朝焼色の悪魔 Evolution

黒木 燐

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第二部 第五章 告知

7.現(うつつ)の悪夢、来たるべく悪夢、過去の悪夢

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「そんな……」
 幸雄は呆然として言った。梢は手を膝の上に重ね、ぎゅっと握り締めた。
「申し訳ありませんが、これは規則……というより法令ですから、私たちにもどうしようもないのです」
 高柳が、珍しくとても辛そうな表情をして言った。
「検疫法によって、このような危険な病原体によって死亡した場合、遺体をそのままお返しすることが出来ないのです。感染リスクを最低限に抑えるための処置をせねばなりません。そのためには、火葬後に返還することが一番安全ということになりますから」
「では、遺体無しで、もしくはお骨で帰ってから葬式をすることになるわけですか……」
「申し訳ありませんが……」
「あの時、ギルフォード先生がおっしゃってたのはこのことだったんですか……」
 幸雄はそういうと、顔を覆った。いきなり辛い現実が次々に襲い掛かり、幸雄はすでに心身ともに限界に来ていた。あまりのことに、涙も枯れてしまった。高柳はさらに言い難そうに言った。
「その上このようなお願いをするのはとても辛いのですが……、お父様の遺体解剖の承諾をしていただきたいのです。感染症で亡くなられた場合、死因を解明せねばならないので遺族の方の同意は必要ないのですが、心情的にそういうわけには行きませんから……」
「ああ……」
 幸雄は苦しげな声を漏らしたが、それ以上言葉が出なかった。その横で梢が夫に変わり質問をした。
「苦しんで血まみれになって亡くなった義父ちちの身体を、さらに切り刻まねばならないのですか……?」
「お父さんの死因を解明するためと、今後の治療のために必要なんです。今ここに入院されている患者と、おそらくこれから運び込まれるだろう発症者に、出来るだけ適切な対応が出来るように」
「だけど……」
 幸雄が何とか口を開いた。
「この疫病に関しては、治療法がないんでしょう? 結局あんな風に苦しんで死ぬなら、いっそ何もせずに……」
「あなたにそれが出来ましたか?」
 高柳にそういわれて、幸雄がはっとした。
「いえ……、出来ませんでした」
「そう、そういう絶望的な状況でも希望を持つのがヒトと言う生き物です。そして、私たち医者は、たとえ暗闇の中でも希望の光を見出そうと努力せねばなりません。最初から諦めたら、永遠にこのウイルスを制圧することが出来ません。そうでしょう? それは、多美山さんの死を無駄にすることにもなりますし、多美山さんだってそれを望んではおられないでしょう。どうか、わかってください」
「……」
 幸雄は無言で目を堅く瞑った。
「あなた……」
 梢は幸雄の手を再び強く握った。その時、応接室のドアをノックする音が聞こえた。高柳が問うた。
「誰だね?」
「ギルフォードです」
「入りたまえ。ちょっと取り込んでいるがね」
 高柳の許しを得てギルフォードが入って来た。
「すまんが、ちょっとそこで待っていてくれたまえ」
 高柳はギルフォードに指示すると、もう一度幸雄に言った。
「わかってくださいませんか?」
「私たちが承諾せずとも、それは遂行されるのでしょう?」
 幸雄は目を閉じたまま言った。
「それにどうせ火葬するなら、解剖のことなんて黙ってればわからないでしょう? 僕らはたった今、父を目の前で失ったばかりなんです。それなのに、解剖だの火葬だの、あまりにも無神経です!」
「申し訳なく思っています」
 高柳が言った。
「我々も、何とか救いたかった患者を亡くしたばかりです。皆、自分達の無力さを思い知らされ、悔しさと悲しさを痛感しながらも、戦いを続けなければなりません。すでに今日新たな発症者が来ています」
「高柳先生、僕たちだってそれはわかっています。しかし、気持ちの上では割り切ることは出来ません。父は命懸けで子供達を救いました。そんな父が、ひっそりと、まるで罪人のように葬られる、それが辛くて悔しい……!」
 幸雄は声を震わせて言った。会話から事情を察したギルフォードは、高柳に近づいて耳打ちした。高柳は頷いて言った。
「幸雄さん、奥さん。ちょっとギルフォード先生に付き合ってあげてください」
「え? どういうことですか?」
「ユキオさんにお願いがあります」
 ギルフォードが言った。
「タミヤマさんに救われた少年、ニシハラ・ユウイチ君のことです。彼は、タミヤマさんが亡くなられたことを知って、かわいそうに、すっかりしょげ返ってしまいました。もし、よかったら、息子さんであるあなたに彼と会って欲しいのです」
 幸雄と梢は顔を見合わせた。
「とりあえず彼らのいる病室の前まで行きましょう。会うか会わないかは、そこで決めればいいですから」
「わかりました。行きましょう」
 幸雄が立ち上がりながら答えた。
 二人はギルフォードに病室の前へ案内された。父親が居た病室と同じ仕様だった。ギルフォードが言った。
「ここに、ユウイチ君とその妹のカナちゃんが、念のため隔離されています。彼は、タミヤマさんの死をとても悲しんでいて、一言もお礼を言うことが出来なかったことを悔やんでいます」
「父が救った少年が……」
 幸雄がつぶやいた。
「そうです」
 ギルフォードは頷くと幸雄の顔をまっすぐ見て言った。
「会っていただけますね?」
「ええ、わかりました」
 ギルフォードはそれを聞くと、もう一度頷きマイクで中の祐一に呼びかけた。
「ユウイチ君、タミヤマさんの息子さんと奥さんが来られています。ここを開けていいですか?」
 少し間を置いて、中から声がした。
「え? は、はい、よろしくお願いします」
「ユキオさん、まだ小さい妹の方にはショックが大きいので、まだタミヤマさんの死については言っていません。ケガで入院していることになっています。その点をご了承ください」
 そういうと、ギルフォードは窓を『開けた』。幸雄たちの前に病室の中の少年と妹が姿を現した。
「父は、この子らを守って……」
 幸雄は無意識に窓に向かって歩いた。少年は幸雄の方を向いて深く礼をして言った。
「多美山さんのおかげで、妹は無事に解放されました。僕らも最悪の事態を免れました。心から感謝しています。そして、ごめんなさい。僕は……、僕はあなたに何と言ってお詫びをして良いか……」
 祐一はそこまで言うと、また深い礼をした。
「ゆういち君と言ったね。もういいから顔を上げて」
 幸雄の許しを得て祐一は顔を上げ、袖口で涙を拭いた。
「君らを守る事が出来て、父も本望だったと思うよ。君たちに会えて良かった。ありがとう」
「おじさん……」
「僕は父を誇りに思う。君達に会ったから余計にそう思うよ。だから、君らも父のことを忘れないでほしい」
「はい。絶対にわすれません。そして、この命、絶対に粗末にはしません。香菜、このおじさんにご挨拶しなさい。あのおじいちゃん刑事さんの息子さんだよ」
「うん」
 香菜は、椅子から立ち上がり言った。
「おじちゃん、こんにちは。香菜といいます。お父さんの刑事さんに、『ありがとう、香菜、こんどおみまいに行くから待っててね』ってお伝えください」
「うん、わかった。必ず伝えるからね」
 幸雄は静かに笑って答えた。ギルフォードが幸雄の方を見ると、彼は軽く頷いた。
「ユウイチ君、少しは気持ちが軽くなりましたか?」
「はい、ありがとうございます」
「じゃ、ここを閉じますね。じゃ、ユウイチ君、カナちゃん、またね」
 ギルフォードはそういうと、窓を『閉めた』。閉まる間際に祐一がもう一度礼をした。
「彼らも感染している可能性が?」
 幸雄がギルフォードに不安げに質問した。
「妹さんが感染発症者の女性と長く一緒にいたのと、兄のユウイチ君もその女性と近くで会話したということで念のため隔離されています。二人とも発症者に触れるような濃厚な接触はしていませんので、感染の可能性はかなり低いですし、今まで発症していませんからおそらく大丈夫だと思います」
「そうですか……」
 幸雄は安堵して言った。
「お付き合いいただいてありがとうございます」
 ギルフォードが言った。しかし、幸雄は首を振りながら言った。
「いえ、礼を言うのはこちらの方です。彼らに会えて良かった。決して父の死は無駄じゃなかったと確信出来ました。それに、会ってわかりました。父は何としてもあの子とその兄を助けたかったんでしょう。本望だったと思います」
「そうですか。そういってくださると、僕も安心出来ます。では、また応接室に戻りましょうか」
 ギルフォードはそう言いながら歩き出した。
「はい。じゃ、梢、行こうか」
 幸雄は妻の肩を抱いてギルフォードの後に続いた。歩きながら幸雄がつぶやいた。
「あの女の子……」
 幸雄の頬を一筋の涙が伝った。
 
 ある教団経営の墓地を、数人の墓参り客が歩いていた。まだ夕方の五時過ぎくらいの時間だったが、夏場とはいえ雨天のためにいつもより薄暗く、場所が墓地であるために、かなり不気味な雰囲気を醸している。幸いにも雨はかなり小降りになっていた。
 それぞれ黒っぽい紫の経帷子のようなデザインの上着を着ている。彼らの先頭を行く老人が教祖らしく、貧相な体に一際豪華な金糸で縁取られた僧衣をまとっていた。その教団は、まだ小規模でまだ布教範囲も小さいが、その分結束も狂信性も高く、まさにカルトの典型であった。
 その奇妙な集団は、二つ並んだ墓の前で止まった。教祖が墓の前で金の鈴が文字通り鈴生りについた錫杖を振るった。信者達がそれを合図にいっせいに跪いた。教祖が錫杖を振るうごとにシャンシャンという音がせわしなく鳴った。それに合せて信者達が祝詞のりとの様なお経のような不思議な言葉を唱え始めた。それらに紛れて、何か地の底からゴトゴトという音がした。それを聞いた信者達は、ざわざわと落ち着きを失くした。教祖が興奮して言った。
「おお~、我らの願いが叶い奇跡が起こったのじゃ。薬に頼らずひたすら護摩を焚いて祈り、入滅後も身体を酒で清め、土葬した甲斐があったということじゃ。聞くがいい! 死者が生き返った音がするであろう。今すぐにこの沢村老の墓を掘り返そうぞ!!」
 教祖が命令するや否や、信者の男達が競って墓の周囲を掘り始めた。女や子供達は目の当たりにするであろう奇跡を思い、興奮し上気した顔で墓を見守っている。御棺を埋めた土饅頭の上部には穴があけてあった。死者が生き返った時も息が出来るように配慮されたらしい。しかし、そこからなにやら異様な臭気が漂っていた。しかし、信者達にそんなことを気にする余裕などなかった。彼らは素手で我先にと墓土を掘り返している。その空気穴からちょろちょろと黒い大きな虫が数匹這い出してきた。
「何だぁ、これは!」
 信者の一人が気がついて騒いだが、教祖から一括された。
「莫迦者ッ!! 早く墓を掘って沢村老を出してやるのじゃ」
「ははっ!」
 男は恐縮して作業に戻った。人海作業の甲斐あって、墓が暴かれるのに二十分もかからなかった。歓喜の声と共に蓋が打ち付けた釘と共に外された。しかし、そこには生き返った筈の老人の姿は見えず、何か黒いものが無数に蠢いていた。それは、動く黒いじゅうたんの如く這い出した。喜びの声が悲鳴に変わり、信者達は逃げ惑った。
「何をしておる! 早く老を起こしてやらぬかッ!」
 教祖は両手を広げて信者達が逃げるのを止めようとしたが、パニックを起こした彼らにはすでに教祖の言葉は意味を成さなかった。教祖は突き飛ばされひっくり返り、棺の中に転げ落ちた。一瞬何が起こったかわからなかった教祖が身体を起こそうと手を付いた。そこには何とも形容しがたい感触があった。
「ひぇあ~っ」
 教祖が威厳のあるとはとても思えないような悲鳴を上げ、また棺の上に大の字にひっくり返った。その上を何かがザザッと通っていった。教祖は反射的に息を止め目を瞑った。それが通り過ぎたのを確信して教祖は目を開けもう一度身体を起こすため、さっきの感触の原因を確かめようと横を見た。そこには、顔面をほとんど食われた老人の顔があった。息を呑んで急いで起き上がろうとしたが、腐敗した上に雨にぬれた遺体に滑ってまた身体がひっくり返り、今度は遺体の下にはまり込んでしまった。結果、遺体に押さえ込まれた形になった教祖は、なんとかそれから逃れようとじたばたもがいたが、それが却って遺体をまとわり付かせることとなった。
「ひぃぃいいい~」
 教祖は、かすれた悲鳴を上げると、そのまま泡を吹いて動かなくなった。教祖の老いた心臓が恐怖とショックに耐え切れなかったのだ。このとき蘇生していれば彼は助かったかもしれないかった。しかし、パニックに陥った信者は誰ひとり、教祖の悲劇に気がつかなかった。彼らは蜘蛛の子を散らすように墓地から逃げ出した。
 しばらくして、冷静さを取り戻した信者達が暗い中懐中電灯を持って墓地に戻った。そしてようやく暴かれた墓で、食い荒らされた遺体に覆いかぶされた状態で息絶えた凄まじい形相の教祖を発見した。再びパニックに陥り逃げ帰った信者達が警察に連絡をするのは、翌朝明けてからのこととなる。
 

 由利子は、ギルフォードの車で家まで送ってもらっていた。時間は夜7時を回っており、天気のせいかすでに周囲が暗くなっていた。
 ついでにK署に帰る葛西もそれに便乗していた。葛西は最初公共交通機関で帰ると言い張ったが、ギルフォードがなんとか懐柔して送ることを了解させた。本来なら休みの土曜日である。ましてや、ギルフォードは今度葛西が配属される対策室の顧問なのだ。
「だいたいですね、サヤさんのバイクで二ケツしてセンターに来たんですから、何をか言わんやですよ」
 ギルフォードはぼそぼそと言った。
 助手席にはジュリアス、後部席には由利子と葛西が乗っていた。当然のことながら、葛西に元気がない。そのせいか、車内がなんとなくお通夜のような雰囲気になってしまった。その空気にたまらなくなったのか、ギルフォードが口火を切った。
「ジュン、今日タミヤマさんに報告した件ですが、要点しか言ってなかったですね」
「ええ。美千代が行方不明になった件から、まだセンターに敵の息のかかったヤツがいるかもしれないって、ふと思ったんで……」
 葛西が少し照れくさそうに言った。
(”あの状況でそれに気がまわったか。この男、見かけほどヤワじゃないらしいな”)
 ギルフォードはそう思いつつ言った。
「それで正解です、ジュン。で、ここでその内容を差し支えない程度で良いからもう少し詳しく説明してくれませんか?」
「ええ」
 葛西は、今日調べたことをかいつまんで話した。
「へえ、いいセン行っとぉやん」
 由利子が言った。
「安田さんと言い争っていたヤツ、そいつがウイルスばら撒きの実行犯の結城だとしたら、ターゲットをあそこのホームレスにした理由になるよね。目撃者がそいつの顔をよく見てなかったのが残念やね」
「それと、やはり気になるのは、あのキワミという女ですね。彼女に関わっているらしい奇妙な男……、タミヤマさんのことをほのめかしていたんでしょう? 明らかに事情を知っていますね。怪しすぎます」
 ギルフォードが言うとジュリアスが付け加えた。
「アレックス、正確に言おまい。そいつはテロリストの仲間と考えるほうが自然だがね」
「それが極美ってグラドル上がりのジャーナリストもどきに取り入って、何をしようとしているっての?」
 と、由利子。
「テロってのは、恐怖で世の中を混乱させて目的を遂げようとするもんだで。奴らの目的が何かはわからんけどよ、なーんか嫌な予感がするんだわ」
「じゃあ、極美をとっとと手配して捕まえてしまえばいいじゃん。どーせ事件のあったあたりでちょろちょろしてるんやろーし」
「あのね、ユリコ。ジャーナリストが事件を調べているということで、捕まえるワケにはいかないでしょう? ここは、言論も思想も宗教も自由を保障されている法治国家ですよ。どこぞの独裁国家とは違うんですから」
「意外と滅茶苦茶わやなことを言う女だなも」
 二人から呆れられて、由利子は少しお冠で言った。
「じゃあ、どうしようもねーじゃんよ」
「僕が報告しますから、何らかの手が打たれると思いますよ。それに関しては、長沼間さんたち公安の出番でしょうね」
 と、葛西がフォローした。
「もうひとつ気になるのは」
 ギルフォードが言った。
youtubeユーチューブに上がっていた映像ですね。話題になる前に削除してもらったほうがいいと思うんですけど」
「どうかしらね。下手に削除させると、また陰謀だ何だと言い出す連中が出てきかねないと思うんだけど」
 由利子が言うと、ギルフォードも納得して言った。
「確かにそれはありますね……」
「それに、削除しても再アップされたら一緒でしょ。映像共有サイトはようつべyoutubeだけじゃないし、そうじゃなくても誰かがキャプ画像をアップするかもしれないし」
 由利子の指摘に、ジュリアスが腕組みをしながら言った。
「ネットってにゃあ、そういうところが厄介なんだわ」
「しかし、よく半日でこれだけ調べましたね。タミヤマさんもきっと褒めてくれますよ」
 ギルフォードがにっこりと笑って言った。ようやく見せた笑顔だった。
「そっ、そうかな……」
 葛西が照れくさそうに笑って言いながら、その後また泣きそうになって下を向いた。
「これで、泣き虫を卒業したら言うこと無しですケドね」
 ギルフォードが笑顔で続けて言うと、由利子とジュリアスがギルフォードの方を見てにやにや笑った。ギルフォードがそれに気がついて言った。
「なんですか、二人とも?」
「何でもな~い」
 由利子がにまっと笑って言った。
「なんか、気になりますけどまあいいでしょう。でもジュン、ユリコにしがみついて泣くなんて、なかなかやりますね」
「それを言わないでください。思い出すだけでものすごく恥ずかしいんですから。弾みとはいえ、女の人にすがりついて……しかもマジ泣きまでしちゃって……。もう、情けないです」
 葛西は今度は真っ赤になった。それを見て、ジュリアスがひやかすように言った。
「ほんで、居心地はどうだったかね」
「それがその、想像以上に貧に……いえ、その、えっと……」
 葛西が口ごもると、ギルフォードがミラー越しにイタズラっぽい笑みを浮かべて言った。
「ペッタンコだったんでしょ?」
「そう、そうなんです。我に返った時、一瞬隣に居た幸雄さんと間違えたかと……」
 その時、バチンという音がして葛西が頬を押さえた。間髪を入れず由利子にひっぱたかれたのだ。
「失礼ね! どうせ私には大胸筋しかないわよっ!!」
 由利子が怒鳴った。当然である。葛西は頬を押さえたままぽかんとして由利子を見た。葛西今日三度目のビンタであった。
 

 窪田は歌恋と一緒に、露天の岩風呂に入っていた。彼は結局一日中しつこい頭痛に悩まされていた。
 それでも、昼間歌恋と回った観光は楽しかったし、久々に羽を伸ばしたような開放感に浸ることが出来た。体調が悪いせいで、せっかくのご馳走もあまり食べられなかったが、こうしてプライベートの露天風呂に浸かっていると、少し気分がよくなった。雨は止んで、雲の切れ目に時折月が顔を覗かせた。充実した一日だった、と窪田は思った。
「奇麗ね……」
 隣に寄り添っている歌恋が言った。
「今日、お月様を見れるなんて思わなかったわ」
「そうだね。こんな景色で見る月は格別だね」
 窪田が相槌を打つ。歌恋はチャプンと水音をさせて窪田の方を向きながら言った。
「今日は、帰る時間を気にしなくていいのよね。朝まで……、ううん、その後も一緒に居ていいのよね」
「あたりまえじゃないか。僕らは旅行に来ているんだよ」
「嬉しい……」
 歌恋は涙ぐみながらも笑って言った。
「今日と明日の夕方まで、栄太郎さんは歌恋のものなんだよね」
「そうだよ。何も気にしなくていいんだ」
「うん……」
「今日も明日もふたりきりだよ」
「うん……うん」
 歌恋は涙をこぼしながら、何度も頷いてから言った。
「わたし……、歌恋ね、栄太郎さんと一緒にいられるだけで嬉しいの。だから、気分が悪いなら、無理しなくてもいいの。ね、ゆっくり休みましょ?」
「気がついていたのか……」
 窪田は驚いて言った。そして、いっそう歌恋を愛おしく感じ、抱きしめた。
「大丈夫だよ、これくらい……。だってせっかく君とずっと居られる夜じゃないか」
「嬉しい、栄太郎さん、でもっ…」
「大丈夫だよ」
「あ、あのっ、あの……ね。だったらお願いがあるの」
 歌恋は頬を赤らめながら言った。
「なんだい? 今日は何でも聞いちゃうよ。言ってごらん」
「あの、あのね……、私ね、終わったばかりなの」
「って、何が?」
「もうっ、栄太郎さんの馬鹿っ」
 歌恋は真っ赤になって窪田に背を向けた。窪田はハッとして歌恋を見た。
「えっと……?」
 意味が分かって戸惑う窪田に背を向けたまま、歌恋はか細い声で言った。
「だから、今日はお願い、そのままでいいから」
「ほんとにいいの?」
「ええ、大丈夫だからお願い」
 歌恋は窪田の方に体を向き直すと、切ない目を向けて懇願するように言った。
「今日だけ、もうそれ以上は望まないから、私、一度でいいから栄太郎さんと最後まで……」
「わかった、わかったから、もうそれ以上言わないで。ごめんね、いつも中途半端で終わってるもんね」
 窪田は歌恋がそこまで自分を求めているのかと思い、さらに愛しいとおもう気持ちが溢れるのを感じていた。しかし、歌恋が恥を忍んでそこまで言ったのには、実は理由わけがあった。しかし、結局窪田がその理由を知ることはついぞなかった。
「僕の歌恋、愛しているよ」
 窪田は歌恋に顔を近づけささやくとそっと唇を合わせた。上空の強い風が雲を流し、束の間に現れていた月を群雲が隠した。辺りがまた暗くなり、生ぬるい風が駆け抜けた。
「嫌な風……。何か気味が悪いわ」
 歌恋がぶるっと身体を震わせながら言った。
「そうだね。部屋に戻ろうか」
 窪田が同意した。

「うわあ、和風な敷布団もステキね」
 寝室に入った歌恋が小さな歓声を上げ、布団の横に正座し三つ指を突いてお辞儀をしながら言った。
「不束者ですが、お世話になります……って、きゃっ、昔のドラマみたい」
 はしゃぐ歌恋の腕を取って、窪田は歌恋を布団の上に押し倒した。

 体調が万全でない状態で歌恋に挑んだ窪田は、疲れ果てて眠っていた。その横で歌恋が彼の胸によりかかっていた。
 こうしてじっとしていると、窪田の心臓の音がよく聞こえた。歌恋はその規則正しい心音がやや速いことに気がついたが、そういう行為の後だからとあまり気にしなかった。ただ、その心音にはなんとなく雑音が混じっているような気がした。
 歌恋は窪田の身体をじわじわと侵し続けているナノサイズの悪魔が、彼女を侵そうとしているとは思ってもいなかった。しかし彼女の胎内に大量に放出された精子には、その悪魔が無数に取り憑いていた。それは、確実に歌恋を感染に追いやるに充分すぎる量だった。もっとも、あの事故の日、森田健二の血液が付着したままの窪田の手に触れた歌恋が、すでに感染している可能性は十分にあったのだが。
 そうとは知らない歌恋は、幸せそうに窪田のそばに寄り添うと布団をかけ、満足そうに目を閉じた。
(明日はこのままゆっくり寝ていてもいいのよね……)
 朝目覚めたときに愛する人がそばにいる幸せ……。それは、歌恋が願ってやまないことであった。しかし、そのささやかな願いと引き換えた代償は、大きすぎるものであった。
 

 少年は、半裸で無造作に床の隅に転がされていた。身体のあちこちがうっ血し、右足と左手が不自然に曲がっている。顔も、原形が想像出来ないほど腫れあがっていた。その状態で少年はすでに半分意識を失いかけていた。その朧げな意識の中で、男達の会話を夢現ゆめうつつのように聞いていた。
”バカヤロウ! キサマ,おれ達のいない間にあのガキを……! せっかくの上玉だったのにどうするんだよ!”
”おまえの性癖にも困ったもんだな.コトに及ぶ前に相手を痛めつけないといられないなんてよ,このド変態が!”
”今回は男だからって油断してたら,これだよ.まあ,そこらへんの女よりよっぽど綺麗だったことは認めるがね.今はザマァないが”
 男達は一言言うたびに、件の男を殴りつけているようだった。
”もう,勘弁してくれよお…….結局っちゃいないんだからさあ”
”この大馬鹿野郎がぁあ!!”
 ボスらしい男の声がして、男を蹴り上げる音がした。男は吹っ飛んでテーブルごと壁にぶち当たった。
”痛めつけすぎて,犯る前に死にかけたからビビッただけだろうが!!”
”だってよ,あのガキ,最後までオレを馬鹿にした目つきで見やがって……”
 男は半泣きで言った。
”許してくれよお……”
 その時、外から年配の女が慌しく入って来た。
”大変だよ,ギルフォード家の次男坊が昨日から行方不明だって大騒ぎになってるよ”
”なんだって? マジかよ、グラン・マ”
 男達はいっせいに床に転がった少年を見た。
”ギルフォード家ってあの,昔ワケ有りで王室を抜けたっていう、あの‘闇のダークギルフォード’
か?”
”で,そのギルフォード家の御曹司が,なんで山の中でたった一人で虫取りをして遊んでたんだよ.え?”
”おい,おめえ,ひょっとしてギルフォードの敷地から攫ってきたんじゃないだろうな??”
 ボスらしき男が、自分が蹴り上げた手下の方を見て言った。
”そんなの知らねえよ.ただ,車で流していたら、綺麗なガキが目に付いて売り物になるだろうって……”
”そいつをこんなにしちまったのかい?”
 女が言った。
”本当に馬鹿な男だよ,おまえは”
”どうするよ.ギルフォードの連中,絶対におれ達を探し出すぞ.この馬鹿が息子をこんな目に遭わせちまってよお,おれら八つ裂きにされっちまうよぉ”
”こうなったらここをズラかるしかないね.その前に証拠を消してしまわなきゃ.このガキに使い古しの食油でもぶっ掛けて,地下の元食料倉庫に転がしときな.腹をすかせたネズミや最近やたら増えてきた黒い虫共が、身元不明死体になるまで食ってくれるさ”
(いや! やめて! 殺さないで!)
 少年は叫びたかったが声にならなかった。彼は抱えあげられ地下に連れて行かれ隅に転がされた。かろうじて身にまとわりついている、血と泥で汚れた白いシャツを引っ剥がされ、トドメに頭から食油をかけられ放置された。無情にも地下倉庫のドアが閉められ鍵のかかる音がした。男達が去ると、やがて周囲から黒いモノたちが、ガサガサと寄ってきた。
(助けて!! 父様,母様!!)
 少年はもがこうとしたが、身体がピクリとも動かない。外傷性ショックでだんだん息も苦しくなってきた。と、目の前に黒いモノが近づいてきた。痛めつけられたせいで霞んだ目にも、それが何かわかった。少年の恐怖は頂点に達した。

”アレックス! アレックス!! 目を覚ませ! しっかりしろ!!”
 ギルフォードはジュリアスに起こされて目を開いた。全身汗びっしょりになっていた。
”また,あの夢をみたのかい?”
”ああ……”
 ギルフォードは起き上がると、両手で顔を覆った。恐怖で身体が遠目にもわかるほど震え、息も上がっている。
”ひどいうなされ方だったぞ”
 ジュリアスが心配そうに顔を覗き込んで言った。ギルフォードは荒い息を整えようと、ため息をつきながら答えた。
”成人してからは,年に5・6回見るくらいに減ってたんだがな……,ここ数日連発して見ているんだ”
”やはり,この事件のせいかい?”
”多分ね”
”寝不足ってのは,このこともあったんだろ?”
”ああ……”
 ギルフォードは、右手で頭を支えながら言った。半分見える顔が苦痛に歪んでいる。
”アレックス,ぼくがいるだろ.そんな悪夢なんて忘れさせてやるから,ゆっくりと眠るんだ……”
 ジュリアスは、ギルフォードをぎゅっと抱きしめ、彼の震えが収まるのを待った。彼が落ち着いたのを確認すると、彼を寝かせ自分も横に寝ると、間接灯だけつけて他の灯りを消し毛布を被った。
”大丈夫,ぼくがついているよ.安心してゆっくりとお休み……”
 ジュリアスは、ギルフォードに両手を絡ませ、彼の身体を再び抱くと優しく囁いた。ギルフォードはしばらくジュリアスの腕の中で大人しくしていたが、急に身体を起こしてジュリアスにのしかかった。
”こら,アレックス.今日は大人しく寝るんだよ”
”忘れさせてくれるんだろう?”
 ギルフォードが切ない眼をして言った。
”悪い子だな……”
 ジュリアスは困った笑みを浮かべて言ったが、さして抵抗する様子もない。ギルフォードはそのままジュリアスに顔を近づけた。昼間、ジュリアスがやったゲリラキスよりはるかに長く濃厚なキスだった。ギルフォードはそのままの体勢で、間接灯を消した。部屋は暗くなったが、窓のカーテンの隙間から差し込む月光でぼんやりと明るかった。ジュリアスはそのまま目を閉じ、ギルフォードに身体をゆだねた。

(第2部 4章衝撃 終わり) 


**************************

【ちょっと無粋なあとがき】
 「安全」じゃないので、くれぐれも歌恋ちゃんのマネはしないようにしてください。避妊はきちんとしてね。
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