……?」
「君をこちらで預かっていると言ったら、大層驚かれていたよ。本当に何もご存知なかったようだね。御足労願ったところ、すぐおいで下さるとのことだ。君も随分と可愛がられているようだねぇ」
「ぎ……姫様に、何させようってんだ!」

 くくっと肩を揺らす宦官は柱の後ろに回ると、白狼を縛り付けていた縄に手をかけた。
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