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第三部 第三章 暗雲
2.逃亡者
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ジュリアスは、急に明るくなったので目を覚ました。ギルフォードが寝室の遮光カーテンを開けたからだ。
”今日は日が差しているな…….ジュリー,そろそろ起きて空港に行く仕度をしないと間に合わなくなるぞ”
”昨夜はろくに寝てないんだぞ.まだ六時にもなってないじゃないか~.七時まで寝ててもだいじょうぶだよ~”
ジュリアスは、そう言うとまた毛布を被った。ギルフォードはその毛布をバッと剥ぎ取ると諭すように言った。
”飛行機に乗ったら充分眠れる.それに,余裕を持って早めに行かないと空港内で走り回ることになるぞ”
”なんだよ,アレックス.ぼくをそんなに早く追い出したいのかい"
ジュリアスがそう言いながら少しふくれっ面をした。
”四の五の言わねぇで,さっさとシャワーを浴びてシャキッとしろ!”
ギルフォードはジュリアスを抱え上げ、横抱きにしてバスルームに向かった。驚いたジュリアスが、ギルフォードの腕の中で暴れた。
”うわぁ,やめろ! お姫さま抱っことか恥ずかしいよ”
”こら,じっとしねぇか,ばか.重いのに大サービスで運んでやっているんだぞ.あれ? おまえ,日本に来て少し太ったか?”
「たーけっ,そんな余裕にゃあわっ!」
”ははは,そうだったな,色々働いてくれたもんな.ありがとう”
”へへへ……”
ギルフォードに率直に礼を言われてジュリアスは少し照れながら笑った。
”……そういえば何日か前も,転寝していたおまえをこうやって運んだな.覚えているか?”
”……ん.何となくね”
”あの時はちゃんと服を着ていたけどな.ほら、着いたぞ”
ギルフォードはバスルームに入ると、ジュリアスをおろしながら言った。
”バスタブに湯を張っておいてやったよ.少しゆっくり入るといい.昨夜はそれどころじゃなかったからな”
”ばか.でも、湯船に浸かれるのはありがたいな.じゃ、遠慮なく”
ジュリアスはそう言いながらザッパンと景気良く湯に入った。
“おまえ,それ銭湯とかでやるなよ.かけ湯はちゃんと……”
”わかってるって。言うほど狭くないよね。このバスルーム.ジャグジーなんかもついてるし”
”ああ.足を伸ばして入れるバスタブがあるってのを部屋を選ぶ時の基準にしたからな”
”そっか.確かに脚を伸ばせていいよね.僕が育った名古屋のばあちゃんちも、ちょっと狭かったからなー”
と言いながら、ジュリアスはぐうっと背伸びをした。
「あ~、ゴクラク、ゴクラク」
”’ゴクラク’って、おまえ”
苦笑するギルフォードに、ジュリアスが笑いながら言った。
”こういう時,日本人は’ゴクラク’って言うんだよ.極楽は天国とはちょっと違うんだ.きっと楽しくてカラフルでステキなところさ”
”そうかい? じゃあ、俺もちょっとゴクラクにお邪魔しよう”
ギルフォードは、長身に似合わず身軽にスルリとジュリアスの横に入った。
”って,二人入ると流石にせまいな.ああ,こうすればいいのか”
そう言いながら、ジュリアスの背に腕を回して彼の肩を抱く。
”ま,たまにはこういうのも悪くないな”
”でも、オイルサーディンの気持ちがよくわかるよね”
二人は肩を並べて笑った。しかし、すぐにギルフォードが心配そうな顔で言った。
”じゃ,死後の世界があるとして,日本人の多くは死んだら俺たちと違う場所に行くのか?”
”そうだね.臨死体験もヴァージョンが違うようだから,違うのかもね”
”じゃあ,行き来が大変だな”
”地獄からよりは,ずっと簡単に行き来出来るんじゃない?”
”そう願いたいね"
”だけど,選べるとしたら僕は天国より極楽がいいな”
”こら,今から出かけようって時に不吉なことを言うんじゃない”
”そうそう飛行機も落ちやしないって……。でも、そう言われたらちょっと不安になってきたよ”
”帰るのを中止して,ずっとここに居ることは出来ないのか?”
”そうは行かないだろ.短期滞在の許可しかもらってないんだから.僕は,正式な依頼でこの事件に参加したいんだ.それに,帰ってからけじめをつけなきゃならないこともあるし”
それを聞いたギルフォードが体を起こしたので、支えを失ったジュリアスの体が湯に沈みかかった。ギルフォードはとっさに彼を抱き上げながらも言った。
”あっちの恋人ときっちり別れるとか?”
”そんなの居ないって,再会した夜にわかってるだろ.ばかだな”
”ふん”
”何,いじけてるんだよ”
ジュリアスは、クスクス笑いながらギルフォードから抱きかかえられた状態から体を起こし、バスタブの中で彼と向かい合って座った。
”あんなこと言って,本当は寂しいんだろ?”
”悪いか?”
”君、意外とわかりやすいよね”
”だいたいお前が……”
と言いながら、ギルフォードはジュリアスの鼻先に人差し指を向けた。しかし、ジュリアスは悪戯っぽく笑うと、ぱくっとその指をくわえてしまった。
”何をするっ! うわぁ,舐めるんじゃない,馬鹿野郎っ! そんなことをしたら,また……”
”わあ,しまった,ちょっとタンマ! お風呂の中はやめて,のぼせるっ”
”うるさい、馬鹿! おまえのせいだからなっ!”
”わ~~~~っ!!”
ジュリアスは焦ってバスタブから出ようとしたが、敢え無く背後からつかまってしまった。
さて、朝っぱらからラブラブなバカップルはこの辺で放っておいて、こちらは昨夜ラブラブでなかった葛西。
彼は、目覚ましの音で飛び起きた。途端に激しい頭痛が襲ってきて頭をかかえた。まさか感染したのかと、一瞬ひやっとしたが、よく考えたら宿酔いである。
「あいたたた、飲みすぎた……」
しかし、その頭痛の中で、葛西の脳裏にいくつかの記憶の断片がよみがえった。今は素面に戻った彼は血の気が引くのがわかった。
「ああ、由利ちゃん、鬼の形相で怒ってた。わ~、どうしよう! いってぇ~~~!」
しかも、どうやって寮に戻ったか、まったく記憶がないときている。なんとなくタクシーに蹴り込まれたような記憶はあるのだが。葛西は宿酔い頭痛と後悔で頭を押さえて布団に突っ伏した。
「終わったな……」
そう言うと、葛西はベッドの上にごろんと大の字に寝転がった。そして、「はああ~」と、大きくため息。その時携帯電話が鳴った。九木からであった。
「あ~、いてててて、九木さんは宿酔い大丈夫だったのかな」
頭を抑えつつ、起き上がって電話に出た。
「おはようございます。葛西です」
「おはよう。君、宿酔いは大丈夫かね」
「はあ、頭痛はしますが、なんとか……」
「そうか。若いな」
「ってことは、九木さんも?」
「私はたいした量は飲んでなかったからな。少々頭は痛いが君くらいはがんばれるさ。さて、電話したのは今日のことだが……」
「はい」
「君、今日の九時頃空港に行く許可が欲しいって言ってたよな」
「やっぱりダメですよね……」
葛西は、昨日の由利子のことを考えたら、だめで却ってよかったと少しほっとした。
「何を言ってるんだ。メガローチ捕獲に協力してくれた学者さんのお見送りだろう? 本来ならもっとお偉いさんが見送らねばならないところだ。だが、キング先生ご自身が見送りをお断りになってね。葛西君、むしろ、君に警察を代表してのお見送りをお願いしたいということになった」
「え? っで、でも……」
「なんだ、問題でもあるのか?」
「いえ、そんなことは……」
「じゃ、今からすぐに向かってくれ。俺も行く」
「えっ、今から? 起きたばかりだし、まだ七時前……」
それにどうして九木さんまで……と口に出しかけて思わず口ごもった。
「実はな、森田健二と接触し、今も姿を隠している竜洞蘭子が、今日、空港から海外に高飛びするというタレコミがあった」
「海外逃亡って、もう空港にも手配書が回っているし、無理でしょう?」
「それがだ、偽造パスポートを使って、他人に成りすまして出国するらしいというんだ」
「名前に負けずすごい女ですね。どーゆー人なんです?」
「父親が竜洞組の組長だからな。香港マフィアあたりと繋がっていてもおかしくないだろう」
「信憑性は?」
「松樹部長の話では、その可能性がないとは言い切れないということだった」
「そういえば、もともとマル暴の方でしたね」
「もし、これが事実だった場合、感染者を海外に放出することになる。そうなった場合、一気に世界規模の危機となりかねない。ガセである可能性も高いが、看過できない情報だ。それで、空港警察だけでは手に余るだろうということで、SVT(サイキウイルステロ)捜査本部からも4人ほど出ることになった。うち二人が君と私だ」
「了解。すぐに空港に向かいます!」
電話を切った後、葛西は一転して気持ちが緊張するのを感じた。
感染症対策センターでは、どんどん悪化していく歌恋の病状を考慮して、高柳敏江が家族を呼ぶべきだと判断した。しかし、連絡を入れても両親も兄も忙しくて来れないと言う。そのことを聞いて、敏江は深いため息をついた。
「実の娘さんが、こんな状態にいるというのに……」
しかし、敏江はその先の言葉を濁した。歌恋に配慮したのだろう。もっとも、今の彼女がそれを理解したかどうかは疑問だが。
「敏江、やはりここだったか」
驚いて振り向くと、そこには高柳が立っていた。
「あな……センター長」
「『あなた』でも僕は構わないよ」
高柳はそう言いながら敏江の横に立った。その時、歌恋がふっと目を覚まして高柳のほうを見た。彼女はにこっと笑うと、高柳のほうに手を伸ばして言った。
「おとうさん、きてくれた……」
高柳は戸惑って妻のほうを見た。敏江は悲しそうに微笑んで言った。
「昨日から、ずっとこういう状態なの。可愛そうに……」
「話は聞いているよ。いろいろ大変なようだね」
「私のそばにいるから、あなたを父親だと思ったのね。ね、あなたに手を差し出してるわ。そっと握ってあげて」
「どうも、こういうのは苦手なんだがね」
と言いながらも高柳は歌恋の手をとった。歌恋はすがるような目でたどたどしく言った。
「おとうさん、おかあさん、ずっと、そばにいてね……」
高柳は、そっと歌恋の頭を撫でて言った。
「わかったよ。だからちゃんとお休み。早くよくなろうね」
「うん」
歌恋はうなづくと、安心したように再び目を閉じた。
「やりきれんなあ。こんな子をよく放っておけるものだ」
「でも、患者数が増えてきたら、これからもこういうことがないとは言えないわ」
「血のつながりが絶対ということはないからね。悲しいことだが……。敏江、今日は出来るだけこの子についていいなさい。今は落ち着いているが、おそらくこれからが峠だろう。越えられればいいが……」
そう言うと、高柳は歌恋の頭をもう一度撫で、去っていった。敏江はベッドサイドに椅子を持ってきて、歌恋のそばに座った。そして、彼女の寝顔を見ながらつぶやいた。
「私には、もうこの子をこうやって見守ることしか出来ないのか……。医者なのに、何も出来ないのか……!!」
敏江の両肩は、かすかに震えていた。
「もう、みんな、おっそい! 何してんだよ!」
由利子は、待ち合わせ場所のF空港の国内線ターミナル内の喫茶店で、ひとりやきもきしながら座っていた。早めに出たせいで一番乗りしてしまったのだ。しかし、三十分経って約束の時間になっても誰も来ないので、だんだんイライラしてきて、確認をしようと携帯電話を手に取ったとたんに葛西から着信があった。
「うわっ」
由利子は驚いたが急いで電話に出た。昨日の今日なので、なんだか電話に出るのが気まずい。すると、電話から葛西のおずおずとした声が聞こえてきた。
「……えっと、あのっ、由利子さん、すみません。もう空港に来てますよね」
「ああ、もう三十分も前から来てるよ。なのに誰も来ないんだよ、もー」
由利子は出来るだけいつもの調子で言った。それで葛西の緊張が解けたらしく、ほっとした様子で言った。
「すみません。実は僕も8時前から来てるのですが、ちょっとここで問題が起きていて……」
「ここでって、この空港でってこと?」
「はい」
「まさか、ばくだ……」
「こんなとこで物騒なことを言わないで下さい」
葛西が焦って止めた。
「あ、ごめんごめん。で、何が?」
「ええ、実は……」
葛西は、状況を簡単に説明した。理由を聞いた由利子があきれ声で言った。
「名前もすごいけど、とんでもない女やね。でも、情報どおりにここに来たら、大変だね。特に発症してた場合、またパニックになってしまう」
「あの、由利子さん、たしか松樹さんに彼女の写真も見せられてましたよね」
「他にも見たくもない連中の顔をたんと見せられたよ。見ただけで腹の立つ斉藤幸治の顔もね。あの人、私を警察犬の代わりにでもしたいんかい」
「そんなことはないと思いますが、いっそ、そういう仕事を請け負ったらどうです? どこかの自称FBI超能力捜査官より当てになりそうですよ」
「ジョーダンじゃねぇわよ。これ以上面倒なことに首を突っ込んでたまるかって」
「ははは。でも、もしそれらしい人を見つけたら連絡してください」
「そりゃあ、もちろん。じゃあ彼女、こっちに来るってこと?」
「直接海外に行くのか、まず、国内線で他の空港まで行くのか、そもそもどこの国に行くのか、そういう細かい情報がまったくないんです」
「そっか。国際線の本数少ないからね。あってもアジアが主だし。ジュリーも関空経由で帰るって言ってるもんね」
「僕はそういう状況なんで、見送りに間に合うかどうかわかりません。その時はジュリーによろしくと言ってください」
「うん、わかった。じゃ、お疲れ様」
由利子は電話を切ると、ふうっとため息をついてつぶやいた。
「なんか、また大変なことになってるよなあ」
しかし、電話を終えたあと携帯電話に記された時刻を見て、また少し由利子の眉間にしわが寄った。
(約束より十分過ぎと~やん。自分たちから少しお茶しようとか言っとおきながら、なにやっとるんじゃ、あの二人はっ! まさかまだ別れを惜しんどるんやなかろーね)
由利子は、やや乱暴に電話をバッグに収め、冷めたコーヒーを飲み干すと、追加オーダーのためウエイトレスを呼ぼうと周囲を見回した。すると、入り口のほうから背の高い外国人の男二人が現れた。周囲の注目がさっと二人に集まった。二人は由利子の姿を確認すると、さっさとそっちのほうに向かった。イケメン外人二人の連れということで、周囲の羨ましそうな視線が由利子のほうに向かった。なんとなく悪い気はしない。
「ハイ、ユリコ。待たせてすみませんね」
「おそいぞ。何してたんだよ!」
それでも苦情を言いながら、目の前に並んだ二人の顔を見た由利子は、あきれて言った。
「何、二人とも目の下に隈作ってんだよ、もう……」
「あははは……」
二人は照れ笑いをしながら、由利子と向かい合って座った。
斉藤孝治は、激しい腹痛で目を覚ました。祖母を呼んだが返事がない。早朝から出かけた日課の畑仕事からまだ帰ってきていないようだった。孝治は仕方なく起き上がろうとした。
しかし、その時右足首の痛みに気づいた。見ると、昨夜挫いた右足首がパンパンに腫れ、しかも内出血で赤黒くなっていた。孝治は驚いた。そこまで酷く挫いた覚えがなかったからだ。急いで右掌を見ると、かすった傷からまだ血がにじんでいる。普通なら血等ほとんど出ないていどの傷のはずだった。
孝治はおかしいなと思ったが、腹痛が激しくなっていくのを感じてよろよろと立ち上がった。右足は痛いが歩けないほどではない。しかし、熱が高いせいでふらふらして、どうしても何かに寄りかからないと数秒で倒れてしまうそうだった。幸い、祖母の家は体が悪くなったときを考えて、家を改築していたので、バリアフリーの床や壁の手すりのおかげで何とか御手洗まではたどり着けた。
なんとか用を足した孝治だったが、紙についたものを見た時、恐ろしくてよく確認せずにすぐに流してしまった。幸い、昨夜機転を利かせてつけておいた失禁用ナプキンは汚れていなかった。孝治はなんとなく妙な気持ちで立ち上がり寝巻きを調えて手を洗った。その時、ふと目の前の鏡を見てまたぎょっとした。
昨夜右手とともに顔にも擦り傷を負ったのだが、その傷は腫れ、血の混じった汁がじわじわと流れていた。それは、ただでさえ内出血の染みだらけの顔を、更に凄みのあるものにしていた。孝治は「うわぁっ」と小さい悲鳴を上げて手洗いから飛び出すと、ドアの前でへたり込んだ。
孝治はへたり込んだまま恐怖と戦っていた。
(いったい俺の体はどうなっている? これから俺はどうなる……?)
心臓の鼓動は激しく打ち、体が小刻みに震えている。そんな時、年配の女性の声が聞こえてきた。
「あ~、暑かねえ。やれやれ、ようやくうちまで帰り着いた」
そして、手洗いの近くにある玄関に老女の姿が映り、鍵を開けるとガラガラと引き戸を開け祖母の須藤絹代が入ってきた。彼女は手洗いの前に座り込んでいる孝治にすぐに気がついた。
「コウちゃん、どうしたと? きついんね? コウちゃんのために新鮮なトマトを採ってきたばってん、それじゃあ、食べれらんかねえ……」
「ばあちゃん、おれ……」
孝治は恐る恐る祖母のほうを見た。明るい場所で初めて孝治の顔を見た絹代は、腰を抜かさんばかりに驚いた。
「コウちゃん、どうしたんね!?」
絹代は作業用の長靴を脱ぐのももどかしく、家に上がって孝治のそばに駆け寄った。
「あっちこっち痣だらけやんね。足も腫れとおし……。あんた、ホントは事故に遭ったっちゃなかね?」
「ちがうよ、これ、昨日の晩トイレから帰ったとき、部屋でこけたっちゃん」
「あんた、家ん中でちょっとこけたくらいでこげんになるわけなかろーが。病院行かんと。ばあちゃんが軽トラではこんじゃるけん」
「大丈夫やって。寝とったら治るってば」
「いかん。あんたね、ばあちゃんが何ぼ馬鹿やっても、こん状態がまともやないことくらいわかるが。きついんなら救急車呼ぼうか」
「いらんことせんでんよか!」
孝治は病人らしからぬ大声で怒鳴った。その激しい声に絹代は驚いて目を丸くした。
「あ、ごめん……」
孝治は我に帰って言った。
「ばあちゃん、心配してくれとぉとにな。でも、ほんとうに大丈夫やけん。部屋でおとなしく寝とくわ」
孝治は優しく言うと立ち上がり、手摺りにすがるようにして部屋に戻って行った。
絹代はしばらく呆然と座り込んでいたが、何かに気づいたように立ち上がって居間のほうに向かった。そして、テレビの横にあるマガジンラックから一番新しい市報を手に取ってページをめくり、目的のページを開いた。それは、新興感染症の特集ページだった。
「ねえねえジュリー、今のうちに聞きたいことがあるんだけど……」
ギルフォードが高柳からかかった電話に出るために席を外したので、由利子は少し気になっていたことを聞くことにした。
「何かね」
「あのさ、アレクの親友だった女性って知ってる? アレクが私に似ているって言ったことがあるんだ」
「ああ、昔、2・3度だが会った事があるがや」
「どんな人だったの?」
「なんでおれに聞くのかねー?」
「なんとなく、本人には聞きづらいからさー」
「まあええて。教えたるわ。彼女の名前はエマールダ。エメラルドが名前の語源だて、黒髪に名前を現すようなグリーンアイズで、南国的で情熱的な女だったよ。身長は160cmくらいで細身だけどけっこうグラマラスでね……」
「って、そのグラマー美人と私のどこが似てんのよ。どちらかというと美羽じゃん」
「見た目じゃのーて、なんていうか、男と親友になれるようなヤツだで、見かけによらずサバサバしとって、おれから見ても、ずいぶんと漢らしいヤツだったわー。そのせいか、ゲイの素養のある人間にもよー慕われとったんだと。彼氏もバイでね。ほだけど、そのせいで彼氏からエイズに感染してまったんだ。十数年前の話だから、今ほどエイズの薬もなくてね。今なら死ぬことはなかったと思うて」
「そうだったの」
「アレックスの嘆きはすごかったそうだがや。しかも、アル・新一に続いて身内以外でアレックスが慕った人間が死んだのは3人目だろ。ほいであいつのサバイバーズ・ギルトが悪化してね。ほだな、ちょこっとこれを見てくれーせんか」
そう言うと、ジュリアスはいきなり右足のジーパンのすそをめくり上げた。その向う脛に大きな傷跡があった。
「ど、どうしたの、それ?」
由利子が驚いてたずねた。
「四年前のことだが車が歩道に突っ込んできてね、とっさに避けたけど避けきれにゃーで、ビルの壁と車の間に足が挟まって複雑骨折したんだわ。まだボルトが入ったままだがや。まあ、この時は命に別状なかったけど、駆けつけたアレックスの蒼白な顔は今でも忘れられにゃーて」
「この時はって、まさか」
「察しがええね。髪に隠れてわからにゃーけど、ここにも傷があるんだわ」
ジュリアスは頭の右側を抑えて言った。
「三年くらい前になるかな。中東に支援に行った時、爆弾テロに巻き込まれてね、破片が直撃したんだわ。この時は1ヶ月意識がなかったらしいて。おれが意識を取り戻した時、アレックスは横で手を握って泣いとったけど、その後、あいつ、俺の前から姿を消したんだ」
「自分のせいだって思ったって訳?」
「そういうことだがね。しかも、たちが悪いことに、自分じゃそれを意識しておれせんのだわ。俺のほうから去ったって思っとったんだ。おれ、でらたまげたわ……」
「そりゃあ、驚くよね。私もちょっとびっくり……」
「ほだから、あいつはああ見えてけっこう不安定なとこがあるて、由利子、おれのいない間、頼んどくな」
「って、私はエマールダさんとは違うんだよ。それに紗弥さんだっているじゃん」
「紗弥の仕事は秘書だが、もともとの役目はアレックスの護衛なんだわ。詳しいことは言えにゃーけどね。だもんで、おみゃあさんには紗弥と一緒にアレックスの支えになってもらいてゃーんだ」
「う~ん……」
由利子は腕組をして考え込んだ。
「おれ、心配なんだわ。それでのーてもこの事件はアレックスのトラウマに触れすぎとる。ほだけど、あいつは敢えて真正面から向き合おうとするだろう。おれは、2・3週間で帰ってくる。その間でえーんだ。あいつのフォローを頼むわ」
「そう言われてもなあ、メンタル面で責任重大だし……」
由利子は困ってつぶやいた。その時、ギルフォードが電話を終えて帰って来た。彼は席に着くと開口一番に言った。
「……おや、二人とも深刻な顔をして、どうしたんですか?」
「葛西君が見送り間に合うかなって話をしてたんだ」
「ああ、確かに心配ですね。それより、ユリコ、ササガワ・カレンさんの容態が良くないそうです」
「え? そんな……」
昨日の状態を見て、そんな予感はしていたのだが、やはり現実にそれを聞くと愕然とする。
「まだ危篤とまではいかないようですが……。ユリコ、後でセンターに寄ってみましょう」
「ええ、行きます」
「それから、紗弥さんももうすぐ着くそうです。事故渋滞に引っかかったので、バイクで出直したそうです」
「じゃあ、あとは葛西君だけね。まったくもう、たった一人の自己チュー女のせいで、とんだ迷惑だよ」
「発症してなければいいのですけど……」
「発症していたら……?」
「状態次第では、空港の一時閉鎖だな。おれ、帰れんがね」
「まあ、この前のF駅の感染者くらい病状が進んでなければ、それはないでしょう。いずれにしても、身柄確保は仰々しいものになるでしょうけど」
「……ったく」
由利子がたんっとテーブルを叩いて言った。
「また、ニュースネタになるやろ。ほんっとに困った女だよ!」
「まったくです」
「まったくだがや」
ギルフォードとジュリアスがほぼ同時に同意した。
”今日は日が差しているな…….ジュリー,そろそろ起きて空港に行く仕度をしないと間に合わなくなるぞ”
”昨夜はろくに寝てないんだぞ.まだ六時にもなってないじゃないか~.七時まで寝ててもだいじょうぶだよ~”
ジュリアスは、そう言うとまた毛布を被った。ギルフォードはその毛布をバッと剥ぎ取ると諭すように言った。
”飛行機に乗ったら充分眠れる.それに,余裕を持って早めに行かないと空港内で走り回ることになるぞ”
”なんだよ,アレックス.ぼくをそんなに早く追い出したいのかい"
ジュリアスがそう言いながら少しふくれっ面をした。
”四の五の言わねぇで,さっさとシャワーを浴びてシャキッとしろ!”
ギルフォードはジュリアスを抱え上げ、横抱きにしてバスルームに向かった。驚いたジュリアスが、ギルフォードの腕の中で暴れた。
”うわぁ,やめろ! お姫さま抱っことか恥ずかしいよ”
”こら,じっとしねぇか,ばか.重いのに大サービスで運んでやっているんだぞ.あれ? おまえ,日本に来て少し太ったか?”
「たーけっ,そんな余裕にゃあわっ!」
”ははは,そうだったな,色々働いてくれたもんな.ありがとう”
”へへへ……”
ギルフォードに率直に礼を言われてジュリアスは少し照れながら笑った。
”……そういえば何日か前も,転寝していたおまえをこうやって運んだな.覚えているか?”
”……ん.何となくね”
”あの時はちゃんと服を着ていたけどな.ほら、着いたぞ”
ギルフォードはバスルームに入ると、ジュリアスをおろしながら言った。
”バスタブに湯を張っておいてやったよ.少しゆっくり入るといい.昨夜はそれどころじゃなかったからな”
”ばか.でも、湯船に浸かれるのはありがたいな.じゃ、遠慮なく”
ジュリアスはそう言いながらザッパンと景気良く湯に入った。
“おまえ,それ銭湯とかでやるなよ.かけ湯はちゃんと……”
”わかってるって。言うほど狭くないよね。このバスルーム.ジャグジーなんかもついてるし”
”ああ.足を伸ばして入れるバスタブがあるってのを部屋を選ぶ時の基準にしたからな”
”そっか.確かに脚を伸ばせていいよね.僕が育った名古屋のばあちゃんちも、ちょっと狭かったからなー”
と言いながら、ジュリアスはぐうっと背伸びをした。
「あ~、ゴクラク、ゴクラク」
”’ゴクラク’って、おまえ”
苦笑するギルフォードに、ジュリアスが笑いながら言った。
”こういう時,日本人は’ゴクラク’って言うんだよ.極楽は天国とはちょっと違うんだ.きっと楽しくてカラフルでステキなところさ”
”そうかい? じゃあ、俺もちょっとゴクラクにお邪魔しよう”
ギルフォードは、長身に似合わず身軽にスルリとジュリアスの横に入った。
”って,二人入ると流石にせまいな.ああ,こうすればいいのか”
そう言いながら、ジュリアスの背に腕を回して彼の肩を抱く。
”ま,たまにはこういうのも悪くないな”
”でも、オイルサーディンの気持ちがよくわかるよね”
二人は肩を並べて笑った。しかし、すぐにギルフォードが心配そうな顔で言った。
”じゃ,死後の世界があるとして,日本人の多くは死んだら俺たちと違う場所に行くのか?”
”そうだね.臨死体験もヴァージョンが違うようだから,違うのかもね”
”じゃあ,行き来が大変だな”
”地獄からよりは,ずっと簡単に行き来出来るんじゃない?”
”そう願いたいね"
”だけど,選べるとしたら僕は天国より極楽がいいな”
”こら,今から出かけようって時に不吉なことを言うんじゃない”
”そうそう飛行機も落ちやしないって……。でも、そう言われたらちょっと不安になってきたよ”
”帰るのを中止して,ずっとここに居ることは出来ないのか?”
”そうは行かないだろ.短期滞在の許可しかもらってないんだから.僕は,正式な依頼でこの事件に参加したいんだ.それに,帰ってからけじめをつけなきゃならないこともあるし”
それを聞いたギルフォードが体を起こしたので、支えを失ったジュリアスの体が湯に沈みかかった。ギルフォードはとっさに彼を抱き上げながらも言った。
”あっちの恋人ときっちり別れるとか?”
”そんなの居ないって,再会した夜にわかってるだろ.ばかだな”
”ふん”
”何,いじけてるんだよ”
ジュリアスは、クスクス笑いながらギルフォードから抱きかかえられた状態から体を起こし、バスタブの中で彼と向かい合って座った。
”あんなこと言って,本当は寂しいんだろ?”
”悪いか?”
”君、意外とわかりやすいよね”
”だいたいお前が……”
と言いながら、ギルフォードはジュリアスの鼻先に人差し指を向けた。しかし、ジュリアスは悪戯っぽく笑うと、ぱくっとその指をくわえてしまった。
”何をするっ! うわぁ,舐めるんじゃない,馬鹿野郎っ! そんなことをしたら,また……”
”わあ,しまった,ちょっとタンマ! お風呂の中はやめて,のぼせるっ”
”うるさい、馬鹿! おまえのせいだからなっ!”
”わ~~~~っ!!”
ジュリアスは焦ってバスタブから出ようとしたが、敢え無く背後からつかまってしまった。
さて、朝っぱらからラブラブなバカップルはこの辺で放っておいて、こちらは昨夜ラブラブでなかった葛西。
彼は、目覚ましの音で飛び起きた。途端に激しい頭痛が襲ってきて頭をかかえた。まさか感染したのかと、一瞬ひやっとしたが、よく考えたら宿酔いである。
「あいたたた、飲みすぎた……」
しかし、その頭痛の中で、葛西の脳裏にいくつかの記憶の断片がよみがえった。今は素面に戻った彼は血の気が引くのがわかった。
「ああ、由利ちゃん、鬼の形相で怒ってた。わ~、どうしよう! いってぇ~~~!」
しかも、どうやって寮に戻ったか、まったく記憶がないときている。なんとなくタクシーに蹴り込まれたような記憶はあるのだが。葛西は宿酔い頭痛と後悔で頭を押さえて布団に突っ伏した。
「終わったな……」
そう言うと、葛西はベッドの上にごろんと大の字に寝転がった。そして、「はああ~」と、大きくため息。その時携帯電話が鳴った。九木からであった。
「あ~、いてててて、九木さんは宿酔い大丈夫だったのかな」
頭を抑えつつ、起き上がって電話に出た。
「おはようございます。葛西です」
「おはよう。君、宿酔いは大丈夫かね」
「はあ、頭痛はしますが、なんとか……」
「そうか。若いな」
「ってことは、九木さんも?」
「私はたいした量は飲んでなかったからな。少々頭は痛いが君くらいはがんばれるさ。さて、電話したのは今日のことだが……」
「はい」
「君、今日の九時頃空港に行く許可が欲しいって言ってたよな」
「やっぱりダメですよね……」
葛西は、昨日の由利子のことを考えたら、だめで却ってよかったと少しほっとした。
「何を言ってるんだ。メガローチ捕獲に協力してくれた学者さんのお見送りだろう? 本来ならもっとお偉いさんが見送らねばならないところだ。だが、キング先生ご自身が見送りをお断りになってね。葛西君、むしろ、君に警察を代表してのお見送りをお願いしたいということになった」
「え? っで、でも……」
「なんだ、問題でもあるのか?」
「いえ、そんなことは……」
「じゃ、今からすぐに向かってくれ。俺も行く」
「えっ、今から? 起きたばかりだし、まだ七時前……」
それにどうして九木さんまで……と口に出しかけて思わず口ごもった。
「実はな、森田健二と接触し、今も姿を隠している竜洞蘭子が、今日、空港から海外に高飛びするというタレコミがあった」
「海外逃亡って、もう空港にも手配書が回っているし、無理でしょう?」
「それがだ、偽造パスポートを使って、他人に成りすまして出国するらしいというんだ」
「名前に負けずすごい女ですね。どーゆー人なんです?」
「父親が竜洞組の組長だからな。香港マフィアあたりと繋がっていてもおかしくないだろう」
「信憑性は?」
「松樹部長の話では、その可能性がないとは言い切れないということだった」
「そういえば、もともとマル暴の方でしたね」
「もし、これが事実だった場合、感染者を海外に放出することになる。そうなった場合、一気に世界規模の危機となりかねない。ガセである可能性も高いが、看過できない情報だ。それで、空港警察だけでは手に余るだろうということで、SVT(サイキウイルステロ)捜査本部からも4人ほど出ることになった。うち二人が君と私だ」
「了解。すぐに空港に向かいます!」
電話を切った後、葛西は一転して気持ちが緊張するのを感じた。
感染症対策センターでは、どんどん悪化していく歌恋の病状を考慮して、高柳敏江が家族を呼ぶべきだと判断した。しかし、連絡を入れても両親も兄も忙しくて来れないと言う。そのことを聞いて、敏江は深いため息をついた。
「実の娘さんが、こんな状態にいるというのに……」
しかし、敏江はその先の言葉を濁した。歌恋に配慮したのだろう。もっとも、今の彼女がそれを理解したかどうかは疑問だが。
「敏江、やはりここだったか」
驚いて振り向くと、そこには高柳が立っていた。
「あな……センター長」
「『あなた』でも僕は構わないよ」
高柳はそう言いながら敏江の横に立った。その時、歌恋がふっと目を覚まして高柳のほうを見た。彼女はにこっと笑うと、高柳のほうに手を伸ばして言った。
「おとうさん、きてくれた……」
高柳は戸惑って妻のほうを見た。敏江は悲しそうに微笑んで言った。
「昨日から、ずっとこういう状態なの。可愛そうに……」
「話は聞いているよ。いろいろ大変なようだね」
「私のそばにいるから、あなたを父親だと思ったのね。ね、あなたに手を差し出してるわ。そっと握ってあげて」
「どうも、こういうのは苦手なんだがね」
と言いながらも高柳は歌恋の手をとった。歌恋はすがるような目でたどたどしく言った。
「おとうさん、おかあさん、ずっと、そばにいてね……」
高柳は、そっと歌恋の頭を撫でて言った。
「わかったよ。だからちゃんとお休み。早くよくなろうね」
「うん」
歌恋はうなづくと、安心したように再び目を閉じた。
「やりきれんなあ。こんな子をよく放っておけるものだ」
「でも、患者数が増えてきたら、これからもこういうことがないとは言えないわ」
「血のつながりが絶対ということはないからね。悲しいことだが……。敏江、今日は出来るだけこの子についていいなさい。今は落ち着いているが、おそらくこれからが峠だろう。越えられればいいが……」
そう言うと、高柳は歌恋の頭をもう一度撫で、去っていった。敏江はベッドサイドに椅子を持ってきて、歌恋のそばに座った。そして、彼女の寝顔を見ながらつぶやいた。
「私には、もうこの子をこうやって見守ることしか出来ないのか……。医者なのに、何も出来ないのか……!!」
敏江の両肩は、かすかに震えていた。
「もう、みんな、おっそい! 何してんだよ!」
由利子は、待ち合わせ場所のF空港の国内線ターミナル内の喫茶店で、ひとりやきもきしながら座っていた。早めに出たせいで一番乗りしてしまったのだ。しかし、三十分経って約束の時間になっても誰も来ないので、だんだんイライラしてきて、確認をしようと携帯電話を手に取ったとたんに葛西から着信があった。
「うわっ」
由利子は驚いたが急いで電話に出た。昨日の今日なので、なんだか電話に出るのが気まずい。すると、電話から葛西のおずおずとした声が聞こえてきた。
「……えっと、あのっ、由利子さん、すみません。もう空港に来てますよね」
「ああ、もう三十分も前から来てるよ。なのに誰も来ないんだよ、もー」
由利子は出来るだけいつもの調子で言った。それで葛西の緊張が解けたらしく、ほっとした様子で言った。
「すみません。実は僕も8時前から来てるのですが、ちょっとここで問題が起きていて……」
「ここでって、この空港でってこと?」
「はい」
「まさか、ばくだ……」
「こんなとこで物騒なことを言わないで下さい」
葛西が焦って止めた。
「あ、ごめんごめん。で、何が?」
「ええ、実は……」
葛西は、状況を簡単に説明した。理由を聞いた由利子があきれ声で言った。
「名前もすごいけど、とんでもない女やね。でも、情報どおりにここに来たら、大変だね。特に発症してた場合、またパニックになってしまう」
「あの、由利子さん、たしか松樹さんに彼女の写真も見せられてましたよね」
「他にも見たくもない連中の顔をたんと見せられたよ。見ただけで腹の立つ斉藤幸治の顔もね。あの人、私を警察犬の代わりにでもしたいんかい」
「そんなことはないと思いますが、いっそ、そういう仕事を請け負ったらどうです? どこかの自称FBI超能力捜査官より当てになりそうですよ」
「ジョーダンじゃねぇわよ。これ以上面倒なことに首を突っ込んでたまるかって」
「ははは。でも、もしそれらしい人を見つけたら連絡してください」
「そりゃあ、もちろん。じゃあ彼女、こっちに来るってこと?」
「直接海外に行くのか、まず、国内線で他の空港まで行くのか、そもそもどこの国に行くのか、そういう細かい情報がまったくないんです」
「そっか。国際線の本数少ないからね。あってもアジアが主だし。ジュリーも関空経由で帰るって言ってるもんね」
「僕はそういう状況なんで、見送りに間に合うかどうかわかりません。その時はジュリーによろしくと言ってください」
「うん、わかった。じゃ、お疲れ様」
由利子は電話を切ると、ふうっとため息をついてつぶやいた。
「なんか、また大変なことになってるよなあ」
しかし、電話を終えたあと携帯電話に記された時刻を見て、また少し由利子の眉間にしわが寄った。
(約束より十分過ぎと~やん。自分たちから少しお茶しようとか言っとおきながら、なにやっとるんじゃ、あの二人はっ! まさかまだ別れを惜しんどるんやなかろーね)
由利子は、やや乱暴に電話をバッグに収め、冷めたコーヒーを飲み干すと、追加オーダーのためウエイトレスを呼ぼうと周囲を見回した。すると、入り口のほうから背の高い外国人の男二人が現れた。周囲の注目がさっと二人に集まった。二人は由利子の姿を確認すると、さっさとそっちのほうに向かった。イケメン外人二人の連れということで、周囲の羨ましそうな視線が由利子のほうに向かった。なんとなく悪い気はしない。
「ハイ、ユリコ。待たせてすみませんね」
「おそいぞ。何してたんだよ!」
それでも苦情を言いながら、目の前に並んだ二人の顔を見た由利子は、あきれて言った。
「何、二人とも目の下に隈作ってんだよ、もう……」
「あははは……」
二人は照れ笑いをしながら、由利子と向かい合って座った。
斉藤孝治は、激しい腹痛で目を覚ました。祖母を呼んだが返事がない。早朝から出かけた日課の畑仕事からまだ帰ってきていないようだった。孝治は仕方なく起き上がろうとした。
しかし、その時右足首の痛みに気づいた。見ると、昨夜挫いた右足首がパンパンに腫れ、しかも内出血で赤黒くなっていた。孝治は驚いた。そこまで酷く挫いた覚えがなかったからだ。急いで右掌を見ると、かすった傷からまだ血がにじんでいる。普通なら血等ほとんど出ないていどの傷のはずだった。
孝治はおかしいなと思ったが、腹痛が激しくなっていくのを感じてよろよろと立ち上がった。右足は痛いが歩けないほどではない。しかし、熱が高いせいでふらふらして、どうしても何かに寄りかからないと数秒で倒れてしまうそうだった。幸い、祖母の家は体が悪くなったときを考えて、家を改築していたので、バリアフリーの床や壁の手すりのおかげで何とか御手洗まではたどり着けた。
なんとか用を足した孝治だったが、紙についたものを見た時、恐ろしくてよく確認せずにすぐに流してしまった。幸い、昨夜機転を利かせてつけておいた失禁用ナプキンは汚れていなかった。孝治はなんとなく妙な気持ちで立ち上がり寝巻きを調えて手を洗った。その時、ふと目の前の鏡を見てまたぎょっとした。
昨夜右手とともに顔にも擦り傷を負ったのだが、その傷は腫れ、血の混じった汁がじわじわと流れていた。それは、ただでさえ内出血の染みだらけの顔を、更に凄みのあるものにしていた。孝治は「うわぁっ」と小さい悲鳴を上げて手洗いから飛び出すと、ドアの前でへたり込んだ。
孝治はへたり込んだまま恐怖と戦っていた。
(いったい俺の体はどうなっている? これから俺はどうなる……?)
心臓の鼓動は激しく打ち、体が小刻みに震えている。そんな時、年配の女性の声が聞こえてきた。
「あ~、暑かねえ。やれやれ、ようやくうちまで帰り着いた」
そして、手洗いの近くにある玄関に老女の姿が映り、鍵を開けるとガラガラと引き戸を開け祖母の須藤絹代が入ってきた。彼女は手洗いの前に座り込んでいる孝治にすぐに気がついた。
「コウちゃん、どうしたと? きついんね? コウちゃんのために新鮮なトマトを採ってきたばってん、それじゃあ、食べれらんかねえ……」
「ばあちゃん、おれ……」
孝治は恐る恐る祖母のほうを見た。明るい場所で初めて孝治の顔を見た絹代は、腰を抜かさんばかりに驚いた。
「コウちゃん、どうしたんね!?」
絹代は作業用の長靴を脱ぐのももどかしく、家に上がって孝治のそばに駆け寄った。
「あっちこっち痣だらけやんね。足も腫れとおし……。あんた、ホントは事故に遭ったっちゃなかね?」
「ちがうよ、これ、昨日の晩トイレから帰ったとき、部屋でこけたっちゃん」
「あんた、家ん中でちょっとこけたくらいでこげんになるわけなかろーが。病院行かんと。ばあちゃんが軽トラではこんじゃるけん」
「大丈夫やって。寝とったら治るってば」
「いかん。あんたね、ばあちゃんが何ぼ馬鹿やっても、こん状態がまともやないことくらいわかるが。きついんなら救急車呼ぼうか」
「いらんことせんでんよか!」
孝治は病人らしからぬ大声で怒鳴った。その激しい声に絹代は驚いて目を丸くした。
「あ、ごめん……」
孝治は我に帰って言った。
「ばあちゃん、心配してくれとぉとにな。でも、ほんとうに大丈夫やけん。部屋でおとなしく寝とくわ」
孝治は優しく言うと立ち上がり、手摺りにすがるようにして部屋に戻って行った。
絹代はしばらく呆然と座り込んでいたが、何かに気づいたように立ち上がって居間のほうに向かった。そして、テレビの横にあるマガジンラックから一番新しい市報を手に取ってページをめくり、目的のページを開いた。それは、新興感染症の特集ページだった。
「ねえねえジュリー、今のうちに聞きたいことがあるんだけど……」
ギルフォードが高柳からかかった電話に出るために席を外したので、由利子は少し気になっていたことを聞くことにした。
「何かね」
「あのさ、アレクの親友だった女性って知ってる? アレクが私に似ているって言ったことがあるんだ」
「ああ、昔、2・3度だが会った事があるがや」
「どんな人だったの?」
「なんでおれに聞くのかねー?」
「なんとなく、本人には聞きづらいからさー」
「まあええて。教えたるわ。彼女の名前はエマールダ。エメラルドが名前の語源だて、黒髪に名前を現すようなグリーンアイズで、南国的で情熱的な女だったよ。身長は160cmくらいで細身だけどけっこうグラマラスでね……」
「って、そのグラマー美人と私のどこが似てんのよ。どちらかというと美羽じゃん」
「見た目じゃのーて、なんていうか、男と親友になれるようなヤツだで、見かけによらずサバサバしとって、おれから見ても、ずいぶんと漢らしいヤツだったわー。そのせいか、ゲイの素養のある人間にもよー慕われとったんだと。彼氏もバイでね。ほだけど、そのせいで彼氏からエイズに感染してまったんだ。十数年前の話だから、今ほどエイズの薬もなくてね。今なら死ぬことはなかったと思うて」
「そうだったの」
「アレックスの嘆きはすごかったそうだがや。しかも、アル・新一に続いて身内以外でアレックスが慕った人間が死んだのは3人目だろ。ほいであいつのサバイバーズ・ギルトが悪化してね。ほだな、ちょこっとこれを見てくれーせんか」
そう言うと、ジュリアスはいきなり右足のジーパンのすそをめくり上げた。その向う脛に大きな傷跡があった。
「ど、どうしたの、それ?」
由利子が驚いてたずねた。
「四年前のことだが車が歩道に突っ込んできてね、とっさに避けたけど避けきれにゃーで、ビルの壁と車の間に足が挟まって複雑骨折したんだわ。まだボルトが入ったままだがや。まあ、この時は命に別状なかったけど、駆けつけたアレックスの蒼白な顔は今でも忘れられにゃーて」
「この時はって、まさか」
「察しがええね。髪に隠れてわからにゃーけど、ここにも傷があるんだわ」
ジュリアスは頭の右側を抑えて言った。
「三年くらい前になるかな。中東に支援に行った時、爆弾テロに巻き込まれてね、破片が直撃したんだわ。この時は1ヶ月意識がなかったらしいて。おれが意識を取り戻した時、アレックスは横で手を握って泣いとったけど、その後、あいつ、俺の前から姿を消したんだ」
「自分のせいだって思ったって訳?」
「そういうことだがね。しかも、たちが悪いことに、自分じゃそれを意識しておれせんのだわ。俺のほうから去ったって思っとったんだ。おれ、でらたまげたわ……」
「そりゃあ、驚くよね。私もちょっとびっくり……」
「ほだから、あいつはああ見えてけっこう不安定なとこがあるて、由利子、おれのいない間、頼んどくな」
「って、私はエマールダさんとは違うんだよ。それに紗弥さんだっているじゃん」
「紗弥の仕事は秘書だが、もともとの役目はアレックスの護衛なんだわ。詳しいことは言えにゃーけどね。だもんで、おみゃあさんには紗弥と一緒にアレックスの支えになってもらいてゃーんだ」
「う~ん……」
由利子は腕組をして考え込んだ。
「おれ、心配なんだわ。それでのーてもこの事件はアレックスのトラウマに触れすぎとる。ほだけど、あいつは敢えて真正面から向き合おうとするだろう。おれは、2・3週間で帰ってくる。その間でえーんだ。あいつのフォローを頼むわ」
「そう言われてもなあ、メンタル面で責任重大だし……」
由利子は困ってつぶやいた。その時、ギルフォードが電話を終えて帰って来た。彼は席に着くと開口一番に言った。
「……おや、二人とも深刻な顔をして、どうしたんですか?」
「葛西君が見送り間に合うかなって話をしてたんだ」
「ああ、確かに心配ですね。それより、ユリコ、ササガワ・カレンさんの容態が良くないそうです」
「え? そんな……」
昨日の状態を見て、そんな予感はしていたのだが、やはり現実にそれを聞くと愕然とする。
「まだ危篤とまではいかないようですが……。ユリコ、後でセンターに寄ってみましょう」
「ええ、行きます」
「それから、紗弥さんももうすぐ着くそうです。事故渋滞に引っかかったので、バイクで出直したそうです」
「じゃあ、あとは葛西君だけね。まったくもう、たった一人の自己チュー女のせいで、とんだ迷惑だよ」
「発症してなければいいのですけど……」
「発症していたら……?」
「状態次第では、空港の一時閉鎖だな。おれ、帰れんがね」
「まあ、この前のF駅の感染者くらい病状が進んでなければ、それはないでしょう。いずれにしても、身柄確保は仰々しいものになるでしょうけど」
「……ったく」
由利子がたんっとテーブルを叩いて言った。
「また、ニュースネタになるやろ。ほんっとに困った女だよ!」
「まったくです」
「まったくだがや」
ギルフォードとジュリアスがほぼ同時に同意した。
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