坂の途中のすみれさん

あまくに みか

文字の大きさ
15 / 24
3章 夜をわたる

ブラックコーヒーとクリームソーダ

しおりを挟む
 朝、雨はいつの間にかあがっていた。
 雨の降り始めは知っているけれど、雨の終わった瞬間を、意識して見たことがなかったことを今更ながら知った。
『珈琲 ちょび』は7時から営業を開始する。わたしは、柄にもなく7時よりも前から、お店の前で待機していた。
 昨日はあまり眠れなかった。けれど、目は冴えていて、周りの空気も新しく感じる気持ちの良い朝だった。
 低いベルの音が鳴って、まだ7時じゃないのに、ちょび店長が顔を出した。
「今日は特別ですよ、お客様」
 茶目っ気たっぷりにちょび店長は言って、わたしを招き入れた。
 開店前だからか、いつもは濃厚に薫る珈琲の香りも、今は微かだった。ゆったりとしたジャズピアノのBGMが流れている。
 わたしはカウンターに座った。
「珈琲ください。ブラックで」
 店長は頷いて、壁一面に並んだコーヒーカップの中から、白っぽいコーヒーカップを選んだ。
 丸みを帯びているそれは、手にぴたりと収まる温かみを感じるカップだった。手で包み込んでいるだけで、ほっとするような。
「素敵なカップ」
「美濃焼です」
「美濃焼」
 名前は聞いたことがあったが、焼き物はさっぱりだったので、首を傾げることしか出来なかった。
「例えば、どんぶりの器。ほとんどが美濃焼だと言っていいでしょう」
「そうなの?」
「普段、何気なく手に取っている器が、美濃焼かもしれません」
「へぇ、知らなかった」
 ◯◯焼と名前がつくものは、みんな値段が高いものばかりなのかと勝手に思っていた。
「では、美濃焼が約1300年間続いていることはご存知ですか?」
「1300年? そんな前から?」
 わたしは手の中のコーヒーカップを見る。どう見ても、その辺のお店で売っている安いマグカップとの違いがわからなかった。
「言い方悪いけれど、何でこんなのがって正直思っちゃう」
「その時代、使う人に合わせて、変化してきたからです。だから、今でも愛されているのですよ」
「人に合わせて、変化……」
 つぶやいて、手元の美濃焼に視線を落とした。
 キミは、人に合わせて生き抜いてきて、今でも沢山の人に必要とされているだなんて、羨ましい。
「ねえ、店長。店長は誰かに必要とされたいって思ったことある?」
「ありますよ。もちろん、今も」
「わたしは、それが、上手くいかなかった……」
 わたしは新しく染めた髪の毛先をもてあそんだ。
「何でだろうって、考えて。気づいたの。必要とされることが、ゴールになってたって。ばかみたいだよね」
 その時、低いベルの音が鳴って、新しいお客さんが入ってきた。すらりと背筋が伸びた、女の人。店長は新しいお客さんのオーダーに入ってしまった。
 わたしはそれを目線で追った後、手持ちぶさたに珈琲をすすった。
 いつもはミルクを入れて飲むのだけれど、今日はブラックに挑戦してみたかったのだ。大人の味。
「苦ッ!」
 つぶやいて、恥ずかしくなる。店長がいない隙に、こっそり砂糖を追加した。
 壁一面のコーヒーカップたちを眺める。すみれとの約束の時間まで、まだ2時間ちかくある。
 すみれには、どの器が使われるのだろう。想像するのは楽しかった。
 そっか。
 美濃焼のコーヒーカップを口元まで運んで、気がついた。
 わたしは、楽しい時間を大好きな人たちとすごしたかったのだ。
 けれど、だんだん目的がズレていってしまっていた。必要とされたい、好かれたい、というのはゴールへ向かう途中の手段でしかないのに。いつのまにか、それがゴールになっていた。

 わたしはもう一度、砂糖の入った珈琲を飲んだ。今度は、ちょうど良い味だった。
 もう大丈夫。きちんとゴールを思い出せたから。
 今から、もう一度。ゴールを目指せばいい。
 何度だって、今ここをスタート地点にすればいいのだ。

「でね、別れちゃったんだってば~」
 口に出したら、するっと何かが体から出ていったような気がした。きっと、もやもや感情だろう。
 今の自分も、あの時の自分も、高校生だった自分も、間違ってはいないのだ。
 

 案の定、すみれは遅れてやって来た。
 そして、意外なことに珈琲ではなく、クリームソーダを彼女は頼んだ。
 緑色の中で、ぷつぷつと小さな泡が浮かび上がっている。すみれはクリームソーダを「今日の天気みたい」と言った。わたしは「不思議ちゃんだな」と返したけれど、本当は別のことを思っていた。
 クリームソーダの透明な、エメラルドの宝石みたいな色は、あの時の光景を思い出させる色だった。綺麗なビンにいれてとっておきたいような、大切な、大切な思い出。


 葉桜の下で、高校生のわたしが立っている。
 海風が吹いて、まだ残っている桜の花びらが静かに散る。その中に、大人のわたしと高校生のわたしがいる。
「わたしなんか、って言わないでよ。必要としてくれる人は、いつだってそばにいたじゃない」
 頷いて、わたしはかつてのわたしを抱きしめてあげた。

 
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

睿国怪奇伝〜オカルトマニアの皇妃様は怪異がお好き〜

猫とろ
キャラ文芸
大国。睿(えい)国。 先帝が急逝したため、二十五歳の若さで皇帝の玉座に座ることになった俊朗(ジュンラン)。 その妻も政略結婚で選ばれた幽麗(ユウリー)十八歳。 そんな二人は皇帝はリアリスト。皇妃はオカルトマニアだった。 まるで正反対の二人だが、お互いに政略結婚と割り切っている。 そんなとき、街にキョンシーが出たと言う噂が広がる。 「陛下キョンシーを捕まえたいです」 「幽麗。キョンシーの存在は俺は認めはしない」 幽麗の言葉を真っ向否定する俊朗帝。 だが、キョンシーだけではなく、街全体に何か怪しい怪異の噂が──。 俊朗帝と幽麗妃。二人は怪異を払う為に協力するが果たして……。 皇帝夫婦×中華ミステリーです!

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

処理中です...