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75 ベアテル (※)軽
湯浴みをするため立ち上がると、コンラートが顔を出す。
僅かに狼の血が流れる執事は、使用人の中で最も腕が立ち、ベアテルが信頼する者だ。
「レヴィ様が、聖女スザンナ様とマリアンナ様に、お会いしたいと……」
(――スザンナ・ドレーゼ。テレンスよりも、警戒しなければならない相手かもしれない)
レヴィの敵ではない。
だが、レヴィを愛するベアテルにとっては、強敵でもあった。
ベアテルとレヴィが婚姻したことで、スザンナは髪を切り、生涯独身を貫くことを宣言している。
貴族令嬢にとって大切な髪を切り落としたのだ。
スザンナの決意がどれだけ固いのかは、語られずともわかることだった。
そして一週間後――。
聖女ふたりの来訪により、レヴィが本格的に離縁に動き出したことを、ベアテルは察していた。
レヴィが休息を取り、代役のマリアンナが、早朝から動物の餌やりを始める。
マリアンナが動物に治癒を施せたとしても、ベアテルはレヴィ以外には微塵も興味がない。
鋭く研ぎ澄まされ、嫉妬の色も浮かぶ黄金色の瞳は、スザンナに向けられていた。
(あのお方と同じ寝台で寝たと話していたが、手を出してはいないだろうな……)
今はまだ、レヴィの伴侶はベアテルだ。
名ばかりの伴侶だとしても、レヴィを掻っ攫われることだけは阻止しなければならない。
スザンナでは、いつか襲来するであろうテレンスを退くことはできないだろう。
「あの子は、甘いものが好きみたいです。オヤツには、林檎を与えてあげたら仲良くなれるかと」
レヴィがスザンナに襲われてはいないかと、気が気ではないというのに、マリアンナの茶番に付き合わされるベアテルは、心底うんざりしていた。
昨晩、レヴィが治癒を施した際に、暗闇の中で銀色の光が煌めいていたのだ。
それは、昼間よりも幻想的な光景であった。
レヴィの護衛として後をつけていたベアテルだけでなく、獣の血が混ざる使用人全員が目撃することとなっている。
(それに。この光景を見れば、誰が動物に治癒を施したのかは、一目瞭然だろう)
餌やりをしたマリアンナではなく、遅れて登場したレヴィの周りに、多くの動物が集まってきているのだから――。
「これからは、毎日動物に囲まれて過ごせるだなんて、幸せだなって思います!」
辺境伯夫人の座を狙う卑しい女の発言に、ベアテルは吐き気がする。
レヴィの代役を務めるマリアンナは、かつてテレンスの駒だった。
そんな相手を、レヴィはベアテルにあてがおうとしている――。
悲しみと怒りの感情に支配される。
普段は落ち着き払った態度のベアテルだが、レヴィのことになると、途端に冷静な判断ができなくなっていた。
◇
(……やってしまった)
紫水晶のような瞳に涙を溜めるレヴィを見下ろすベアテルは、後悔の念に苛まれていた。
決して手を出すつもりのなかった、ベアテルの愛おしく清らかな人を、己の欲望のままに穢してしまったのだ――。
半分以上零れてしまった秘薬は、おそらく効果を発揮することはないだろう。
国王陛下より、テレンスの名誉を守った褒美として受け取ったそれは、元々レヴィに渡すつもりのものだった。
今もレヴィが愛しているテレンスが、いつの日かレヴィを迎えに来た時。
レヴィがテレンスの行いを許し、伴侶になりたいと願った時に、きっと役に立つものだから――。
しかし、レヴィの治癒の光と同じ色の秘薬は、シーツの染みになって消えた。
そして、いつかベアテルが理性を失っても、レヴィがベアテルの子を身篭ることはなくなった。
それと同時に、愛するレヴィを、辺境伯夫人の座に縛り付けられなくなった。
だが、これでレヴィが、テレンスとの子も身篭ることがないとわかり、喜んでいる己がいる。
(俺は、なんと浅ましい人間なのだろうな? このお方の幸せだけを願っていたはずだったのに――)
過去の己の行動を振り返るベアテルは、自嘲気味に笑った。
ベアテルを治癒し、眠りについたレヴィが早く目覚めるように、手を握った。
死の森に行く際に、レヴィを守りやすいようにと手を繋いだ。
毎日顔を合わせ、一番に朝の挨拶をした。
動物の治癒をするレヴィに付き添い、誰よりも近くに居続けた。
レヴィの手作り料理を口にし、揃いの衣装を身に纏って歓喜し、醜態を晒してきたのだ。
(……俺ばかりが幸せだったように思う)
頬を赤く染め、無防備なレヴィを見下ろすベアテルは、ぎりぎり理性を保っている。
このままでは、取り返しがつかないことになる。
一刻も早く去ろうとするのに、レヴィの手はまるでベアテルを求めるように服を掴んで離さない。
「レヴィ」
「っ……んぅ」
離縁したいと願うほど恨む相手に名を呼ばれたというのに、レヴィの小さな口から漏れる声は、普段より何倍も甘かった。
既に制御不能となり、飛び出してしまっているベアテルの醜い耳が、レヴィの愛らしく、艶やかな息遣いを拾う。
普通の人間より聴覚が優れ、高音に敏感なベアテルは、レヴィの声がもっと聴きたくて仕方がない衝動に駆られていた。
「っ、ふ、ぁ……」
甘い果実のような舌を吸う。
清い生活を送っていたレヴィに、おそらく口付けの経験などないだろう。
口付けの合間に鼻先が触れただけで、レヴィの華奢な体はびくりと震えている。
それなのに、拙い舌使いで、懸命にベアテルに応えようとしていた。
――たまらなく愛おしい。
長く美しい睫毛が震え、伏せられていた瞳がベアテルを捉える。
咄嗟に離れたベアテルだったが、とろんとした瞳は、ベアテルから逸らされることはなかった。
無意識のうちにごくりと唾を飲む。
罵倒されても致し方ない行動を取ってしまったベアテルだが、互いに引き寄せられるように唇を重ねていた。
「んっ」
レヴィが嫌がっていないからと、いくらなんでもやりすぎだ。
もしかすると、レヴィはベアテルに怯えているだけかもしれない。
(――最初で最後の口付けだ)
心の中でレヴィに詫びたベアテルは、優しく唇を啄み、そっと離れる。
「ぁ…………ベアテル、さま……?」
ベアテルの名を呼ぶその甘い声は、もう終わりなのかと。
潤む薄紫色の瞳は、まるでもっとしたいと訴えているかのように、ベアテルを見つめている。
とても都合の良い夢を見ているようだった。
「くっ、」
どう頑張ってもレヴィへの想いが抑えきれない。
それでも必死に歯を食いしばるベアテルは、眠るようにと、優しくレヴィの目元を撫でる。
今のベアテルは、純粋無垢なレヴィに、到底見せることはできない顔をしているはずだ。
なんとか愛おしい人を寝かしつけたベアテルは、一線を越えることなく安堵する。
だが、レヴィの手はベアテルの服を掴んだままだった。
「――あなたのそばにいたいのに……。あなたといると、俺は狂ってしまいそうだ」
レヴィを起こさぬよう息を殺すベアテルは、暫くの間、寝台に突っ伏していた。
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