ハナサクカフェ

あまくに みか

文字の大きさ
3 / 24
松嶋かなえの場合

3

しおりを挟む
 「マタニティーブルーですね」
 医師はそう言った。
 退院前の診察で、かなえは毎日涙が出て、悲しい気持ちになると勇気を出して伝えた。
 「産後なのに…マタニティーブルー?」
 「マタニティーブルーは産後にも起こるんですよ。ホルモンバランスが乱れるのが原因と言われていますが、一週間くらいで症状も消えていきますよ」
 初老にさしかかった男性の医師は、眼鏡の奥で優しく微笑んだ。
 「悲しいとかつらいといった感情が、ずっと続くようであれば、産後うつの可能性もあります。少しでも心配なことがあれば、いつでも電話してきて下さい」
 出産の影響で、まだまともに椅子に座れないかなえは、立ち上がるのも一苦労だった。助産師に支えてもらい、立ち上がると深く頭を下げた。
 妊娠期からずっとお世話になってきた医師だった。
 明日からは、先生も助産師さんもいない。誰も助けてくれない。
 そう思うと、退院という華々しい日が、憂鬱に感じられた。

 
 部屋へ戻ると、夫の裕汰が颯汰そうたをあやすのに苦戦していた。
 「おっぱいが、欲しいのかな?さっきから泣き止まなくてさ」
 かなえを見るなり、申し訳なさそうな顔で颯汰を差し出してきた。
 「わかったわよ。私が面倒みれば、いいんでしょう」
 乱暴に颯汰を受け取ると、わざと大きい溜め息をついて部屋を出た。
 授乳室へ向かう廊下で、また涙が溢れてきた。
 こんなはずじゃなかったのに…。
 先程、医師からマタニティーブルーだと言われた事を伝えようと思ったのに…。
 「ごめんね」
 颯汰をぎゅっと抱きしめて、かなえは泣いた。


 おかしい、と感じたのは産後三日目のことだった。
 ちょうど母乳が出始めてきた頃。夜中に何度も、サイレンのように泣き始める颯汰。
 出産してすぐ、母子同室という事もあってか、出産の疲れや傷が癒えていないまま、かなえは休む暇もなく、24時間動き続けていた。
 一緒に病室に泊まってくれている、裕汰はグウグウ眠っている。泣いている颯汰を抱いたまま、かなえは声もなく、泣いた。もう、限界だった。
 「起きて。助けて、お願い」
 その言葉は口から出ることはなく、悲鳴をあげるように体中を巡り、ギュッと目を閉じると、消えてなくなった。
 私が、しっかりしないと。
 涙を拭って、授乳室へ向かう。授乳室では助産師が授乳やオムツ替えなどを指導してくれる。
 「颯汰くん、上手に飲めるようになってきましたね」
 そう褒められても、かなえは上手く笑えなかった。
 おっぱいを飲み続けている、颯汰を見て不安は更に大きくなっていく。


 私が、いなくなったら…。
 この子は、生きていけない。
 私が、いないと…。
 私が、がんばらないと…。

 だって、お母さんだから。


 抱いている颯汰が、急に重く感じられた。
 手首が痛い。体中が悲鳴をあげている。けれど、腕の中の小さな命は、生きるために私を必要としている。
 「……こわい」
 まだ小さくか細い新生児を抱いたまま、かなえは誰にも見つからないように、声を押し殺して泣いた。
 
 





 かなえの告白を、ハナサクカフェの面々は黙って耳を傾けていた。
 「マタニティーブルーはすぐ消える症状だって聞いていたので、ずっと耐えてきました。でも、私…。やっぱり、育児むいてないのかもしれません」
 最後の言葉は、嗚咽と共に漏れ出た。
 櫻子さんが、そっとハンカチを手渡してくれた。
 「…すみません、泣いたりなんかして…。妊娠中は子育ても家事も仕事も、って、よくわからない自信があったんです」
 かなえの背を優しくさすりながら、櫻子さんは静かに頷いた。
 「でも、赤ちゃんって全然寝てくれないし、泣いてばっかだし、ずっと抱っこだし、産後の体はボロボロだし……。夫は仕事をしてくれているので、なんとなく……頼れなくて」
 「一人で抱えこんで、四ヶ月も……。つらかったわね」
 「とても、とても、つらいです。夜泣きがひどくて、私。もうずっとまともに寝た事ないです。颯汰の泣き声が、恐怖です。いつ泣き出すかって、怯えて、まるで時限爆弾みたい。頭がおかしくなりそう。このままじゃ、私……虐待してしまいそう!」
 そこまで一気に言いきって、かなえはテーブルに突っ伏して号泣した。


 ごめんなさい、ごめんなさい。
 こんなお母さんで、颯汰、ごめんね。
 望んで子どもを産んだのに、どうして。

 
 頭が、感情で破裂しそうだった。
 胸は、痛みで張り裂けそうだった。
 「助けて」と言えない自分と「助けて」と言う人がいない状況に、ずっと怒りを感じていたのだと、かなえは今頃になって気がついた。
 ひとしきり泣いて、幾分か冷静さを取り戻したかなえは、ハンカチで涙を拭いながら頭を下げた。
 「すみません……。初めての客が、こんな客で」
 みんな、呆れているだろう。ひどい母親だと言われても、仕方がないことだと、かなえは自嘲した。
 「かなえさん」
 頭の上から涼しい声がして、かなえは顔をあげた。ハナさんが、微笑みながら指をさしていた。
 「この絵を見て下さい」
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

冷たい王妃の生活

柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。 三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。 王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。 孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。 「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。 自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。 やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。 嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

三年の想いは小瓶の中に

月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。 ※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。

短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜

美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?

処理中です...