ハナサクカフェ

あまくに みか

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木月美優の場合

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 こころの顔は真っ赤だった。髪の毛も汗で濡れている。体は熱く、ぐったりしている。
 「ここちゃん?」
 美優は辺りを見渡したが、誰もいない。突然の不安に襲われた。体が、熱すぎる。
 急いでベビーカーへ駆け戻り、麦茶の入ったマグをこころの口元へ持っていったが、ぐったりとしたこころは麦茶を飲もうとはしなかった。
 「どうしよう……。熱かな……病院……」
 手に持っているスマホで症状を検索しようとして、美優は自分の指が細かく震えていることに気がついた。
 気が動転していた。こころは喋れないし、どうしてあげたらいいか、わからない。


 乳幼児突然死。


 その言葉が頭をよぎった。確か、それは睡眠時に起きる事ではなかったか。わからない。
 こころが……こころが、死んじゃったらどうしよう!
 
 美優は、ベビーカーを走らせた。朝は元気だった、はずだ。少なくとも、服を着せた時は元気だった。
 朝起きてからのこころを思い出してみるが、断片的にしか思い出せなかった。なぜなら、ほとんどの時間を美優は、スマホを見ていたからだ。
 耳元で、自分の悲鳴のような呼吸が聞こえる。走りながら、見覚えのある後ろ姿を見つけて、美優はすがるように叫んだ。
 「助けて……。ハナさん、助けて!」
 振り返ったハナさんは、美優を見つけて手を振った。だが、すぐに美優の顔を見て、非常事態を悟った。


 「美優さん、中へ!」
 半ばパニックになっていた美優は、ベビーカーのまま店内に入ってしまった。
 「こころが……ぐったりしていて……体も、熱くて」
 すぐさま、田辺さんが駆け寄り、こころを抱いた。
 「なんで今日みたいなジメジメして暑い日に、こんなに着込んでいるんだい!脱がすよ!」
 「保冷剤を持ってきます」
 ハナさんと田辺さんが、慌ただしく動いているなか、美優はただただ立ち尽くすことしか出来なかった。
 「水分はちゃんと、とっていたのかい?」
 田辺さんに聞かれたが、美優はただ首を振った。
 「おしっこは?オムツ替えした時、確認した?」
 わからない。こころのこと、後回しにしてたから、わからない。美優はむせび泣いた。
 「こころ、死なないで!」
 「しっかりしな、インフルエンザ!軽い熱中症だよ!」
 バシっと強く背中を叩かれ、美優は我に返った。熱中症、と口の中で何回も復唱する。
 「インフルエンサーよ、のりちゃん。水枕を持ってきたの、どうかしら?」
 今度は櫻子さんが、美優の背をトンと優しく叩いた。
 「涼しいとこで体を冷やして、それから水分補給をさせましょう。その後、病院に連れて行きましょうね。大丈夫、落ち着いて」
 なだめるように、優しくゆっくりとした櫻子さんの声に、美優も徐々に落ち着きを取り戻した。
 「美優さんも、水分をとって下さい」
 ハナさんが、麦茶を注いでくれた。自動的に口へ運びながらも、体中がガクガク震えていたので、うまく飲めたか自分でもわからなかった。
 ふいに背中に視線を感じた。
 振り返ると、白い額縁の絵が、静かに美優を見下ろしていた。



 児童は 人として 尊ばれる
 児童は 社会の一員として 重んぜられる
 児童は よい環境の中で 育てられる



 
 まるでその言葉が、罪状のように美優には思えた。
 神様、ごめんなさい。
 神様、こころを連れていかないで。
 わたし、ちゃんとこころを見ていなかった。
 わたしの見栄のせいで、こころを私物化して……。
 離乳食のごはんだって、ちゃんとこころの事を見ていたら、気がついた事だったのかもしれない。
 不特定多数の誰かの評価や目を気にして、わたし、なんてバカだったのだろう!
 「ここちゃん、ごめんね」
 美優はこころを抱き上げ、人目を気にせずその場で授乳した。今度はちゃんと、飲む事が出来た。



 
 「すみません、病院までついて来てもらっちゃって」
 美優があまりにも動揺していたので、ハナさんが病院まで付き添ってくれたのだ。
 「いいんです。初めてのことで、驚いたでしょう?」
 「こころは、泣いていたんです。こんなに日差しが出てて暑いのに、厚着させて……。泣いて訴えていたのに、わたしは無視して……」
 美優は、声を詰まらせた。自分が情けなく、恥ずかしい。
 「美優さんが、写真を撮っている時の顔、とても生き生きとしていて好きですよ」
 「……え?」
 「どうしたら、被写体が綺麗に映るだろうって色んな角度から撮ったり、光をみたりしてますよね?」
 美優は戸惑いながらも、頷いた。
 「羨ましいです。一つのモノを多方面から見る才能があって。美しい瞬間を探し出すのは、難しいですもの」
 「いいえ、見栄っぱりなだけです」
 「生きるのに、多少の見栄は必要ですよ」
 ハナさんは、微笑んだ。ハナさんの笑顔は、いつでも、どこか悲しさを含んでいる。
 「だから、美優さんはこころちゃんの一番良いところ、見つけられると思います」
 私はここで、と言ってハナさんはお辞儀をした。
 美優も深く頭を下げた。



 こころが寝た後、暗い部屋で一人、スマホを手に取った。
 もう、いらない。
 美優は、育児アカウントを削除した。それは、数秒で出来た。
 暗い部屋で、目をゆっくり閉じ、耳を傾けてみる。
 すー、すーっと規則正しい寝息が聞こえる。こころが生まれてからの八ヶ月間、わたしは一体どこを見ていたのだろう。


 もう、スマホを通して、こころを見るの、やめよう。
 自分が他の誰よりも、優位に立っていると思うのも、やめよう。


 こころの美しいところは、どこだろう。外見だけではなく、仕草や内面も。
 こころの成長は、早い。あっという間に、わたしから離れていくだろう。
 その間に、いっぱい、いっぱい、いっぱい。見つけてあげよう。


 暗い部屋で、目を閉じたまま。
 こめかみを涙が伝っていったのを、体温で感じた。
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