ハナサクカフェ

あまくに みか

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松嶋かなえの場合

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 指し示す方向には、絵が飾られていた。
 パステルカラーの、光を含んだ優しい色合いの絵。透き通る青空に、なだらかな緑の草原。その真ん中に、三人の人物が背を向けて、小さく描かれている。お父さんとお母さんと手を繋いでいる子どもだ。
 そして、その絵の上には文字が書かれていた。


 
 児童は 人として 尊ばれる
 児童は 社会の一員として 重んぜられる
 児童は よい環境の中で 育てられる



 「児童憲章の三原則です。児童憲章の全文はもっと長いのですが……。この三原則に子育ての全てがあると、私は思います」
 「絵はハナさんが描いたのよ」
 自慢気に櫻子さんが付け加えた。
 「絵が上手じゃなくて……」とハナさんは照れて笑った。それから、ゆっくり腰を落として、かなえの閉じた手を優しく包んだ。
 「子どもは、一人の人間であり、社会の一員であること。よい環境の中で育てられる権利がある……つまり、どういう事だかわかりますか?」
 「えっと……子どもは生まれながらにして、個人として敬うべき存在であり……親の所有物では、なく……でも、大切に育てなければならない……?」
 最後の方は、しどろもどろになってしまったが、ハナさんは、うなずいて微笑んだ。
 「半分正解です。親目線から見たら、そう解釈しますよね。でも、私はこの三原則、親だけじゃなくて、世の中の全ての大人たちに向けたものだと解釈しています」
 「世の中の全ての……大人」
 「はい。子どもだからと蔑む事なく、社会のみんなで、子どもたちを育てていく。そして、その環境がある」
 ハッと目を見開いて、ハナさんを見ると、彼女は目にいっぱいの涙を溜めて、微笑んでいた。
 「かなえさん。もう一人でがんばらなくて、いいんですよ」
 目の前のハナさんが、涙で歪んでいく。ハナさんの手は、温かい。
 涙と一緒に、孤独や不安、誰に向けていいかわからない怒りが、溶けて体から出ていったように感じた。



 「颯汰そうた


 濡れた顔をあげて、かなえは弱々しく立ち上がった。
 今すぐ、颯汰を抱きしめたい。
 その、温もりを。その、小さな体を。
 かなえは腕を伸ばした。
 まだ何もわかっていない、純粋な瞳をした颯汰。まるでパズルのピースが合わさったかのように、母親の腕の中へ帰っていった。
 「颯汰……ごめんね」
 抱きしめながら、かなえは颯汰の頬に顔を寄せる。
 「颯汰……ありがとう」
 大人になったら、何でも自由に出来るようになると思っていた。母になったら、子どもにも優しく、笑顔の絶えない家庭を作ろうと、思っていた。
 けれど、何もかも想像以上だった。
 思い描いていた事とかけ離れすぎていた。自分でもどうしていいかわからないまま、助けてと言わずに歯を食いしばったまま、ずっと孤独だった。家の中で、颯汰と二人、孤独だった。
 子どもがいなかったら……と思うことが、何度もあった。その度に、自分を責めた。
 「大人の……大人たちの都合が、しわ寄せとして子どもにきてしまうというのは、あってはならないことですね……」
 涙を拭いながら、かなえはハナサクカフェの三人に向き直った。
 「ありがとうございました。本当に。」
 颯汰を抱いたまま、かなえは頭を下げた。
 「こんな醜態を晒してしまって、恥ずかしいです。櫻子さん、ハンカチは次に来る時にお返しします」
 それを聞いて、櫻子さんは破顔した。
 「まぁ!いつでも、いらしてくださいね!」
 「ここでは、いっぱい泣いても構わないからね、颯汰くん」
 田辺さんが、颯汰の頬を突っついた。
 「お母さんばっかり、何でも背負わなくていいんだよ、かなえさん。旦那さんにも頼るんだよ」
 「そう言う、のりちゃんの旦那様は亭主関白ですけどね」
 櫻子さんは、ペロリと可愛らしく肩をすくめてみせた。そのやり取りを見て、かなえは再び涙を拭った。
 


 ハナサクカフェを出て、かなえはスッーと空気を吸い込んだ。新鮮な空気が、体を満たしていくのがわかる。
 育児の不安や疲れが、なくなったわけではない。またきっと、すぐに現れるだろう。けれども、一人ではないと思うだけで、見えていた景色が大きく広がった気がする。
 「かなえさん」
 後ろから声をかけられて、振り返るとハナさんが立っていた。
 「うちのお店は、一時預かりは出来ませんが、友人として、いつでも困ったら呼び鈴を鳴らして下さい」
 かなえは、少し驚いた。「友人として」と(おそらく、ハナさんは意識せずに言ったのだろうが…)言ってくれたことが、なんだかくすぐったく感じた。
 「嬉しいです。ハナさんに出会えて」
 そう言うと、ハナさんは頬を赤くした。
 「あの……ハナさんは、お子さんがいらっしゃるんですか?」
 児童憲章のことや泣いている颯汰を見て、授乳室があることを教えてくれたのは、子育ての経験があるからだとかなえは思った。もし、ハナさんにも子どもがいるなら、会ってみたいと純粋に思った。

 「子どもは、いません」
 しまった、とかなえは口を押さえた。
 先程までの少女のような愛らしさが、一瞬にして消え去り、ハナさんは固い表情をしていた。
 そういう繊細な事は、気軽に聞いてはいけなかった。そもそも、ハナさんが結婚してるかさえわからないのに。勝手に子どもがいると思い込んでしまった自分を恥じた。もしかしたら、不妊治療中かもしれないのに。
 「すみません。失礼な事聞いてしまって」
 「いえ、大丈夫です」と笑ったハナさんは、もう和かさを取り戻していた。
 「甥っ子を何回か預かって面倒を見たことがあるので、少しくらいはお役に立てると思います」
 それに、とハナさんは内緒話をするように、コソッと近づいて言った。
 「実は私、住み込みで働いているんです。だから、ツラいと感じたらいつでも、来てくださいね」
 ハナさんの微笑みは、春みたいだ。柔らかく包み込むような、温かさがある。笑みがこぼれてしまうような、優しさで溢れている。

 ハナサクカフェを離れてから、家に着くまでのほんの少しの距離を、かなえは颯汰に話しかけながら帰った。
 「空がきれいね」とか
 「田辺さんの抱っこは気持ちがよかった?」とか
 「お家に帰ったら、絵本を読もう」
 「土曜日は、お父さんと三人でお出かけしよう」
 「颯汰、風が気持ちいいね」
 「颯汰、猫が通ったよ」
 「颯汰、楽しいね」
 たくさん話しながら歩いた。

 そして最後に、
 「一緒にがんばろう」
 と颯汰に笑いかけた。

 
 五月の夕暮れは、淡い水色が金色の光に吸い込まれるように混ざり、輝いて見えた。
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