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第二部 第四章 衝撃
1.Pox~ポックス~
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20XX年6月15日(土)
早朝6時頃、ギルフォードの寝室に携帯電話の着信音が響いた。
「う……ん……? こんな早い時間に誰かねー?」
ジュリアスはのそっと毛布から手を伸ばして、寝ぼけ眼でベッドサイドに置いてある電話を取った。
「ほい、ジュリアス・キングだなも」
「……? ……もしもし?」
ジュリアスの声を聞いて、電話の向こうの声は明らかに動揺していた。
”バカヤロ! それは俺の電話だ!”
ギルフォードは飛び起きて彼に背を向けて寝ているジュリアスにのしかかると、電話をひったくった。
「アレックス、重いがね!!」
ジュリアスが抗議したが、ギルフォードは意に介さずその体勢のまま急いで電話に出た。
「驚かせてすみません。ギルフォードです」
「お楽しみのところ、申し訳ないのだが……」
「え……?」
ギルフォードはギクッとしてジュリアスから飛びのいた。ジュリアスが驚いてふり返り、きょとんとしてギルフォードを見る。
「いや、一度言ってみたかったんだがね、図星だったのかね?」
電話の主は高柳だった。ギルフォードは朝からいきなり脱力感を覚えたが、とりあえず否定した。
「いいえ! 今は眠ってました」
「『今は』?」
「いえ、だから……」
「昨日中にやっつけてしまいたい仕事があるって言ったのは、そういうことだったのかね。ほ~お」
「急な来客で予定を変更したんです……ってあのね、僕のプライベートなんかどうでもいいでしょう。こんな早朝から何です? 何かあったんでしょ?」
ギルフォードの頭の中には多美山の顔が浮かんでいた。
「そうそう、今、連絡が入ったんだが、新たな感染者らしい男がこちらに搬送されているそうだ。それで、出来たら君にも来てもらいたいんだが……」
「感染者である可能性は高いのですか?」
ギルフォードは、多美山のことではなかったのでほっとした反面、新たな感染者発生の可能性に嫌な予感が彼の脳裏をよぎった。
「今朝方急に発熱したらしいんだが、それが、秋山珠江の遺体の第一発見者なんだ」
「タマエの時? じゃあ、一週間以上経っているじゃないですか」
「ああ、10日は経過している。しかし、感染の可能性を考えるのが当然だろう」
「もちろんです。わかりました。すぐに用意してそちらに向かいます」
「お疲れの所すまないが、出来るだけ早く頼むよ。じゃ」
「だから……!」
高柳は自分の用を告げるとさっさと電話を切ってしまった。
”食えねぇオヤジだ!”
ギルフォードは電話に向かって言い、ベッドから起きあがった。ふと横を見ると、ジュリアスが「くっくっくっ……」と、声を殺して笑っていた。ギルフォードはベッドから降りると、前かがみになってベッドに左手をつき、寝転がったまま笑うジュリアスの鼻面に右手の人差し指をつき付けて言った。
”このばかやろう! てめえが寝惚けて人の電話に出るから,話がややこしいことになったんじゃねぇか!!”
”ごめんよ.君んちに泊まっていたことをすっかり忘れててさ”
ジュリアスは毛布にくるまったまま笑いながら答えた。ギルフォードは立ち上がると腰に手を置き、すこし不機嫌そうに言った。
”昨夜のことを忘れただって?”
ジュリアスはそんなギルフォードを見て一瞬目を見開いたが、すぐにまたクスクス笑いながら答えた。
”しっかり覚えているさ.君は元気だった.おかげでよく眠れたよ”
”じゃあ,今日は1日寝てろ,大馬鹿野郎.俺は今から出かけるからな”
”君、昨日から人のことを馬鹿馬鹿ってさ、あまり馬鹿っていうなよ.体内の水が悪いものになるだろ?”
”1ナノメートルも信じていないことを,ニヤニヤ笑いながら言うんじゃねぇ!! だいたいどこでそんな’トンデモ’話を仕入れてきたんだよ”
”笑われたくないなら,せめてパンツくらいはけよ.目の前にそんなものがあったらさ,笑うしかないだろ? 変わってないなぁ”
ジュリアスは相変わらずクスクス笑いながら言った。ギルフォードは日常的に寝るときは素っ裸なので、そういうことに無頓着なのだが、改めて指摘されると流石に照れくさくなったらしい。少し顔を赤らめながらジュリアスに背を向けてベッドの端に座ると、振り向き様に言った。
”だいたいおまえは……”
しかし、彼は言いたいことを言えなかった。ジュリアスがすばやく毛布から這い出して両手でがっしりとギルフォードの顔を掴むと、そのまま彼の口を塞いだからだ。そして約一分経過……。ようやく自由になったギルフォードは引き続き何か言おうとしたが、それより先に、ジュリアスがベッドに正座した状態で膝に両手を置きにっこり笑って言った。
”愛しているよ,アレックス”
”お、おまえな……”
”ほらね,君は誰彼なく愛しているって言うくせに,自分が言われると戸惑うんだ”
ジュリアスはクスッと笑っていうと、戦意喪失したギルフォードを横目にベッドから飛び降りた。
”僕も行くよ.だって,兄のクリスから君の手助けをするように頼まれたんだからね”
”クリスから?”
”そうだよ”
ジュリアスはギルフォードの横に座りながら言った。
”近いうちにCDCから協力したいというオファーが来るはずだよ.だけど,クリスが君が心配なら行って様子を見て来いって言うからさ,とりあえず来てみたんだ.一週間の滞在だけどね”
”何だ、一週間か……、じゃなくて……”
ギルフォードは慌てて言い直した
”もう献体が届いたのか?”
”僕が国を出るときはまだだったけど,問題はその前に君が送ってきたウイルスさ,インフルエンザの”
”やはり,何かおかしかったのか?”
”これはCDC内でもまだ極秘事項らしいけど,ちょっとした騒ぎになっているらしいよ.クリスは,君から日本で出血熱らしい感染症が発生しているらしいと聞いて,なんとなく気になってお蔵入りしていたそのインフルエンザウイルスを調べてみたんだ”
”それで……?”
ギルフォードは、やっぱりお蔵入りしていたか、と思いつつ尋ねた。
”で,手始めに,どのウイルスの抗体に反応するか試してみた.そしたらどうなったと思う?”
”インフルエンザじゃなかったのか?”
”いや,間違いなくインフルエンザだった.A型のよくあるタイプさ.ところがもうひとつ,ほんのわずかだが別の抗体の反応があったんだ”
”何だって? で、それは?”
”デングウイルスさ”
”あり得ねぇ!!” ギルフォードが驚いて言った。”キメラだったってのか?”
”多分ね,今解析中らしいけど……”
”おまえ,そんな大事なことは昨日のうちに言え!!”
”だってそんな雰囲気じゃなかったじゃん.研究室でだって,パソコンのウイルス騒ぎで大変だったし…….とにかく”
と、ジュリアスはギルフォードと自分を交互に見ながら言った。
”いつまでもこんな格好でうだうだしている場合じゃないな”
ジュリアスはニッと笑って続けた。
「ちゃっと服を着て出かけよまい」
”くそっ、調子が狂うぜ!!”
ギルフォードは頭を横にふりながら言った。
由利子は7時過ぎに目を覚ました。猫たちのご飯クレクレ攻撃にあったからだ。このところ休日では7時起きが定着しつつある。これが8時起きにならないようにしなくっちゃ、と由利子は思った。しかし、起き上がって周囲を見回しため息をついた。昨夜は必要最低限しか片付けられなかったので、まだ部屋の大半は荒れたままだったし、さらに、昨夜は大量の捜査員が部屋に上がったので、いくら彼らが足カバーに手袋などの措置をしているとはいえ、あまり気持ちいいものではない。その上パソコンのリカバリもしなければならないのだ。
「今日は大ごとやね……」
由利子はつぶやいた。
「多美山さんに今日もお見舞いに行くって言っちゃったもんなあ……。でも」
由利子は昨日あのまま窓際で転寝をしてしまい、3時ごろ起きてざっとシャワーだけ浴びて寝たので、髪を洗いたくて仕方がなかった。
「とりあえず起きて考えようかね、にゃにゃたん春たん。まず、シャワーを浴びて髪を洗って……、あ、その前におまえたちのご飯だね」
そう猫達に話しかけると、よいしょと起き上がった。
「やだな。これじゃすっかりおばさんだね」
由利子は苦笑いをした。起きると猫たちもベッドから降りて足元をスリスリし始めた。由利子はその状態でキッチンへ行き、猫たちにご飯を与えた。彼女らがちゃんと食べるのを見届けると、シャワーを浴びようとタオルをもって脱衣カゴに入れながらふと思った。
(そういえば、紗弥さん彼氏が来ているって言ってたなあ。昨日はラブラブかあ。私とはえらい違いやね)
由利子はふうっとため息をついた。由利子は、実はラブラブだったのがギルフォードの方だったことは知る由もない。
タオルを持って来たものの、由利子はやはりその前に日課のジョギングに出ようと思い、用意して玄関に向かったが、ドアの鍵が壊れたままなのを思い出した。これでは物騒でジョギングどころではない。とにかく鍵の修理を呼ばねばどうしようもないということだ。由利子は試しにチェーンを外して玄関のドアを開けてみた。そこにはしっかりと警察官が立ってくれていた。しかし、それをすっかり忘れていた由利子は一瞬驚いてしまった。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
見張りの警察官が由利子に気がついて笑顔で言った。
「あ、おはようございます。おかげさまで安心して眠れました。ありがとうございます。あなたは大丈夫なんですか?」
「私は6時ごろ交代しましたから大丈夫です」
(あ、交代したんだ。だから眠そうにないのね)
由利子は納得したが、このまま警察官に立たれるのも申し訳ないし、何となく周囲にも気まずいと思って言った。
「あの、もう起きましたので、見張りは……」
「いえ、そうはいきません。少なくとも鍵の修理が終わるまでは、ここから引き上げるわけにはいきませんから」
生真面目そうな若い巡査は、そういうとまた見張りの体勢に戻った。
「はあ、ありがとうございます……」
由利子は仕方なくお礼を言うと室内に引っ込んだ。そのタイミングで件の警察官の「おはようございます」と隣の住人の戸惑った「おはようございます」の声が聞こえ、由利子は頭を抱えた。
(ううう、ご近所に説明と迷惑かけたお詫びをしに回らなくちゃ。それに、さっさと鍵屋さんを呼ばないと、気になってシャワーも浴びられないぞ)
そう思った由利子は、ネットで鍵屋を検索しようとパソコンの前に立って思い出した。
「ああっ、リカバリしないと使えないんだった~~~~~」
朝から脱力した由利子はその場で座り込んだが、すぐに立ち上がった。
「画面見辛いけど携帯電話で探そう……。いや、だったらタウンページの方が探しやすいか。ちょっと古いけど大丈夫やろ。ああ、不便だなあ……。ちくしょ~、結城のクソッタレめぇ、必ずこの由利子さんが見つけ出してやるからな!!」
由利子は朝からぶつぶつと結城に悪態をつきながら、固定電話の方へ電話帳を取りに行った。
その頃ギルフォードたちは、ガラス越しに新たな感染者と対面していた。
結局彼らは8時をかなり過ぎて感染症対策センター内にたどり着いた。ジュリアスの立ち入りについての連絡が行き届いておらず、門前でたっぷり30分以上待たされたからである。
「こんなことなら、もうちょこっとゆっくりしてから来りゃえかったがね」
ようやく許可が下りて車が動き出すと、ジュリアスは助手席でブツブツ言った。
「30分もあれば、おみゃあと……あいた! 何をするだなも」
「僕を殺す気ですか」
「言うたかて頭を殴るこたぁにゃーがね」
「冗談じゃありませんよ。それでなくても僕は連日寝不足なんですから」
「つまらにゃあ、日本語にもどったんかね」
ギルフォードは、隣でブツブツいうジュリアスを無視して、センター内に車を走らせたのだった。
「紹介しましょう」
高柳が三郎に言った。今回は高柳も重装備で隔離病室内に入っていた。
「あちらの背の高いほうが、アレクサンダー・ギルフォード、Q大ことクイーンズナイツ大学で教授をしていますが、ここの顧問でもあります。それからその隣が、彼の友人でアメリカのH大で講師をされている、ジュリアス・キング先生です。両者とも優秀なウイルス学者ですし、日本語も堪能ですからご安心なさってください」
紹介が終わり二人が会釈をすると、三郎は、ベッドに横たわったまま、力なく挨拶をした。
「先生方、この方は川崎三郎さんです。秋山珠江さんのご近所に住んでおられ、彼女の遺体を発見された方の中のお一人です。当日、一度ここに来てお話を聞かせてもらいましたが、ギルフォード先生はお会いされていないですよね」
「ええ、僕は外せない用があったので来られませんでしたが、内容はお聞きしています。大量の蟲に遭遇されたとか……?」
「はい」
三郎は答えた。
「実はその時、そいつに咬まれまして……」
「なんですって? 何故それをおっしゃらなかったんですか?」
「すんません、怖かったとです。言うたら二度とここから出られんごと気がして……」
「あなたはそれがどんな危険なことかわかっていらっしゃらない!!」
ギルフォードは、静かだが厳しい口調で言った。
「待ってちょーよ、アレックス。普通の人にそれを責めるのは酷だて」
ジュリアスは、三郎が萎縮するのを見てフォローした。高柳はうんと頷いて言った。
「そうですね。無理からんことです。しかし、川崎さん、あなたの行動が奥さんをはじめ周囲にまで危険が及ぶことまで考えましたか?」
そう言われて三郎はしょげ返ってしまった。
「先生方」
高柳が言った。
「川崎さんが咬まれた患部をお見せしましょう。驚かれないように」
そういいながら、高柳は三郎の足元の毛布をめくって右足を出し、包帯を取ってその問題の場所を見せた。
「うっ!」
ギルフォードは思わず右手で口を覆ってうめいた。
三郎の足の蟲に噛まれたという箇所を中心にしたおよそ掌くらいの面積に膿を持った直径1㎝程のできものがびっしりと覆っていた。ジュリアスは目を見張ってガラス窓に顔を近づけ言った。
「なんと、どえりゃあことになっとりゃーすがね」
”これは……”
ギルフォードは英語で言いかけて言葉を飲み込んだが、ジュリアスがその続きを言った。
”まるで天然痘の発疹じゃないか!!”
”そうです”と、高柳も英語で答えた。”非常に酷似しています.でも,今までの犠牲者を調べた限りでは痘瘡ウイルスは見つかっていないのです.おそらく川崎さんについても同じでしょう”
高柳の答えを聞いて、二人は顔を見合わせた。英語のわからない三郎は、驚く二人と高柳の顔を不安そうな表情を貼りつかせたまま、交互に見つめていた。
川崎三郎との対面後、高柳はセンター長室に二人を招き、尋ねた。
「さて、君達はあれを見てどう思うかね?」
「非常に嫌なものを見ました」
ギルフォードが言った。
「何なんですか、あれは!」
「私に聞かれても困るが……」高柳は右手でアゴをつるりと撫でると言った。「今までと言ったが、実は昨夜運びこまれた遺体にも、よく見たら顔と右手に似たような発疹のような跡があったんだ。まあ、そっちの方はだいぶ蟲に食われていたから、はっきりとはわからなかったけどね」
「蟲に……」そういうとギルフォードは嫌な顔をして黙り込んだ。嫌悪感がまざまざと現れた表情だった。黙ってしまったギルフォードに代わってジュリアスが聞いた。
「そりゃー、そのムシに咬まれた時特有の症状だとゆーことですか?」
「うむ、少なくとも今まで調べた遺体にはそのような発疹の形跡は無かったですからな」
「気になるのは、そいつがsmallpox(痘瘡=天然痘)の発疹にそっくりとゆーことですが」
「まあ、よく似てはいるが咬まれたあたりに部分的に出来ているだけで、さっき言ったように、今まで調べた結果にも痘瘡の可能性はまったくありませんでしたから。それに痘瘡なら全身、特に手足や顔にびっしり発疹がでる筈です」
「だけど、で~らいやーな感じがするんですよ」
ジュリアスは、腕を組みながら眉を寄せて言った。
「ところで」ジュリアスは続けた。「そのムシは、ほんとにローチだったんですか?」
「昨日、現場の警察官が写真に収めたものがあるので、見たければお見せしますが……」
「おー、それは好都合なんで見せてくれませんか? でも、アレックスには見せんほうがええでしょう。トラウマに触れたら大変だし」
それを聞いて、高柳は驚くとともに興味を持ったらしく少し身体を乗り出して言った。
「嫌いなことは知っていたんだが、トラウマがあったのか」
「まあ、そーゆーことです。ん~と、アレックスは……」
「ジュリー、待ってください!」
ギルフォードは、珍しく鋭い声でジュリアスを止めた。驚いてギルフォードの顔を見るジュリアスの肩をぽんと叩くと彼は言った。
「それは僕から説明します。子供の頃父に叱られて地下室に閉じ込められた事があるんです。その時にたかられて以来、どうも……」
「アレックス、それってウェタの……」
ジュリアスは何か言おうとしたが、ギルフォードの顔を見て口をつぐんだ。高柳はその様子を見て、少しだけ眉を上げると言った。
「まあ、そういうことならギルフォード君は無理して見なくてもいいから。じゃあ、キング先生、写真をお見せしましょう」
高柳は応接セットの椅子から立ち上がると自分の机に行き抽斗(ひきだし)からファイルを持って戻ってきた。
「これです。犠牲になったホームレスの遺体写真も入っていますから、閲覧には気をつけてください」
高柳はファイルをジュリアスに手渡しながら言った。
「その心配はないですよ。おれも医者の端くれですから」
ジュリアスはそういうと躊躇なくファイルを開いたが、その瞬間ウッという顔をすると方言全開で言った。
「こりゃー、でらムゴイ遺体だなも。さすがにおでれ~たわ」
しかし、その後は心の準備が出来たせいか、ジュリアスは特に顔色を変えることなくファイルをめくった。
「う~ん、どえりゃあ写真ばかりですね。こんな死に方はしたくないもんです……、ああ、これですね」
ジュリアスはそういうとページをめくる手を止めた。
「アップの写真がありりますが、比べるもんがなくて、これじゃ~大きさがわからんですね……っと、警察官がムシを捕獲しようと狙っとる写真がありますね」
ジュリアスは、ファイルに顔を近づけ、再び方言全開で言った。
「こりゃ~でらでっけぇわ。ざっと3インチ(約75mm)はありそうだがね。こりゃ~さすがに気持ち悪ぃわ。でも写真を見る限り外来の巨大種とは違ゃあみたいだで、なあ、アレックス、こりゃあ……」
と言いながら、ジュリアスがファイルから顔を上げてギルフォードの方を見ると、彼は青い顔をして反対側を向いていた。仕方がないのでジュリアスは高柳に向かって言った。
「これは、なんとしても現物を捕まえないといけないのでは? 写真じゃあ病原体について調べようがないでしょう?」
「キング先生、確かにおっしゃるとおりです。しかし、連中はでかいくせにかなりすばしっこくて、なかなか捕まらんらしいのですよ」
「日本にはええもんがあるじゃあないですか。ローチホイホイとか言いましたかね」
「あの蟲はかなり大きいので、素通りしてしまう可能性がありますな。それでなくても最近のゴキブリには知恵がついて、なかなか引っかからないんですよ」
高柳からゴキブリという単語が出たので青い顔に一瞬嫌悪感をあらわにしたが、ギルフォードは二人の方を向いて言った。
「ネズミ用の大きいのがあるでしょう。そいつを仕掛けてみるのはどうですか?」
「なるほどね」高柳は言った。「確かにそれなら充分だろう。だが、ネズミ用にゴ……失礼、あの蟲が寄って来るかね」
「奴らは感染者の遺体の臭いに反応するんでしょ?」
ギルフォードはさらに顔をしかめながら言った。
「ならば、その臭いをつければいいんですよ。もちろん、臭いの元は人に感染しないように無毒化して」
「それを遺体のあった場所あたりに仕掛けるのか。なるほど、試してみる価値はありそうだな」
高柳はにやっと笑って言った。
「犠牲者のホームレスが発見された河川敷は、広範囲に立ち入り禁止になっとる筈だから、ちょうどいいな」
「おれにその捕獲をやらせてくれないしょうか」
「君が?」
高柳が聞いた。ジュリアスは自信満々に言った。
「おれも、ウイルスハンターの端くれなんで、こういうことには慣れてますから」
「わかりました。知事に直接掛け合ってみましょう」
高柳は請合った。
「ありがとうございます」
「じゃあ、助手と護衛を兼ねて葛西刑事にサポートをしてもらえるようお願いてみよう。ギルフォード君、もう彼はテロ対策本部の仕事をしているんだろ?」
「ええ。まだ正式には拝命してないので籍はK署にあるようですが」
「じゃあ、なおさら適役だな」
葛西と聞いて、ジュリアスが言った。
「葛西さんならまったくの素人じゃないらしいですから、期待できますね。感謝します、センター長!」
ジュリアスは高柳に向かって丁寧に礼を言ったあと、ギルフォードの方を見て言った。
「実を言うとよ、おれ、葛西さんと一緒に仕事をしてみたかったんだなも」
彼はそう言いながら、軽くウィンクをした。ギルフォードは少し困ったような顔をしたが、そのまま黙っていた。しかし、蟲のことが堪えているのかいつものアルカイックスマイルが浮かばない。それを見ながら高柳がジュリアスに言った。
「彼にとって、あの蟲はよっぽどの弱点のようですな」
高柳は、ギルフォードのさっきの話程度でそこまでトラウマになるのか、そもそも地下室とはいえ英国にあの虫はいただろうか等と疑問に思ったが、深く追求することは避けた。
「まあ、誰でも色々ありゃーすがね」
ジュリアスが、肩をすくめて言った。
「ところで、例の蟲の話に戻って申し訳にゃーけどな、アレックス」
彼はそのまま質問を続けた。
「念のために聞くがよ、あれはああいうでっきゃぁのが日本におるんかね、それとも突然変異で生まれたんかね」
ギルフォードは、また眉間にしわを寄せながら言った。
「あのような大きさのGが……」
「G? ああ、頭文字かね……ってすまんね、話の腰を折ってしもうて」
「……。……それがこの国に生息しているとは……、少なくとも九州本島に昔から生息しているとは思えませんし、外来種でもないようです。可能性としては、ウイルスが原因の突然変異……」
「ウイルス進化説かね。だがよ、あれはトンデモに近い説やて思ぉとったがね」
「そうですね、自然界では起こりにくいと思います。しかし、このウイルスが人為的に操作されている可能性を考えると、その可能性も捨てきれないでしょう。実際、信じられないサイズのG……が存在しているのですから」
「人為的にだって?」
高柳が驚いて聞き返した。
「はい。まだはっきりとは言えないので申し訳ないですが、ジュリーからの情報でその可能性が出てきたのです」
ギルフォードが答えると、高柳は腕組みをしながら言った。
「うむ、ますますSFもどきな話になってきたな」
「不確かなことなのでで、絶対に口外しないください」
と、ジュリアスが釘を刺した。
「もちろんそうしますがね」高柳は、ジュリアスの方を鋭い目で見ながら言った。「確実なことがわかり次第教えてくださいよ。アメリカの国益優先ってヤツだけは勘弁して欲しいですからな」
「おれもアレックスもそう思っているんで、心配せんでええですよ」
「ところでこのデータですが……」
ギルフォードが口を挟んだ。
「高柳先生、ひょっとして僕が帰ってから作られたんですか?」
「ああ。夜中に鑑識からメールで蟲についての調書が送られて来てね。ついでに運ばれた遺体も調べておこうと思って安置室に行ったら、つい興に入ってしまってね。山口君と春野君も手伝ってくれたんだが、遅くなったので彼女らは帰して、僕だけ残ったんだ。そして、気がついたら夜が……明けてしまって……」
そこで、高柳は大きなあくびをした。
「寝てないことを思い出したら急に眠くなったよ」高柳はテレ笑いをすると続けた。「それで仮眠を取ろうと思ったら、緊急電話が入って感染者が運ばれて来るというだろ。それで急いで君に電話したのさ、ギルフォード君」
「たしか、その前も多美山さんの件で徹夜してますよね? いったいいつ寝ているんです、先生?」
「ああ、空いた時間を見繕って適当に寝てるよ。おかげで半分吸血鬼みたいな生活……だ……」
高柳は、そこでまたあくびをすると言った。
「そういうことで、私は君らが羨ましいよ。多少はぐっすりと眠れただろうからね」
高柳の皮肉とも冷やかしとも取れる発言に、ギルフォードとジュリアスは顔を見合わせた。
高柳が仮眠をとりに行ったあと、残された二人は例の自販機の前のソファで、缶コーヒーとペットボトルの紅茶を飲みながら休憩をしていた。
「僕はこれから講義がありますので大学に帰りますが、君はどうしますか、ジュリー?」
「ここに残っていてもええんなら、居りてぇんだてが、ええかねー?
「君がみんなの邪魔をしないでいい子にしているのなら」
「了解。ところで、例の篠崎ゆう子さんだがよ、今日もここに来るんだてか?」
「シノハラ ユリコですよ。来ると言ってましたが、昨日の今日ですからねえ、どうでしょうか」
「えー、つまらにゃあ。彼女にも是非会いてぇんだが。おれはね、おみゃーさんが気に入った人みんなに会いてぇんだ」
「まったく、僕が誰を気に入ったとかそういうことを誰から聞いたんですか」
「紗弥からに決まっとるがや」
「まったくもお……」
ギルフォードはため息をつきながら、上半身を伏せ、左ひざに左ひじを立て頬杖をついた。
葛西は、ひとり早朝から事件のあった公園周辺で聞き込みをしていた。ホームレスとウイルスの関連が気になったためである。その甲斐あって、二つのことが浮かび上がってきた。
ひとつは、葛西が公園について質問すると大抵「あなたも?」という答えが返ってくることだった。聞くと、若い女性から質問されたという。
(誰か、それも、若い女性がこの件に興味を持っている……?)
葛西は嫌な予感がした。あの、極美とかいう元グラドルのことが頭をよぎったからだ。あの女はやはり食わせ者だったのか……、と葛西は思った。
もうひとつは、あの公園でホームレスと会社員らしき男が言い争っているのを目撃したという人を見つけたことだ。
土曜休みでいつもより遅く犬を散歩させているというその男性は、樫本伊佐夫という40歳半ばくらいの会社員で、通勤時にいつもその公園の傍を通っている人だった。以前は公園内を突っ切ったほうが近いので、いつも公園を通って通勤していたらしい。現在封鎖されているので非常に不便だと彼はぼやいた。
「えっと、どんな状況だったんですか?」
葛西が質問すると、彼はえ~っと、と少しの間考えて言った。
「もう何ヶ月か経ちますんで、よく覚えとらんとですが、その日は残業で9時過ぎにあの公園を通ったんです。そしたら公園の中ほどで、女性を連れた会社員風の男がホームレスの男と激しく言い争ってました。……いや違う、激しく言ってたのは会社員の方で、ホームレスは終始落ち着いて受け答えしてましたね。なんか常識が逆転したような、異様な感じがしたので覚えてます。私は関わろうごとなかったんで、そのままそ知らぬ顔でそこを通り抜けましたが、少し歩いたところでいきなり歓声が上がったので驚いて振り返りました」
「歓声が?」
「はい。振り返ると、連れの女性が男を引っ張るようにして公園を出ようとしていました。言い合いで仲間が勝ったので、歓声が上がったのでしょう。ホームレスたちは、その後二人を盛んにからかっていました」
「何か、特徴ある名前とか単語が出てませんでしたか? 思い出されたら何でもいいので教えてください」
「そうですねえ……。う~んと……」
葛西に促されて、樫本はしばらく考えていたが、ぽんと手を叩いて言った。
「そうそう、『やすやん、いいぞ!』と、みんな口々に言ってました。それで、ああ、あの落ち着いたホームレスの人は『やすやん』と呼ばれているのか、って」
「やすやん、ですか」
葛西は繰り返した。
(やすやん……安やん……。多分それは安田さんのことだ!)
彼は確信した。念のため、樫本に結城の写真を見せてみることにした。
「女性連れの男は、この人じゃないですか?」
「うーん、もうちょっとよく見せてください」
樫本は首をかしげながら写真をじっと見て言った。
「何分、夜だったし、街灯があったとはいえ会社員の男の方は僕から見て逆光だったので、顔はよくわからんかったですもんなあ。この人だったような、違うような……」
「そうですか……」
葛西は少しがっかりして言った。
「そろそろ行ってもよかでしょうか?」樫本が聞いた。「犬が散歩の続きがしたくて、そわそわし始めとぉとですよ」
見ると、彼の愛犬がお座りをしたり立ったりしながら、熱い眼をして飼い主を見ていた。
「あらら、申し訳ありません。ええっと、良かったら連絡先を教えてほしいのですけれど」
「ああ、いいですよ」
樫本は、快く住所と携帯電話の番号を教えると、犬に引っ張られながら去って行った。
「点が線に繋がったみたいだ」葛西はつぶやいた。
「結城の狙いが何だったかわかったような気がする……」
葛西はその場に立ったまま今聞いたことのメモを整理しながら、少しだけ核心に近づいたような手ごたえを感じていた。
******************************
ジュリー君の名古屋弁は「なんちゃって」かもしれませんが、彼の保護者だったアメリカ人のおばあちゃん(再婚して名古屋に住んでいた)がそういう話し方だったという設定なので、温かい目で見守ってください(だからおばちゃん言葉も混じっていると思います。
彼はほんとにすごくいい奴です。
早朝6時頃、ギルフォードの寝室に携帯電話の着信音が響いた。
「う……ん……? こんな早い時間に誰かねー?」
ジュリアスはのそっと毛布から手を伸ばして、寝ぼけ眼でベッドサイドに置いてある電話を取った。
「ほい、ジュリアス・キングだなも」
「……? ……もしもし?」
ジュリアスの声を聞いて、電話の向こうの声は明らかに動揺していた。
”バカヤロ! それは俺の電話だ!”
ギルフォードは飛び起きて彼に背を向けて寝ているジュリアスにのしかかると、電話をひったくった。
「アレックス、重いがね!!」
ジュリアスが抗議したが、ギルフォードは意に介さずその体勢のまま急いで電話に出た。
「驚かせてすみません。ギルフォードです」
「お楽しみのところ、申し訳ないのだが……」
「え……?」
ギルフォードはギクッとしてジュリアスから飛びのいた。ジュリアスが驚いてふり返り、きょとんとしてギルフォードを見る。
「いや、一度言ってみたかったんだがね、図星だったのかね?」
電話の主は高柳だった。ギルフォードは朝からいきなり脱力感を覚えたが、とりあえず否定した。
「いいえ! 今は眠ってました」
「『今は』?」
「いえ、だから……」
「昨日中にやっつけてしまいたい仕事があるって言ったのは、そういうことだったのかね。ほ~お」
「急な来客で予定を変更したんです……ってあのね、僕のプライベートなんかどうでもいいでしょう。こんな早朝から何です? 何かあったんでしょ?」
ギルフォードの頭の中には多美山の顔が浮かんでいた。
「そうそう、今、連絡が入ったんだが、新たな感染者らしい男がこちらに搬送されているそうだ。それで、出来たら君にも来てもらいたいんだが……」
「感染者である可能性は高いのですか?」
ギルフォードは、多美山のことではなかったのでほっとした反面、新たな感染者発生の可能性に嫌な予感が彼の脳裏をよぎった。
「今朝方急に発熱したらしいんだが、それが、秋山珠江の遺体の第一発見者なんだ」
「タマエの時? じゃあ、一週間以上経っているじゃないですか」
「ああ、10日は経過している。しかし、感染の可能性を考えるのが当然だろう」
「もちろんです。わかりました。すぐに用意してそちらに向かいます」
「お疲れの所すまないが、出来るだけ早く頼むよ。じゃ」
「だから……!」
高柳は自分の用を告げるとさっさと電話を切ってしまった。
”食えねぇオヤジだ!”
ギルフォードは電話に向かって言い、ベッドから起きあがった。ふと横を見ると、ジュリアスが「くっくっくっ……」と、声を殺して笑っていた。ギルフォードはベッドから降りると、前かがみになってベッドに左手をつき、寝転がったまま笑うジュリアスの鼻面に右手の人差し指をつき付けて言った。
”このばかやろう! てめえが寝惚けて人の電話に出るから,話がややこしいことになったんじゃねぇか!!”
”ごめんよ.君んちに泊まっていたことをすっかり忘れててさ”
ジュリアスは毛布にくるまったまま笑いながら答えた。ギルフォードは立ち上がると腰に手を置き、すこし不機嫌そうに言った。
”昨夜のことを忘れただって?”
ジュリアスはそんなギルフォードを見て一瞬目を見開いたが、すぐにまたクスクス笑いながら答えた。
”しっかり覚えているさ.君は元気だった.おかげでよく眠れたよ”
”じゃあ,今日は1日寝てろ,大馬鹿野郎.俺は今から出かけるからな”
”君、昨日から人のことを馬鹿馬鹿ってさ、あまり馬鹿っていうなよ.体内の水が悪いものになるだろ?”
”1ナノメートルも信じていないことを,ニヤニヤ笑いながら言うんじゃねぇ!! だいたいどこでそんな’トンデモ’話を仕入れてきたんだよ”
”笑われたくないなら,せめてパンツくらいはけよ.目の前にそんなものがあったらさ,笑うしかないだろ? 変わってないなぁ”
ジュリアスは相変わらずクスクス笑いながら言った。ギルフォードは日常的に寝るときは素っ裸なので、そういうことに無頓着なのだが、改めて指摘されると流石に照れくさくなったらしい。少し顔を赤らめながらジュリアスに背を向けてベッドの端に座ると、振り向き様に言った。
”だいたいおまえは……”
しかし、彼は言いたいことを言えなかった。ジュリアスがすばやく毛布から這い出して両手でがっしりとギルフォードの顔を掴むと、そのまま彼の口を塞いだからだ。そして約一分経過……。ようやく自由になったギルフォードは引き続き何か言おうとしたが、それより先に、ジュリアスがベッドに正座した状態で膝に両手を置きにっこり笑って言った。
”愛しているよ,アレックス”
”お、おまえな……”
”ほらね,君は誰彼なく愛しているって言うくせに,自分が言われると戸惑うんだ”
ジュリアスはクスッと笑っていうと、戦意喪失したギルフォードを横目にベッドから飛び降りた。
”僕も行くよ.だって,兄のクリスから君の手助けをするように頼まれたんだからね”
”クリスから?”
”そうだよ”
ジュリアスはギルフォードの横に座りながら言った。
”近いうちにCDCから協力したいというオファーが来るはずだよ.だけど,クリスが君が心配なら行って様子を見て来いって言うからさ,とりあえず来てみたんだ.一週間の滞在だけどね”
”何だ、一週間か……、じゃなくて……”
ギルフォードは慌てて言い直した
”もう献体が届いたのか?”
”僕が国を出るときはまだだったけど,問題はその前に君が送ってきたウイルスさ,インフルエンザの”
”やはり,何かおかしかったのか?”
”これはCDC内でもまだ極秘事項らしいけど,ちょっとした騒ぎになっているらしいよ.クリスは,君から日本で出血熱らしい感染症が発生しているらしいと聞いて,なんとなく気になってお蔵入りしていたそのインフルエンザウイルスを調べてみたんだ”
”それで……?”
ギルフォードは、やっぱりお蔵入りしていたか、と思いつつ尋ねた。
”で,手始めに,どのウイルスの抗体に反応するか試してみた.そしたらどうなったと思う?”
”インフルエンザじゃなかったのか?”
”いや,間違いなくインフルエンザだった.A型のよくあるタイプさ.ところがもうひとつ,ほんのわずかだが別の抗体の反応があったんだ”
”何だって? で、それは?”
”デングウイルスさ”
”あり得ねぇ!!” ギルフォードが驚いて言った。”キメラだったってのか?”
”多分ね,今解析中らしいけど……”
”おまえ,そんな大事なことは昨日のうちに言え!!”
”だってそんな雰囲気じゃなかったじゃん.研究室でだって,パソコンのウイルス騒ぎで大変だったし…….とにかく”
と、ジュリアスはギルフォードと自分を交互に見ながら言った。
”いつまでもこんな格好でうだうだしている場合じゃないな”
ジュリアスはニッと笑って続けた。
「ちゃっと服を着て出かけよまい」
”くそっ、調子が狂うぜ!!”
ギルフォードは頭を横にふりながら言った。
由利子は7時過ぎに目を覚ました。猫たちのご飯クレクレ攻撃にあったからだ。このところ休日では7時起きが定着しつつある。これが8時起きにならないようにしなくっちゃ、と由利子は思った。しかし、起き上がって周囲を見回しため息をついた。昨夜は必要最低限しか片付けられなかったので、まだ部屋の大半は荒れたままだったし、さらに、昨夜は大量の捜査員が部屋に上がったので、いくら彼らが足カバーに手袋などの措置をしているとはいえ、あまり気持ちいいものではない。その上パソコンのリカバリもしなければならないのだ。
「今日は大ごとやね……」
由利子はつぶやいた。
「多美山さんに今日もお見舞いに行くって言っちゃったもんなあ……。でも」
由利子は昨日あのまま窓際で転寝をしてしまい、3時ごろ起きてざっとシャワーだけ浴びて寝たので、髪を洗いたくて仕方がなかった。
「とりあえず起きて考えようかね、にゃにゃたん春たん。まず、シャワーを浴びて髪を洗って……、あ、その前におまえたちのご飯だね」
そう猫達に話しかけると、よいしょと起き上がった。
「やだな。これじゃすっかりおばさんだね」
由利子は苦笑いをした。起きると猫たちもベッドから降りて足元をスリスリし始めた。由利子はその状態でキッチンへ行き、猫たちにご飯を与えた。彼女らがちゃんと食べるのを見届けると、シャワーを浴びようとタオルをもって脱衣カゴに入れながらふと思った。
(そういえば、紗弥さん彼氏が来ているって言ってたなあ。昨日はラブラブかあ。私とはえらい違いやね)
由利子はふうっとため息をついた。由利子は、実はラブラブだったのがギルフォードの方だったことは知る由もない。
タオルを持って来たものの、由利子はやはりその前に日課のジョギングに出ようと思い、用意して玄関に向かったが、ドアの鍵が壊れたままなのを思い出した。これでは物騒でジョギングどころではない。とにかく鍵の修理を呼ばねばどうしようもないということだ。由利子は試しにチェーンを外して玄関のドアを開けてみた。そこにはしっかりと警察官が立ってくれていた。しかし、それをすっかり忘れていた由利子は一瞬驚いてしまった。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
見張りの警察官が由利子に気がついて笑顔で言った。
「あ、おはようございます。おかげさまで安心して眠れました。ありがとうございます。あなたは大丈夫なんですか?」
「私は6時ごろ交代しましたから大丈夫です」
(あ、交代したんだ。だから眠そうにないのね)
由利子は納得したが、このまま警察官に立たれるのも申し訳ないし、何となく周囲にも気まずいと思って言った。
「あの、もう起きましたので、見張りは……」
「いえ、そうはいきません。少なくとも鍵の修理が終わるまでは、ここから引き上げるわけにはいきませんから」
生真面目そうな若い巡査は、そういうとまた見張りの体勢に戻った。
「はあ、ありがとうございます……」
由利子は仕方なくお礼を言うと室内に引っ込んだ。そのタイミングで件の警察官の「おはようございます」と隣の住人の戸惑った「おはようございます」の声が聞こえ、由利子は頭を抱えた。
(ううう、ご近所に説明と迷惑かけたお詫びをしに回らなくちゃ。それに、さっさと鍵屋さんを呼ばないと、気になってシャワーも浴びられないぞ)
そう思った由利子は、ネットで鍵屋を検索しようとパソコンの前に立って思い出した。
「ああっ、リカバリしないと使えないんだった~~~~~」
朝から脱力した由利子はその場で座り込んだが、すぐに立ち上がった。
「画面見辛いけど携帯電話で探そう……。いや、だったらタウンページの方が探しやすいか。ちょっと古いけど大丈夫やろ。ああ、不便だなあ……。ちくしょ~、結城のクソッタレめぇ、必ずこの由利子さんが見つけ出してやるからな!!」
由利子は朝からぶつぶつと結城に悪態をつきながら、固定電話の方へ電話帳を取りに行った。
その頃ギルフォードたちは、ガラス越しに新たな感染者と対面していた。
結局彼らは8時をかなり過ぎて感染症対策センター内にたどり着いた。ジュリアスの立ち入りについての連絡が行き届いておらず、門前でたっぷり30分以上待たされたからである。
「こんなことなら、もうちょこっとゆっくりしてから来りゃえかったがね」
ようやく許可が下りて車が動き出すと、ジュリアスは助手席でブツブツ言った。
「30分もあれば、おみゃあと……あいた! 何をするだなも」
「僕を殺す気ですか」
「言うたかて頭を殴るこたぁにゃーがね」
「冗談じゃありませんよ。それでなくても僕は連日寝不足なんですから」
「つまらにゃあ、日本語にもどったんかね」
ギルフォードは、隣でブツブツいうジュリアスを無視して、センター内に車を走らせたのだった。
「紹介しましょう」
高柳が三郎に言った。今回は高柳も重装備で隔離病室内に入っていた。
「あちらの背の高いほうが、アレクサンダー・ギルフォード、Q大ことクイーンズナイツ大学で教授をしていますが、ここの顧問でもあります。それからその隣が、彼の友人でアメリカのH大で講師をされている、ジュリアス・キング先生です。両者とも優秀なウイルス学者ですし、日本語も堪能ですからご安心なさってください」
紹介が終わり二人が会釈をすると、三郎は、ベッドに横たわったまま、力なく挨拶をした。
「先生方、この方は川崎三郎さんです。秋山珠江さんのご近所に住んでおられ、彼女の遺体を発見された方の中のお一人です。当日、一度ここに来てお話を聞かせてもらいましたが、ギルフォード先生はお会いされていないですよね」
「ええ、僕は外せない用があったので来られませんでしたが、内容はお聞きしています。大量の蟲に遭遇されたとか……?」
「はい」
三郎は答えた。
「実はその時、そいつに咬まれまして……」
「なんですって? 何故それをおっしゃらなかったんですか?」
「すんません、怖かったとです。言うたら二度とここから出られんごと気がして……」
「あなたはそれがどんな危険なことかわかっていらっしゃらない!!」
ギルフォードは、静かだが厳しい口調で言った。
「待ってちょーよ、アレックス。普通の人にそれを責めるのは酷だて」
ジュリアスは、三郎が萎縮するのを見てフォローした。高柳はうんと頷いて言った。
「そうですね。無理からんことです。しかし、川崎さん、あなたの行動が奥さんをはじめ周囲にまで危険が及ぶことまで考えましたか?」
そう言われて三郎はしょげ返ってしまった。
「先生方」
高柳が言った。
「川崎さんが咬まれた患部をお見せしましょう。驚かれないように」
そういいながら、高柳は三郎の足元の毛布をめくって右足を出し、包帯を取ってその問題の場所を見せた。
「うっ!」
ギルフォードは思わず右手で口を覆ってうめいた。
三郎の足の蟲に噛まれたという箇所を中心にしたおよそ掌くらいの面積に膿を持った直径1㎝程のできものがびっしりと覆っていた。ジュリアスは目を見張ってガラス窓に顔を近づけ言った。
「なんと、どえりゃあことになっとりゃーすがね」
”これは……”
ギルフォードは英語で言いかけて言葉を飲み込んだが、ジュリアスがその続きを言った。
”まるで天然痘の発疹じゃないか!!”
”そうです”と、高柳も英語で答えた。”非常に酷似しています.でも,今までの犠牲者を調べた限りでは痘瘡ウイルスは見つかっていないのです.おそらく川崎さんについても同じでしょう”
高柳の答えを聞いて、二人は顔を見合わせた。英語のわからない三郎は、驚く二人と高柳の顔を不安そうな表情を貼りつかせたまま、交互に見つめていた。
川崎三郎との対面後、高柳はセンター長室に二人を招き、尋ねた。
「さて、君達はあれを見てどう思うかね?」
「非常に嫌なものを見ました」
ギルフォードが言った。
「何なんですか、あれは!」
「私に聞かれても困るが……」高柳は右手でアゴをつるりと撫でると言った。「今までと言ったが、実は昨夜運びこまれた遺体にも、よく見たら顔と右手に似たような発疹のような跡があったんだ。まあ、そっちの方はだいぶ蟲に食われていたから、はっきりとはわからなかったけどね」
「蟲に……」そういうとギルフォードは嫌な顔をして黙り込んだ。嫌悪感がまざまざと現れた表情だった。黙ってしまったギルフォードに代わってジュリアスが聞いた。
「そりゃー、そのムシに咬まれた時特有の症状だとゆーことですか?」
「うむ、少なくとも今まで調べた遺体にはそのような発疹の形跡は無かったですからな」
「気になるのは、そいつがsmallpox(痘瘡=天然痘)の発疹にそっくりとゆーことですが」
「まあ、よく似てはいるが咬まれたあたりに部分的に出来ているだけで、さっき言ったように、今まで調べた結果にも痘瘡の可能性はまったくありませんでしたから。それに痘瘡なら全身、特に手足や顔にびっしり発疹がでる筈です」
「だけど、で~らいやーな感じがするんですよ」
ジュリアスは、腕を組みながら眉を寄せて言った。
「ところで」ジュリアスは続けた。「そのムシは、ほんとにローチだったんですか?」
「昨日、現場の警察官が写真に収めたものがあるので、見たければお見せしますが……」
「おー、それは好都合なんで見せてくれませんか? でも、アレックスには見せんほうがええでしょう。トラウマに触れたら大変だし」
それを聞いて、高柳は驚くとともに興味を持ったらしく少し身体を乗り出して言った。
「嫌いなことは知っていたんだが、トラウマがあったのか」
「まあ、そーゆーことです。ん~と、アレックスは……」
「ジュリー、待ってください!」
ギルフォードは、珍しく鋭い声でジュリアスを止めた。驚いてギルフォードの顔を見るジュリアスの肩をぽんと叩くと彼は言った。
「それは僕から説明します。子供の頃父に叱られて地下室に閉じ込められた事があるんです。その時にたかられて以来、どうも……」
「アレックス、それってウェタの……」
ジュリアスは何か言おうとしたが、ギルフォードの顔を見て口をつぐんだ。高柳はその様子を見て、少しだけ眉を上げると言った。
「まあ、そういうことならギルフォード君は無理して見なくてもいいから。じゃあ、キング先生、写真をお見せしましょう」
高柳は応接セットの椅子から立ち上がると自分の机に行き抽斗(ひきだし)からファイルを持って戻ってきた。
「これです。犠牲になったホームレスの遺体写真も入っていますから、閲覧には気をつけてください」
高柳はファイルをジュリアスに手渡しながら言った。
「その心配はないですよ。おれも医者の端くれですから」
ジュリアスはそういうと躊躇なくファイルを開いたが、その瞬間ウッという顔をすると方言全開で言った。
「こりゃー、でらムゴイ遺体だなも。さすがにおでれ~たわ」
しかし、その後は心の準備が出来たせいか、ジュリアスは特に顔色を変えることなくファイルをめくった。
「う~ん、どえりゃあ写真ばかりですね。こんな死に方はしたくないもんです……、ああ、これですね」
ジュリアスはそういうとページをめくる手を止めた。
「アップの写真がありりますが、比べるもんがなくて、これじゃ~大きさがわからんですね……っと、警察官がムシを捕獲しようと狙っとる写真がありますね」
ジュリアスは、ファイルに顔を近づけ、再び方言全開で言った。
「こりゃ~でらでっけぇわ。ざっと3インチ(約75mm)はありそうだがね。こりゃ~さすがに気持ち悪ぃわ。でも写真を見る限り外来の巨大種とは違ゃあみたいだで、なあ、アレックス、こりゃあ……」
と言いながら、ジュリアスがファイルから顔を上げてギルフォードの方を見ると、彼は青い顔をして反対側を向いていた。仕方がないのでジュリアスは高柳に向かって言った。
「これは、なんとしても現物を捕まえないといけないのでは? 写真じゃあ病原体について調べようがないでしょう?」
「キング先生、確かにおっしゃるとおりです。しかし、連中はでかいくせにかなりすばしっこくて、なかなか捕まらんらしいのですよ」
「日本にはええもんがあるじゃあないですか。ローチホイホイとか言いましたかね」
「あの蟲はかなり大きいので、素通りしてしまう可能性がありますな。それでなくても最近のゴキブリには知恵がついて、なかなか引っかからないんですよ」
高柳からゴキブリという単語が出たので青い顔に一瞬嫌悪感をあらわにしたが、ギルフォードは二人の方を向いて言った。
「ネズミ用の大きいのがあるでしょう。そいつを仕掛けてみるのはどうですか?」
「なるほどね」高柳は言った。「確かにそれなら充分だろう。だが、ネズミ用にゴ……失礼、あの蟲が寄って来るかね」
「奴らは感染者の遺体の臭いに反応するんでしょ?」
ギルフォードはさらに顔をしかめながら言った。
「ならば、その臭いをつければいいんですよ。もちろん、臭いの元は人に感染しないように無毒化して」
「それを遺体のあった場所あたりに仕掛けるのか。なるほど、試してみる価値はありそうだな」
高柳はにやっと笑って言った。
「犠牲者のホームレスが発見された河川敷は、広範囲に立ち入り禁止になっとる筈だから、ちょうどいいな」
「おれにその捕獲をやらせてくれないしょうか」
「君が?」
高柳が聞いた。ジュリアスは自信満々に言った。
「おれも、ウイルスハンターの端くれなんで、こういうことには慣れてますから」
「わかりました。知事に直接掛け合ってみましょう」
高柳は請合った。
「ありがとうございます」
「じゃあ、助手と護衛を兼ねて葛西刑事にサポートをしてもらえるようお願いてみよう。ギルフォード君、もう彼はテロ対策本部の仕事をしているんだろ?」
「ええ。まだ正式には拝命してないので籍はK署にあるようですが」
「じゃあ、なおさら適役だな」
葛西と聞いて、ジュリアスが言った。
「葛西さんならまったくの素人じゃないらしいですから、期待できますね。感謝します、センター長!」
ジュリアスは高柳に向かって丁寧に礼を言ったあと、ギルフォードの方を見て言った。
「実を言うとよ、おれ、葛西さんと一緒に仕事をしてみたかったんだなも」
彼はそう言いながら、軽くウィンクをした。ギルフォードは少し困ったような顔をしたが、そのまま黙っていた。しかし、蟲のことが堪えているのかいつものアルカイックスマイルが浮かばない。それを見ながら高柳がジュリアスに言った。
「彼にとって、あの蟲はよっぽどの弱点のようですな」
高柳は、ギルフォードのさっきの話程度でそこまでトラウマになるのか、そもそも地下室とはいえ英国にあの虫はいただろうか等と疑問に思ったが、深く追求することは避けた。
「まあ、誰でも色々ありゃーすがね」
ジュリアスが、肩をすくめて言った。
「ところで、例の蟲の話に戻って申し訳にゃーけどな、アレックス」
彼はそのまま質問を続けた。
「念のために聞くがよ、あれはああいうでっきゃぁのが日本におるんかね、それとも突然変異で生まれたんかね」
ギルフォードは、また眉間にしわを寄せながら言った。
「あのような大きさのGが……」
「G? ああ、頭文字かね……ってすまんね、話の腰を折ってしもうて」
「……。……それがこの国に生息しているとは……、少なくとも九州本島に昔から生息しているとは思えませんし、外来種でもないようです。可能性としては、ウイルスが原因の突然変異……」
「ウイルス進化説かね。だがよ、あれはトンデモに近い説やて思ぉとったがね」
「そうですね、自然界では起こりにくいと思います。しかし、このウイルスが人為的に操作されている可能性を考えると、その可能性も捨てきれないでしょう。実際、信じられないサイズのG……が存在しているのですから」
「人為的にだって?」
高柳が驚いて聞き返した。
「はい。まだはっきりとは言えないので申し訳ないですが、ジュリーからの情報でその可能性が出てきたのです」
ギルフォードが答えると、高柳は腕組みをしながら言った。
「うむ、ますますSFもどきな話になってきたな」
「不確かなことなのでで、絶対に口外しないください」
と、ジュリアスが釘を刺した。
「もちろんそうしますがね」高柳は、ジュリアスの方を鋭い目で見ながら言った。「確実なことがわかり次第教えてくださいよ。アメリカの国益優先ってヤツだけは勘弁して欲しいですからな」
「おれもアレックスもそう思っているんで、心配せんでええですよ」
「ところでこのデータですが……」
ギルフォードが口を挟んだ。
「高柳先生、ひょっとして僕が帰ってから作られたんですか?」
「ああ。夜中に鑑識からメールで蟲についての調書が送られて来てね。ついでに運ばれた遺体も調べておこうと思って安置室に行ったら、つい興に入ってしまってね。山口君と春野君も手伝ってくれたんだが、遅くなったので彼女らは帰して、僕だけ残ったんだ。そして、気がついたら夜が……明けてしまって……」
そこで、高柳は大きなあくびをした。
「寝てないことを思い出したら急に眠くなったよ」高柳はテレ笑いをすると続けた。「それで仮眠を取ろうと思ったら、緊急電話が入って感染者が運ばれて来るというだろ。それで急いで君に電話したのさ、ギルフォード君」
「たしか、その前も多美山さんの件で徹夜してますよね? いったいいつ寝ているんです、先生?」
「ああ、空いた時間を見繕って適当に寝てるよ。おかげで半分吸血鬼みたいな生活……だ……」
高柳は、そこでまたあくびをすると言った。
「そういうことで、私は君らが羨ましいよ。多少はぐっすりと眠れただろうからね」
高柳の皮肉とも冷やかしとも取れる発言に、ギルフォードとジュリアスは顔を見合わせた。
高柳が仮眠をとりに行ったあと、残された二人は例の自販機の前のソファで、缶コーヒーとペットボトルの紅茶を飲みながら休憩をしていた。
「僕はこれから講義がありますので大学に帰りますが、君はどうしますか、ジュリー?」
「ここに残っていてもええんなら、居りてぇんだてが、ええかねー?
「君がみんなの邪魔をしないでいい子にしているのなら」
「了解。ところで、例の篠崎ゆう子さんだがよ、今日もここに来るんだてか?」
「シノハラ ユリコですよ。来ると言ってましたが、昨日の今日ですからねえ、どうでしょうか」
「えー、つまらにゃあ。彼女にも是非会いてぇんだが。おれはね、おみゃーさんが気に入った人みんなに会いてぇんだ」
「まったく、僕が誰を気に入ったとかそういうことを誰から聞いたんですか」
「紗弥からに決まっとるがや」
「まったくもお……」
ギルフォードはため息をつきながら、上半身を伏せ、左ひざに左ひじを立て頬杖をついた。
葛西は、ひとり早朝から事件のあった公園周辺で聞き込みをしていた。ホームレスとウイルスの関連が気になったためである。その甲斐あって、二つのことが浮かび上がってきた。
ひとつは、葛西が公園について質問すると大抵「あなたも?」という答えが返ってくることだった。聞くと、若い女性から質問されたという。
(誰か、それも、若い女性がこの件に興味を持っている……?)
葛西は嫌な予感がした。あの、極美とかいう元グラドルのことが頭をよぎったからだ。あの女はやはり食わせ者だったのか……、と葛西は思った。
もうひとつは、あの公園でホームレスと会社員らしき男が言い争っているのを目撃したという人を見つけたことだ。
土曜休みでいつもより遅く犬を散歩させているというその男性は、樫本伊佐夫という40歳半ばくらいの会社員で、通勤時にいつもその公園の傍を通っている人だった。以前は公園内を突っ切ったほうが近いので、いつも公園を通って通勤していたらしい。現在封鎖されているので非常に不便だと彼はぼやいた。
「えっと、どんな状況だったんですか?」
葛西が質問すると、彼はえ~っと、と少しの間考えて言った。
「もう何ヶ月か経ちますんで、よく覚えとらんとですが、その日は残業で9時過ぎにあの公園を通ったんです。そしたら公園の中ほどで、女性を連れた会社員風の男がホームレスの男と激しく言い争ってました。……いや違う、激しく言ってたのは会社員の方で、ホームレスは終始落ち着いて受け答えしてましたね。なんか常識が逆転したような、異様な感じがしたので覚えてます。私は関わろうごとなかったんで、そのままそ知らぬ顔でそこを通り抜けましたが、少し歩いたところでいきなり歓声が上がったので驚いて振り返りました」
「歓声が?」
「はい。振り返ると、連れの女性が男を引っ張るようにして公園を出ようとしていました。言い合いで仲間が勝ったので、歓声が上がったのでしょう。ホームレスたちは、その後二人を盛んにからかっていました」
「何か、特徴ある名前とか単語が出てませんでしたか? 思い出されたら何でもいいので教えてください」
「そうですねえ……。う~んと……」
葛西に促されて、樫本はしばらく考えていたが、ぽんと手を叩いて言った。
「そうそう、『やすやん、いいぞ!』と、みんな口々に言ってました。それで、ああ、あの落ち着いたホームレスの人は『やすやん』と呼ばれているのか、って」
「やすやん、ですか」
葛西は繰り返した。
(やすやん……安やん……。多分それは安田さんのことだ!)
彼は確信した。念のため、樫本に結城の写真を見せてみることにした。
「女性連れの男は、この人じゃないですか?」
「うーん、もうちょっとよく見せてください」
樫本は首をかしげながら写真をじっと見て言った。
「何分、夜だったし、街灯があったとはいえ会社員の男の方は僕から見て逆光だったので、顔はよくわからんかったですもんなあ。この人だったような、違うような……」
「そうですか……」
葛西は少しがっかりして言った。
「そろそろ行ってもよかでしょうか?」樫本が聞いた。「犬が散歩の続きがしたくて、そわそわし始めとぉとですよ」
見ると、彼の愛犬がお座りをしたり立ったりしながら、熱い眼をして飼い主を見ていた。
「あらら、申し訳ありません。ええっと、良かったら連絡先を教えてほしいのですけれど」
「ああ、いいですよ」
樫本は、快く住所と携帯電話の番号を教えると、犬に引っ張られながら去って行った。
「点が線に繋がったみたいだ」葛西はつぶやいた。
「結城の狙いが何だったかわかったような気がする……」
葛西はその場に立ったまま今聞いたことのメモを整理しながら、少しだけ核心に近づいたような手ごたえを感じていた。
******************************
ジュリー君の名古屋弁は「なんちゃって」かもしれませんが、彼の保護者だったアメリカ人のおばあちゃん(再婚して名古屋に住んでいた)がそういう話し方だったという設定なので、温かい目で見守ってください(だからおばちゃん言葉も混じっていると思います。
彼はほんとにすごくいい奴です。
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