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松嶋かなえの場合
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しおりを挟むかなえはカウンター席に座った。眠ってしまった颯汰を、ベビーベッドへ寝かせた。
「あたしが見てるから、あんたたちはゆっくり食べな」
のりちゃんと呼ばれていたおばちゃんが、颯汰を見ていてくれるという。
ハナサクカフェは、カウンター席が四つ、その後ろは広い和室となっている。和室の中にベビーベッドが一台、それから、子ども用のおもちゃが幾つか置いてある。
「十一時三十分になったら、和室にテーブルを出してごはんタイムにしようと思っているの」
かなえの視線に気がついてか、白髪の夫人がそう言った。
「カウンター席はいつでも、ごはんとお茶を提供しているわ」
夫人はかなえの隣の席に腰をかけ「ハナさん、いい匂いね」とキッチンへ声をかけた。カウンター席の前は細長いキッチンがあり、先程声をかけてくれた女性ーハナさんと呼ばれていたーが調理を始めている。
かなえは先程から気になっていた事を聞いた。
「あの、赤ちゃんと幼児専用カフェというのは…さっき授乳室で貼り紙を見て…」
「言葉のとおりなのよ!赤ちゃんと小学生になる前までの子どもたちと親のためのカフェ。おしゃべりだけ、遊ばせるだけ、ごはんを食べるだけでもいいの、ここは」
夫人はうふふと微笑んで、スカートのポケットから『回数券』と書かれた紙を取り出した。
「差し上げます。あなたは最初のお客様だから」
「ありがとうございます」
「カフェの方は、メニューに応じた料金。和室で遊ぶのは、一家族百円。その回数券は千円分よ。本当はお金取らないで遊ばせてあげたいのだけれど、個人で営業しているので…ごめんなさいね」
「個人で営業を…?」
かなえは目を丸くした。カフェの料金はわかる。しかし、一家族百円は安すぎないか。従業員の給料は払えるのだろうか、施設の維持費は?
出産前、総務課で働いていたかなえは、ハナサクカフェの経営について思案した。
そんなかなえを見て、夫人は静かに前を見据えて言った。
「老人の夢なの、ここは。誰かさんのために、居場所を作ってあげたいの」
うふふ、と再び微笑んでからパチンと手を叩いた。
「そうよ!自己紹介がまだだったわね。私は小川櫻子。ハナサクカフェの店長です。櫻子って下の名前で呼んで下さる?あっちは、田辺のり子さん。ご近所では、田辺のおばちゃんって呼ばれているわ」
「ちょっと、あっちとは失礼ね!」
のりちゃんこと、田辺のおばちゃんは抗議の声を上げた。
「あちらにいらっしゃるのは、田辺のり子様。そして、キッチンを任せている、青木ハナさん」
ハナさんは手を止めて、軽く会釈をした。髪を後ろで一本で結わいている、色白の女性。かなえと同い年だろうか、年下にも見えた。
「松嶋かなえです。息子の名前は、颯汰。生後四ヶ月です」
わぁっと声があがった。
「まだ四ヶ月なの、可愛いねぇ~」
「赤ちゃんのプニプニしたほっぺ!たまらないわ」
「赤ちゃんを見てるだけで、若返る気分だよ」
「まあ、怖い!エネルギーをおばちゃんに取られちゃうわ」
「あんたね、そういう意味じゃないってば」
ご老人二人はベビーベッドで眠る颯汰を見て、それぞれ感想をあれやこれやと述べた。
「みなさん、お待たせしました」
ハナさんがカウンターにおぼんを四つ並べた。
「今日は、生姜焼き定食です」
小盛りのごはんに、豆腐と葱のお味噌汁。生姜焼きと付け合わせのキャベツ。茄子のお浸しとデザートに小さな杏仁豆腐が付いていた。
どこにでもある、一般的なメニューなのに、かなえにはこの定食が、きらきらと輝いてみえた。
「いただきます」と手を合わせたのは、いつぶりだろうか。温かいごはんをゆっくり食べたのは、いつぶりだろうか。
「…おいしい」
かなえは、ぽそりと呟いた。
本当においしいごはんに出会った時、人は声を失うのだと、そう思った。
「おいしいです」
今度は聞こえるように、ハナさんを見てかなえは言った。恥ずかしそうに俯いて、それからハナさんは、微笑んだ。
颯汰が予想外によく寝ていたので、田辺さんも一緒にお昼ごはんを食べることにした。
「ねぇ、名札を作ろうと思うの」
櫻子さんが唐突に沈黙を破った。
「名札なんて、あたしら老人がつけたら、まるで迷子札だよ」
田辺さんが横やりをいれたが、櫻子さんは無視して続ける。
「居酒屋さんみたいに、マジックでね、『こう見えて、店長 さくらこ』って書くの。可愛らしいキャラクターを添えてね」
「やだやだ、あたしはごめんだね」
「のりちゃんも考えてあるのよ、『毒舌☆みんなの母 田辺のおばちゃん』ってどうかしら」
「もっと、ごめんだね!」
二人のやり取りを見て、かなえは思わず吹き出してしまった。
「ごめんなさい、お二人が面白くて」
肩を震わせて笑うかなえに、老人二人は顔を見合わせて、ふふっと笑った。
「かなえさんが、笑ってくれて嬉しいわ」
櫻子さんがそっと、かなえの背に手をあてた。その体温を感じて、かなえは櫻子さんの優しさに気がついた。
「櫻子さん、名札は小さい子が引っ張ってしまうかもしれないので、壁にスタッフの写真と紹介文を貼るのはどうでしょう」
ハナさんが、食べ終わった皿を片付けながら提案した。
「そうね、流石ハナさん。そうしましょう」
「全く、あんたの考える事って、昔からどーしようもないことばかりだよ……あら、起きたみたいだよ」
ベビーベッドで、うごうごと動き始めた颯汰に田辺さんが近づいていく。
「颯汰くん、おばちゃんが抱っこしてあげましょうね」
ゆっくりと抱き上げられた颯汰は、大人しく田辺さんに抱っこされている。
そういえば、とかなえは思う。母や義母が抱っこしている時、颯汰は決まって大人しかった。どんなに泣いていても、ピタッと泣き止むのだ。
育児の玄人と新米ママでは、抱き心地が違うのだろうか。
「あたしが抱っこしてるから、かなえさんは、ゆっくりお茶でも飲んで」
「すみません」
「謝ることじゃないよ。あたしが抱っこしていたいだけだら、気にしない、気にしない」
テーブルの上には、紅い色をしたお茶が出されていた。ほのかに甘酸っぱい香りがする。
「ラズベリーリーフティーです。授乳中でも安心して飲めます」
ハナさんがそっと付け加えた。
温かい飲み物は、心が落ち着く。それとも、ゆっくり飲むことが、心を落ち着かせるのだろうか。
「私、夫とスーパーの店員さん以外で、久しぶりに大人の人と話した気がします。いつも、颯汰と二人きりだから…」
透明のマグの中で揺れる、紅いお茶。その中に歪んだ自分が映っている。
ハナサクカフェを離れたら、また、二人っきり。
少しの間、忘れていた暗い穴がジワジワと広がっていく痛みを感じた。
「お肌も綺麗。洋服も清潔。手も足も指先まで健康。こんなに可愛らしく育ってるのは、かなえさんが、毎日がんばって育ててるからだねぇ」
そう言って、田辺さんはかなえを見て「ひゃっ!」と声をあげた。
「何か変なこと言っちゃったかい?泣くなんて」
「……違うんです」
違います。違うんです。私、がんばってなんかない。ひどい母親なんです。
涙を拭いながら、かなえは心の底で呟く。
違うんです。私、母親失格なんです。
「だって…可愛いと、思えないんです」
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