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36 狡猾
しおりを挟むカリスタ王女殿下が優雅に退いていくと同時に、私は小さく息を吐いた。
友人たちが心配そうに視線を寄せてくる。
私は微笑んで「大丈夫よ」と返したけれど――胸の奥には、刺されたような痛みがまだ残っていた。
そんな張りつめた空気を打ち消すかのように、ニコレットが「そういえば!」と明るい声を上げる。
「ルキナ様、この間、観劇に行っていたでしょう? 見かけたのよ!」
「まあ、本当? だったら声をかけてくれればよかったのに」
「いいえ、あれは声なんてかけられないわ。だって――ジークレイン様とご一緒だったんですもの!」
その一言に、場の空気がぱっと華やぐ。
宰相補佐として大人たちに囲まれながらも、落ち着いた笑みを絶やさないジークレイン様。
ニコレットはそんな彼を、うっとりと目で追っていた。
「羨ましいわぁ。ルキナ様は本当に幸せ者よ」
「私も嫉妬しちゃう!」
「それに、そのドレスも……とても上品ですわ。そして何より――ジークレイン様のお色ですものね」
やがて話題は、自然と私の装いに及ぶ。
アヴェリンが微笑ましげに告げる。
淡い薄紫色のドレスを眺める友人たちは、感嘆の息を漏らした。
「ルキナ様は、本当に愛されているのね」
――愛されている。
その言葉に、思わず胸がちくりとした。
「……そう、かしら? 私たちはもともと仲が良かったし、婚約したからといって、大して変わっていないと思うわ」
私の言葉に友人たちは驚いたように目を見合わせ、オーロラが一歩進み出る。
「あれだけお忙しいジークレイン様が、ルキナ様の出席なさるパーティーの出席者名簿をすべて確認していらっしゃるのは――有名なお話ですわ」
「え……?」
耳を疑った。
近頃、私が招かれるのは、伯爵家以上の限られた社交ばかり。
どうやら万が一にも、ロミオやブリトニーと顔を合わせぬよう、激務に追われる彼自らが目を通していたというのだ。
「最初は、ルキナ様が傷つかれぬようにとのご配慮かと思っていました。けれど違いましたの」
オーロラはわざとらしくにやりと笑い、声を潜めた。
「――ジークレイン様が、ロナン卿に仰ったそうですわ。『ルキナがロミオと再会して、昔の想いが蘇ったら嫌だから。絶対に会わせたくないんだ』って」
「「「~~~~っ!!!!」」」
息にもならぬ悲鳴が弾け、友人たちは頬を赤らめ、興奮したように私の手を握る。
「あの完璧なジークレイン様が……恋をすると普通の青年のようになるなんて!」
「ルキナ様の心が揺れ動かないか、不安で仕方ないみたい」
「素敵だわ! 私もそんな風に愛されたい!」
彼女たちの熱に押され、私の胸もまた、じんわりと温かくなる。
「ルキナ様は魅力的だから、誰にも取られたくないと思うのも無理はないわね。だって私も、ルキナ様が大好きだもの」
ニコレットが茶目っけたっぷりに片目をつぶる。
(きっと、私に元気がなかったから、励ましてくれているのね……)
友人たちの気遣いに、胸を打たれる。
楽しい会話の渦に包まれていた、そのときだった。
その幸福感を切り裂くように――背後から冷たい感触が襲った。
「きゃっ――!」
見下ろせば、薄紫色の布地に赤黒い染みが広がっていく。
グラスを持ったまま立ち尽くすのは、カリスタ王女殿下の悪友。
わざとらしい仕草で目を見開き、口元を覆っていた。
「まあ、ごめんなさい。手が滑ってしまったの」
くすくすと笑いが漏れ、周囲がざわめく。
その視線の先――にこやかな笑みを浮かべ、余裕に満ちた瞳でこちらを眺めるカリスタ王女殿下がいた。
(……やはり、あなたの仕業なのね)
背中から裾へと広がる赤は、まるで私の尊厳を踏みにじるかのようだった。
「ルキナ」
そのとき、ジークレイン様が迷いなく歩み寄り、私を庇うように立った。
「ごめんなさい……せっかくいただいた大切なドレスなのに……」
「謝る必要なんてない」
低く、穏やかな声。
ジークレイン様は私をそっと抱き寄せ、濡れた布地に触れぬよう気遣いながら、周囲を見回す。
空のグラスを手にしたカリスタ王女殿下の悪友へ、穏やかに微笑んだ。
「あなたも怪我などはされていませんか?」
「っ……」
その声色は優しく、誰が聞いても淑女を気遣う紳士のそれ。
ニコレットたちは感嘆の声を上げた。
けれど、その瞳には一片の笑みもなく、冷ややかな光が潜んでいた。
悪友の顔から血の気が引く。
「だ……大丈夫でございます……」
か細い声で震える彼女を一瞥すると、ジークレイン様は再び微笑んだ。
「それなら安心しました」
そう言って、柔らかに微笑みを浮かべているけれど、二度と同じことをさせまいとする圧を感じた。
(やっぱり私のために怒ってくれているのね……)
胸に喜びが広がる、そのときだった。
「まあ、ルキナ様。お怪我はございませんの?」
声をかけてきたのは、カリスタ王女殿下だった。
つい先ほどまで私を輪の外に追いやっていたのに、今は心底心配しているような顔で近づいてくる。
まるで舞台女優のような演技力。
その狡猾さに、背筋がゾッとした。
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