一人語り

木ノ下 朝陽

文字の大きさ
8 / 28

駅前のカラオケルームにて(六)・祖母の発症

しおりを挟む
あの日、祖母の具合が悪くなった日のことは、異常にはっきり覚えています。大学院一年目の冬、私が二十三になる直前で、ちょうど建国記念日だったことまで覚えているんです。私、自分の二十三歳の誕生日のことなんか、ひとつも覚えていないんですけれど、…当然ですよね。本当に、あの日を境に、それまで私が当たり前だと思っていた生活の、その何もかもが、丸々全部ふっ飛んでしまいましたから…。だからこそ、なのでしょうか?…あの日のことだけは、海馬、…ご存じでしょうけれど、脳内の、記憶を特に司るって言われる部位に、映像データを焼き付けでもしたかように、異様なくらい鮮明に、それはもうはっきりと覚えているんです。
夕方四時過ぎ…って言うより、もう五時近くのことでした。表はそろそろ夜になりかけていて、私は、取り組んでいた課題を一区切り付けて、家中の雨戸を立てて回った後、夕飯の献立を考えながら、冷蔵庫の扉を開けたところでした。
…ええ、その頃、もう祖母は、台所に立つのも億劫がっていました。それだけじゃない、お稽古を付けるのも本当に大儀そうで、新しいお弟子さんも、お断りしたり、別の方に紹介したり…。
私、病院で診てもらえばって、それまで何回か口に出したこともあるんですけれど、病院嫌いの祖母は、その度に笑って「大丈夫、年のせいだから」って。
私も、そう言って笑う祖母の首根っ子掴んで、引き摺って病院に連れて行くほどには、勇気も度胸もありませんでしたし、ついそのままにしていたんですけれど、…今思えば、早いうちにそうしておけば良かったって…。
すみません、愚痴になりましたね。…とにかく、そう言った事情で、私が台所にいた時のことでした。お手洗いから、「…葵、葵、来とくれ!」って、祖母のただならぬ声がしました。何事かとびっくりして、私が慌てて飛んで行くと、裾もまともに整えていない祖母が、冷たいお手洗いの床に蹲っていました。
…ええ、祖母は多分、必死でお手洗いの鍵を開けて扉を開いて、その上で私を呼んだんだと思います。今から思うと、良く出来たな、良くそこまで気が、頭が回ったな、って…。鍵の掛かったお手洗いで倒れて、鍵を開けるのが間に合わなくて、手遅れでそのまま亡くなる方、少なくないらしいですね。
それはともかく、私が、お祖母ちゃん、どうしたの!?…って、顔を覗き込もうとしたら、「…何だかおかしいんだ…。こっちの目の前が真っ暗なんだよ…」って言いながら、自分の左目を指で示して、「…葵、…何処にも行かないどくれ、後生だから…」って、伸ばしたままの私の右手にすがりついてきました。
その時私の頭の中をよぎったのは、『太功記』の十段目、俗に言う『太十』の十次郎…ごめんなさい、お分かりになりませんよね?…え、ご存じなんですか!?…ええ、初陣の戦場で大怪我…って言うよりも、致命傷を負った光秀の息子、若武者の十次郎が死んで行く場面です。その十次郎が死ぬ前に叫ぶんですよね、『もう目が見えぬ』って…。正確な演出は違ったかも知れないんですけれど、客席にいた私には、悲痛な叫びにしか聞こえなくて、それこそ、『ハムレット』の大詰よりも、ある意味悲痛で生々しい、と思った覚えがあります。…ごめんなさい、呑気に脇道に逸れている場合ではありませんでしたね。
とにかく、私はその時、このまま祖母が死んでしまうと思いました。大丈夫、何処にも行かない、電話して救急車を呼んで来るだけだから、すぐ戻るから、って言っても、耳に入っていないみたいで、ただ「…葵、葵…」って、余計にすがりついてくるんです。
私、そこでやっと自分の上着、…その時着ていた綿入れの、そのポケットに、携帯電話…スマートフォンを入れてあったのを思い出しました。気が動転するって、ああいうことを言うんですね…。あの時まで、私、自分では、本質的には割と冷静…って言うよりも、はっきり言って非常に醒めた、…歯痛が酷いと、歯の神経を取りますよね?あんな具合に、私の場合、父と母の両方からいらないって言われた時に、その痛みにまだ子供だった頃の私が耐えられなくて、感情を感じる機能を自分から止めて、結果そういう感覚が極端に退化した、ちょうど『オズの魔法使い』のブリキの木こりみたいな人間だって思っていました。…いえ、ブリキの木こりと違って、私はそれで構わないって、…感情なんてものは、自分にとってはむしろ邪魔な代物だ、祖母と、祖母が大切にしているあの家、…「立花家の血筋」なんていう大時代なものなんかじゃなくて、文字通りのあの家、…当時、祖母と私が暮らしていた、現在も私が住んでいるあの場所の、その家と土地とを問題なく維持していくための、冷静な判断力と充分な行動力さえあれば、人間としては欠陥品でも一向に差し支えない、何しろ自分は、あの家から一瞬出た外の世界では、祖母以外の全人類にとって、「いらない子」に他ならないんだからって…。
……ええ、でも、…こんなことを申し上げると、お言葉を返すようで本当に申し訳ないとは思いますけれど、その「『いらない子』なんていない」っていうお言葉は、私にとっては単なる建前でしかないんです。何しろ七つの時に、両方の親から棄てられるっていう体験をしているものですから、それは一生消えない古傷、…って言うより、いっそもう呪いみたいなものなので…。ですから、私は感情の欠落した「ロボット」で構わないと思って、むしろそうで在ろうとしてきましたし、実際そうやって生きてきたつもりでした。でも、そういう人間でも、例外の場合はあるんだな、って、…後からですけれど、しみじみそう思いました。
…ええ、そうですね。本当に、セルフイメージなんてあまり当てにはならないものですね。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

三年分の涙を飲み込んで離婚を決めた私に、今さら愛してると言わないでください

まさき
恋愛
「別れてください」 笑顔で、声を震わせずに、澄花はそう言った。 三年間、夫の隣に立ち続けた。残業続きの夫を待ち、不満を飲み込み、完璧な妻を演じた。幼なじみの麗奈が現れるまでは、それが愛だと信じていた。 嫉妬も、怒りも、とうに泣き尽くしていた。残ったのは、静かな決意だけだった。 離婚届を差し出した翌朝、夫・誠は初めて泣いた。 ――遅すぎる。三年分、遅すぎる。 幼なじみに夫を奪われかけた妻が、すべてを手放す覚悟をしたとき、夫はようやく目を覚ます。泣き終わった女の強さと、取り戻せないものの重さを描く、夫婦の崩壊と再生の物語。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

さようなら、私の初恋

しょくぱん
恋愛
「さよなら、私の初恋。……もう、全部お返しします」 物心ついた時から、彼だけが世界のすべてだった。 幼馴染の騎士団長・レオンに捧げた、十数年の純粋な初恋。 彼が「無敵」でいられたのは、アリアが無自覚に与え続けた『治癒の加護』があったから。 だが婚約直前、アリアは知ってしまう。 彼にとって自分は、仲間内で競い合う「賭けの対象」でしかなかったことを。 「あんな女、落とすまでのゲームだよ」

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...