金曜日のチョコレート

上木 柚

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9 青年の企み1

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「よし!」

 春、壱岐は無事大学を卒業し、新たな生活をスタートさせていた。
 新入社員全体の新人研修を終え、今日から各々配属された部署に出勤する。
 まだまだ着慣れないスーツに袖を通し、ネクタイを締める。

 名刺から目的の人物の所属する部署はわかっていたので、迷わず希望を出した。
 そこに配属されるために研修も必死でこなし、自己アピールも怠らなかった。その甲斐あってか、無事に希望通りの部署に配属され、意気揚々と職場に向かう。
 失敗した告白後、卒論や卒業後のいろいろに忙殺され、最近では顔を合わす事も稀になったあの人は、どんな顔をするだろうか。不安と期待が入り混じる。

「本日からこちらに配属となりました、壱岐悠です。若輩者ではありますが、一日も早く皆さんと肩を並べて仕事が出来るよう、精進して参ります。ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます」

 全体の新人研修を終えた新入社員が今日から配属されるのでしばらく一緒について研修をして欲しいと上司から打診され、もうそんな時期かとぼんやり考えていた由希子は驚愕に目を見開いていた。
 たった今配属の挨拶をした新入社員の男性。周囲に悟られないようにこちらに目線を向け、いつもの爽やかな笑顔を浮かべたのは、あの日から避けていた壱岐だった。

「壱岐くんのデスクはここを使って、しばらくは佐野くんに付いて仕事を覚えて」
「はい。佐野さん、一日も早く戦力となれるよう、一生懸命、頑張りますので、どうぞご指導よろしくお願いします!」

 初対面の体を装う壱岐に軽く眩暈を覚えた由希子だったが、仕事は仕事と持ち直し、唇を引き結んだ。

「よろしくお願いします。じゃあ、早速だけど、総務に行ってここに書いてある物品を受け取って来て下さい。戻ってきたらこの資料を十部ずつコピーして、このバインダーに一部ずつ纏めて第一ミーティングルームに持って行って下さい。十一時からの会議で使うのでそのつもりでね。わからないことがあったらその都度聞いて」

 仕事モードに切り替え、一通りの指示をして自分の仕事に戻る。

「わかりました。それでは行って来ます」

 初めて仕事モードの由希子を見た壱岐は目を輝かせると、元気に返事をして総務に向かって行った。

「なんで、こんな事に…」

 由希子は自分のデスクに座ると小さく頭を抱え呟いた。

(よりによって研修の担当になるなんて…、辛いなあ…)

 溜息を一つつくと気を取り直して仕事を再開した。


 ◆


 壱岐が部署に配属されてから数日が過ぎ、その日、由希子が仕事を終え帰宅すると、マンションのエレベーターホールで壱岐と一緒になった。

「お疲れ様です。?」
 いたずらな笑みを浮かべながら壱岐が微笑みかける。

「ほんと、に就職したのね」

 少々棘のある言い方で由希子が言うと、壱岐がたまらず笑い出す。

「そうそう、由希子さんのいる!挨拶した時のあの顔!写真に撮っておきたかった!」
「いつから知ってたの?まさか知ってて入ってきたの?」

 由希子が胡乱な目を向けると、壱岐が笑いながら答える。

「まさか!就職は本当に偶然だよ。でも部署は名刺で分かってたから希望出した。本当に配属されるかは賭けだったけど、研修ものすごく頑張ったからね!あー成功して良かった!この日の為にずっと黙ってたんだ!」
「名刺って…ああ、あの時か…。随分前じゃない。言ってくれればいいのに」

 由希子はほんの数か月前に電話番号とメッセージアプリのIDを書いて渡したことを思い出し、随分と長い仕込み期間に嘆息した。

「言ったら面白くないでしょ」

 エレベーターの扉が開き、乗り込むと壱岐は当然の様に由希子の手を握ってきた。
 その瞬間、由希子の脳裏にあのふわふわのセミロングの女の子が浮かび、壱岐の手を振りほどいた。

「由希子さん?」

 壱岐は驚いたように尋ねる。

「もう、こう言うことは止めましょう。これ以上年上を揶揄わないで。本気になられたら困るでしょう?」

 由希子は俯き、消えそうな声で呟いた。

「え?本気になってほしいよ。俺、由希子さんの事好きだよ」

 何が何だかわからないという様な声を出す壱岐に、由希子はカッとなった。

「だから、揶揄わないで!可哀相なところみて、同情したんでしょ?適当なこと言わないで!彼女がいるのにこんなこと止めましょうって言ってるの!壱岐くんまでこんな事するなんて、そんな人じゃないと思ってたのに!」

 由希子はキッと真っ直ぐに壱岐を睨みつけた。
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