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松嶋かなえの場合
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「マタニティーブルーですね」
医師はそう言った。
退院前の診察で、かなえは毎日涙が出て、悲しい気持ちになると勇気を出して伝えた。
「産後なのに…マタニティーブルー?」
「マタニティーブルーは産後にも起こるんですよ。ホルモンバランスが乱れるのが原因と言われていますが、一週間くらいで症状も消えていきますよ」
初老にさしかかった男性の医師は、眼鏡の奥で優しく微笑んだ。
「悲しいとかつらいといった感情が、ずっと続くようであれば、産後うつの可能性もあります。少しでも心配なことがあれば、いつでも電話してきて下さい」
出産の影響で、まだまともに椅子に座れないかなえは、立ち上がるのも一苦労だった。助産師に支えてもらい、立ち上がると深く頭を下げた。
妊娠期からずっとお世話になってきた医師だった。
明日からは、先生も助産師さんもいない。誰も助けてくれない。
そう思うと、退院という華々しい日が、憂鬱に感じられた。
部屋へ戻ると、夫の裕汰が颯汰をあやすのに苦戦していた。
「おっぱいが、欲しいのかな?さっきから泣き止まなくてさ」
かなえを見るなり、申し訳なさそうな顔で颯汰を差し出してきた。
「わかったわよ。私が面倒みれば、いいんでしょう」
乱暴に颯汰を受け取ると、わざと大きい溜め息をついて部屋を出た。
授乳室へ向かう廊下で、また涙が溢れてきた。
こんなはずじゃなかったのに…。
先程、医師からマタニティーブルーだと言われた事を伝えようと思ったのに…。
「ごめんね」
颯汰をぎゅっと抱きしめて、かなえは泣いた。
おかしい、と感じたのは産後三日目のことだった。
ちょうど母乳が出始めてきた頃。夜中に何度も、サイレンのように泣き始める颯汰。
出産してすぐ、母子同室という事もあってか、出産の疲れや傷が癒えていないまま、かなえは休む暇もなく、24時間動き続けていた。
一緒に病室に泊まってくれている、裕汰はグウグウ眠っている。泣いている颯汰を抱いたまま、かなえは声もなく、泣いた。もう、限界だった。
「起きて。助けて、お願い」
その言葉は口から出ることはなく、悲鳴をあげるように体中を巡り、ギュッと目を閉じると、消えてなくなった。
私が、しっかりしないと。
涙を拭って、授乳室へ向かう。授乳室では助産師が授乳やオムツ替えなどを指導してくれる。
「颯汰くん、上手に飲めるようになってきましたね」
そう褒められても、かなえは上手く笑えなかった。
おっぱいを飲み続けている、颯汰を見て不安は更に大きくなっていく。
私が、いなくなったら…。
この子は、生きていけない。
私が、いないと…。
私が、がんばらないと…。
だって、お母さんだから。
抱いている颯汰が、急に重く感じられた。
手首が痛い。体中が悲鳴をあげている。けれど、腕の中の小さな命は、生きるために私を必要としている。
「……こわい」
まだ小さくか細い新生児を抱いたまま、かなえは誰にも見つからないように、声を押し殺して泣いた。
かなえの告白を、ハナサクカフェの面々は黙って耳を傾けていた。
「マタニティーブルーはすぐ消える症状だって聞いていたので、ずっと耐えてきました。でも、私…。やっぱり、育児むいてないのかもしれません」
最後の言葉は、嗚咽と共に漏れ出た。
櫻子さんが、そっとハンカチを手渡してくれた。
「…すみません、泣いたりなんかして…。妊娠中は子育ても家事も仕事も、私なら大丈夫。私は大丈夫って、よくわからない自信があったんです」
かなえの背を優しくさすりながら、櫻子さんは静かに頷いた。
「でも、赤ちゃんって全然寝てくれないし、泣いてばっかだし、ずっと抱っこだし、産後の体はボロボロだし……。夫は仕事をしてくれているので、なんとなく……頼れなくて」
「一人で抱えこんで、四ヶ月も……。つらかったわね」
「とても、とても、つらいです。夜泣きがひどくて、私。もうずっとまともに寝た事ないです。颯汰の泣き声が、恐怖です。いつ泣き出すかって、怯えて、まるで時限爆弾みたい。頭がおかしくなりそう。このままじゃ、私……虐待してしまいそう!」
そこまで一気に言いきって、かなえはテーブルに突っ伏して号泣した。
ごめんなさい、ごめんなさい。
こんなお母さんで、颯汰、ごめんね。
望んで子どもを産んだのに、どうして。
頭が、感情で破裂しそうだった。
胸は、痛みで張り裂けそうだった。
「助けて」と言えない自分と「助けて」と言う人がいない状況に、ずっと怒りを感じていたのだと、かなえは今頃になって気がついた。
ひとしきり泣いて、幾分か冷静さを取り戻したかなえは、ハンカチで涙を拭いながら頭を下げた。
「すみません……。初めての客が、こんな客で」
みんな、呆れているだろう。ひどい母親だと言われても、仕方がないことだと、かなえは自嘲した。
「かなえさん」
頭の上から涼しい声がして、かなえは顔をあげた。ハナさんが、微笑みながら指をさしていた。
「この絵を見て下さい」
医師はそう言った。
退院前の診察で、かなえは毎日涙が出て、悲しい気持ちになると勇気を出して伝えた。
「産後なのに…マタニティーブルー?」
「マタニティーブルーは産後にも起こるんですよ。ホルモンバランスが乱れるのが原因と言われていますが、一週間くらいで症状も消えていきますよ」
初老にさしかかった男性の医師は、眼鏡の奥で優しく微笑んだ。
「悲しいとかつらいといった感情が、ずっと続くようであれば、産後うつの可能性もあります。少しでも心配なことがあれば、いつでも電話してきて下さい」
出産の影響で、まだまともに椅子に座れないかなえは、立ち上がるのも一苦労だった。助産師に支えてもらい、立ち上がると深く頭を下げた。
妊娠期からずっとお世話になってきた医師だった。
明日からは、先生も助産師さんもいない。誰も助けてくれない。
そう思うと、退院という華々しい日が、憂鬱に感じられた。
部屋へ戻ると、夫の裕汰が颯汰をあやすのに苦戦していた。
「おっぱいが、欲しいのかな?さっきから泣き止まなくてさ」
かなえを見るなり、申し訳なさそうな顔で颯汰を差し出してきた。
「わかったわよ。私が面倒みれば、いいんでしょう」
乱暴に颯汰を受け取ると、わざと大きい溜め息をついて部屋を出た。
授乳室へ向かう廊下で、また涙が溢れてきた。
こんなはずじゃなかったのに…。
先程、医師からマタニティーブルーだと言われた事を伝えようと思ったのに…。
「ごめんね」
颯汰をぎゅっと抱きしめて、かなえは泣いた。
おかしい、と感じたのは産後三日目のことだった。
ちょうど母乳が出始めてきた頃。夜中に何度も、サイレンのように泣き始める颯汰。
出産してすぐ、母子同室という事もあってか、出産の疲れや傷が癒えていないまま、かなえは休む暇もなく、24時間動き続けていた。
一緒に病室に泊まってくれている、裕汰はグウグウ眠っている。泣いている颯汰を抱いたまま、かなえは声もなく、泣いた。もう、限界だった。
「起きて。助けて、お願い」
その言葉は口から出ることはなく、悲鳴をあげるように体中を巡り、ギュッと目を閉じると、消えてなくなった。
私が、しっかりしないと。
涙を拭って、授乳室へ向かう。授乳室では助産師が授乳やオムツ替えなどを指導してくれる。
「颯汰くん、上手に飲めるようになってきましたね」
そう褒められても、かなえは上手く笑えなかった。
おっぱいを飲み続けている、颯汰を見て不安は更に大きくなっていく。
私が、いなくなったら…。
この子は、生きていけない。
私が、いないと…。
私が、がんばらないと…。
だって、お母さんだから。
抱いている颯汰が、急に重く感じられた。
手首が痛い。体中が悲鳴をあげている。けれど、腕の中の小さな命は、生きるために私を必要としている。
「……こわい」
まだ小さくか細い新生児を抱いたまま、かなえは誰にも見つからないように、声を押し殺して泣いた。
かなえの告白を、ハナサクカフェの面々は黙って耳を傾けていた。
「マタニティーブルーはすぐ消える症状だって聞いていたので、ずっと耐えてきました。でも、私…。やっぱり、育児むいてないのかもしれません」
最後の言葉は、嗚咽と共に漏れ出た。
櫻子さんが、そっとハンカチを手渡してくれた。
「…すみません、泣いたりなんかして…。妊娠中は子育ても家事も仕事も、私なら大丈夫。私は大丈夫って、よくわからない自信があったんです」
かなえの背を優しくさすりながら、櫻子さんは静かに頷いた。
「でも、赤ちゃんって全然寝てくれないし、泣いてばっかだし、ずっと抱っこだし、産後の体はボロボロだし……。夫は仕事をしてくれているので、なんとなく……頼れなくて」
「一人で抱えこんで、四ヶ月も……。つらかったわね」
「とても、とても、つらいです。夜泣きがひどくて、私。もうずっとまともに寝た事ないです。颯汰の泣き声が、恐怖です。いつ泣き出すかって、怯えて、まるで時限爆弾みたい。頭がおかしくなりそう。このままじゃ、私……虐待してしまいそう!」
そこまで一気に言いきって、かなえはテーブルに突っ伏して号泣した。
ごめんなさい、ごめんなさい。
こんなお母さんで、颯汰、ごめんね。
望んで子どもを産んだのに、どうして。
頭が、感情で破裂しそうだった。
胸は、痛みで張り裂けそうだった。
「助けて」と言えない自分と「助けて」と言う人がいない状況に、ずっと怒りを感じていたのだと、かなえは今頃になって気がついた。
ひとしきり泣いて、幾分か冷静さを取り戻したかなえは、ハンカチで涙を拭いながら頭を下げた。
「すみません……。初めての客が、こんな客で」
みんな、呆れているだろう。ひどい母親だと言われても、仕方がないことだと、かなえは自嘲した。
「かなえさん」
頭の上から涼しい声がして、かなえは顔をあげた。ハナさんが、微笑みながら指をさしていた。
「この絵を見て下さい」
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