残響ブルーム -bloom affection-

山の端さっど

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§04 根濁してマロウブルー

遠惑い模糊スプラッシュ

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「一瞬だからよく見てろよ!」
 ひびきは雨の中に突っ立っていた。コートを着ている訳でもなく、ずぶ濡れだ。
『う、ん……』
 それに応える声の主は、アパートの部屋の中、窓から響を見ていた。特徴的なのは子供のようなか細い声と、薄青く半透明な大人の体。足はあるが、「幽霊」と自己紹介されて疑う人はあまりいないだろう。
「よしっ、『軽ーく』『一つだけ』『中心から』……」
 呟きながら響は構える。右手は甲を上にして上に、左手は手のひらを上にして下に。
「『涙は飛ばすな』」
 そして、上下に手を打ち合わせた。
 ぱちっ。一回だけの弾むような拍手の音がその場に小さく広がる。

 それと同時に、響から10メートルほどの空間の雨粒が全て、外へと弾き飛ばされた。

『すご、い……!』
「だろ!」
 一瞬だけ展開されたドーム状の空間の中心で、響は服まで乾いた姿でVサインを掲げた。それから、すぐに勢いを取り戻して降り出した雨を避けるように軒下に駆け込み、階段を上がって202号室、地縛霊の幽霊ミツダマの隣に座る。
「あー、面白かった」
『ど……やっ、て?』
「これやりたくて練習したんだよな、選んだものだけぶっ飛ばす方法」
『えら……だ、もの、だけ?』
「まだ簡単にイメージできる物しか飛ばせねえし、時間かかるけど」
『……ごく、おも、しろか……た!』
「そりゃ良かった」

 幽霊と響の間の距離は20センチ。色々あって、ここまで近づくのは久しぶりだ。
(影のをある程度ぶっ飛ばせるのは収穫だったよな)
 影は嫌がっていたが知ったことじゃない。

『あめ、て、きらい……』
「ん?」 
『ぼく……まど、……いて、る……ほう……すき……』
「閉所恐怖症って奴か」
『う、ん』
「部屋出れねえの面倒だな」

 流石に梅雨の時期に窓を常時開け放すことはできない。一応ここは現役女子高生の部屋なのだ。
(……そういや対話できる幽霊とはいえ男のいる部屋に住むのって大丈夫なのか?)
 ミツダマからも借主バンダちゃんからも文句は無いので、微妙にモヤモヤしつつも響は何も言えない。
 そのバンダちゃんは今、澄谷ここにいない。

『ぼく……』
「ん?」
 響の考え事を散らす少し強めの声を上げて、ミツダマは急に立ち上がった。
『ぼく……な、んで……なにも、おぼ、えて、……ない、ん、だろ、な』
「なんでって事ないだろ。生前の記憶なんて全部覚えてても嫌になんだろうし。多分」
『……でも……おぼ、え、てた、ら……こん、な』
「そういうの言うなよ。少なくとも俺は、うまく言えねえけど……好きでやってるし」
『すき……』
「いや別にお前の事がとかじゃなくて、幽霊案件とか狙われ案件を抱え込みたいって事でもなくてな?! ただ、」

(多分ろくな死に方してない上に、死体細切れにしてばら撒かれるとか胸糞悪い目に遭って、幽霊としても苦しんできた奴を少しでも助けたくて動くのは、好きでもいいだろ)

『?』
「……ただ、うまく言えねえけど、誰も嫌々やってねえから!」
『……りがと』
「おう。じゃ元気そうで良かったわ、またな。今度はもっと面白い事できるようになってくる」
『うん……のしみ、に、……てる……!』

 響は手を軽く振って今度は傘の中に入った。
 少し離れると、すぐにがちゅるんっ、と降ってきて傘のビニールを透り抜け、傘を握る指に絡みつく。
 カゲ。正体は響にもよく分かっていないが、蝕橆ショクブツという化け物。
「……くすぐってえ」
「我慢してください」
「あと気持ちわりぃ」
 響の手を握ったまま人の形になった影は、傘を取り上げると高めに差し直す。背が高い人が差すのが効率的なのは分かるが、納得はいかない。
「背縮めるとかできんだろ」
「きみをこのくらい見下ろせる高さが心地良いんですよ」
「へー」
「では、そろそろ行きましょうか」
「……待て。小折こおりが車寄越すって言ってただろ」
「そんな物にきみを乗せたくないので。傘と私にしっかり掴まって」
「嫌だ。離れろ」

 言葉虚しく、響の体は影に抱えられるように包まれて、傘ごと、宙に浮く。ポーズだけは優しそうだが、それはただ抱きしめるだけだった場合に限る。

「きみは三半規管が安定していましたよね」
「はぁ?」
「乗り物酔いしにくい生物は運びやすいという話です、よっ」
「おい、なんで高度上げた……待っ、待て嘘だろお前まさか浮いたまま高速で移動……待て待て待てやめろ無理だよそもそも揺れてんだよ!」
「と言いつつ吐く様子もなく平気そうじゃありませんか。やはり男子はバンダちゃんとは違いますね」
「女子の嘔吐事情とか語んなっっっ! いやまず傘の骨が保たねぇぇぇっ?!」





「はぁ、はぁ、覚えてろ、よ、影……」
 澄谷すみがやから凪油なぎとうまで二十数分。爆走車よりは少し速いくらいのスピードで響が着いた時には、広大な別荘には他のメンバーが勢揃いしていた。その一人、別荘の主がイライラした顔で声を掛ける。
狩留羅かるらを追い返しておいて、随分と待たせたな」
「はぁ、はぁ……あー……すんません」
「謝罪が体を成していないぞ。そのザマでは就活で」
春樹はるきっちー! 早くしないと一番美味しいお茶ウチが取っちゃうっすよー!」
「……まず入れ」

 不本意そうに顎をしゃくる背の低い黒髪の男子、小折春樹はるき

「1分前に『あと5分なら待ってやろう。私は寛大だからな』って言ったのは春樹っちっすよー。二言は無しっす」
 来るタイミングが分かっていたかのようにぬるめの茶碗を机に二つ足すバンダちゃん、こと芽咲がざき万朶ばんだ

「……」
「……」
 今は黙して奥に控える小折の従者、狩留羅と末留那まどな

「……悪かったよ」
 今度は雑に手を叩いて、室内へ向かないように体を濡らした雨水を吹っ飛ばし、室内に入る賢木さかき響。

「響くん……?」
 ボロ傘を押しつけられた上、飛ばされた水しぶきでびしょ濡れになった美路道ミロドウ影。



 以上、お茶菓子を持って来たり時折お茶に加わったりする小折の乳母たね子を除いて、今回の「澄谷十師陽行じっしようこう対策会議」の面子だ。



「十師陽行。元々は百鬼夜行をもじって作られた語だ。が、名は体を表すものだな。あ奴らが十も集えば、攻め来る百鬼に相当するほど厄介といえる」
「陰陽師……なるほど、あの強欲どもの系譜ですか」
 タイトルを書いた小折が眉をひそめると、不機嫌さを隠しもしない声色で影が茶をすすった。
「ほう、関わった事があるのか」
「ここ二百年ほどはありませんよ。かかずらうだけ無益で無駄で無常だ」
「それもそうか。このような化け物に関わった記録が直近にあれば流石に私も知っていようからな」
「あの隠蔽いんぺい体質でも流石に?」
「流石に二百年以上前から変わらぬ旧態依然でも御降おおりまで話を通さねばならなかったろうな」

 どうやら影も小折春樹も似たような苦労をしてきたらしい。立場としては対立しながら致し方なく共闘関係をしているものの、もし様々な前提が無かったなら仲良くなっていそうな二人(一人と一つ?)だ。
「と思っているかもしれませんが、それは全くの幻覚ですよ響くん」
「分かったから視界を遮ってくるなよ」

 響と影のやり取りに話が逸れていると思い出したのか、小折春樹は「コホン」と小さく咳をして卓上に置いたホワイトボードに文字を書いていった。

「確認するぞ。7月7日、京都を本拠地とする新陰陽寮より、陰陽頭おんようのかみ土御門つちみかど有頌ありおとを中心とする陰陽師団がここ澄谷へお出ましになる。目的は二つだろう。澄谷に居着いた脅威の偵察」
 ここで影をジロリと見て「それと」と小折は話を続ける。

「それと、き……アパート『ハイツみなも』202号室に自縛を受けている霊魂『ミツダマ』の尋問だ」

「そこだよ。影はともかく、何でその陰陽師? がミツダマを目の敵にしてる?」
「これから説明する。黙って茶でも飲んで聞け」
 と言われれば響は黙るしかない。そもそもファンタジー用語の陰陽師とやらが現在も組織として存在しているというだけで常識の外だ。

「……奴らは数十年前、宝物庫より奪われたある書類を探し求めている。その強奪事件に『ミツダマ』が関与している可能性があるそうだ」
「?」
「なるほど」
「問題っすね」
 意味が分からないのは響ばかりらしい。見かねたのかバンダちゃんが隣にやって来た。
「響っち、ミツダマっちの現状を確認しておくっすよ。ミツダマっちは重度の記憶喪失。正直なところ、名前や現在のあの姿形が生前のものだったかも怪しいレベルで何も覚えてないっす」
「ああ」
「そこが問題っす。陰陽寮もその程度の情報で動いてるんっすよ。『ミツダマ』の名とルックスが捜査線上で極めて重要だと考えられるっすね。そこで、ミツダマっちが己を思い出せるか、実際に事件に関わっているのか。それによって、御降おおりは態度を変えなきゃいけないんっすよ。なんせ、どのケースでもほぼ間違いなく陰陽寮は強硬手段に出るっす。あの方々はで動くっすから」
「おい強硬手段って」
「澄谷地区一帯を占拠、アパートを封鎖、邪魔する者は全員無力化、ミツダマっちを拷問して用済みになったら消滅させる、とかっすかね」
「!」
「御降としては陰陽寮との対立は避けたいんで、基本、これを黙認しなきゃいけないんっすよ。で、個人的に黙認したくないから組織が動ける理由を作ろうとしているのが春樹っちっす。根が善人っすねー」
「妙な印象操作をするな」
 小折の不満そうな声をバンダちゃんはにっこり笑って流す。

「①ミツダマっちが本当は事件に関わっていない事を思い出した場合。本名を突き止め、生前の正体を明らかにして証拠まで揃えておけば問題なく止められるっす。
それ以外の場合、②記憶が取り戻せなかった場合と③事件に関与していた場合、春樹っちは御降を動かせないんっすよ」
「自分とこの場所で好き勝手されるのに放置すんのか?」
 響の質問に、バンダちゃんはあいまいな笑みを浮かべた。
「春樹っち」
「……この場より外に出すなよ」
 小折春樹はため息をついて響の方を向く。

「陰陽寮より盗み出された書類というのは、かつて友誼ゆうぎの証として御降より陰陽寮へ贈られた術書だ」

「……はあ」
「事件当時は陰陽寮と御降の仲を裂かんとする陰謀だとか貴重な書物を惜しんだ御降の仕業だとか、余計な詮索と揉め事があったのだ。数十年越しにようよう見つかった手がかりの捜索を御降が邪魔立てなどすれば、また要らん話が出る」
「はぁ……」
「きさ……おま……いや、とにかく繊細な案件だということを自覚しておけ。元来、『たかが1つの幽霊』の為に御降は動かせんのだ」
「……分かったよ。自覚しておく」

 文句を言ってもどうにもならない。事の深刻さは分からない響でも、観光地にこれだけ大きな別荘を構えてそれが五番目、とかいう経済力の組織を動かすには相当な理由が要ることは分かる。

「つまり、時間がないってのはミツダマの記憶を取り戻して無実の証拠を集める時間が無いって事だよな」
「有罪の場合、事を収めるために書類そのものを取り戻すための時間がな」
「うるせえ、俺は信じてるんだよ。……で、影。あんたも何か言うことがあるっつってたよな」
「待ちくたびれましたよ、響くん」
 ユラリと立ち上がった影は、「残念ながらこちらも同じ。時間がありません」と首をすくめる。

「あの幽霊の移転計画自体は7月頭には終わるでしょう。しかし、未だ行方不明の2パーツが見つからない限り、忌々しいことに、澄谷からアレを移動することはできない」

「2パーツ……馬喰ばくろに盗まれた奴だよな」
「そこに関してはウチも探ってるんっすけど……」
「待て。芽咲万朶、お前はミツダマの記憶を取り戻す事に専念すべきだろう。そこが済まねば居場所を誤魔化せたとて問題の先延ばしに過ぎない」
「それは……」
「なあ、そもそも本当にその日に来るのか?」

 響の言葉に、少しだけ場に沈黙が落ちる。

「……いや、Xエックスデーは7月7日として構わん」
「良いのか? 墓標あいつの言い方、かなり適当だったけど」
「……契約は基本、破らない男だ。それに、もし早まるとしても6月中ということは無かろう。方角が悪い」
「方角?」
「きさ……いや……」
 小折春樹は何かを言いかけて止めると、眉をひそめた。
「……細かい話は全て省くが、陰陽道では凶神きょうじん、つまり己にわざわいをもたらす神の居る方角へ旅をする事を避けねばならんのだ。古来と比べれば凶神の障りは減ったが、それでも避けようのないものは存在する。私も京都へ近づく際には従う事がある。無論、どうしても向かわなければならない際には方違かたたがえのような手法を取るが、それで騙せる神と騙せない神がある」
「……細かい話してないか?」
「どこが細かい! 説明にもなっていないだろうが。とにかく、彼らは凶神が動く7月頭までは来ない。そこは断言しよう。おそらく」

 小折は7月4日までを赤線で消した。

「……陰陽師って生きづらそうだな」
「全てがそうでもない。あ奴らは無駄に因習を抱えこみ過ぎなのだ。それも一つの道、否定はせんがな。柔軟さが売りの御降としてはやり過ぎだと感じる」
「あんたって柔軟なのか」
「意外そうに言うな! 言いたくもないが言っておくと、き……そこな化け物を行きがかり上とはいえ助けたり屋敷に上げるような寛大な宗教など御降をおいて他に無いぞ!」
 確かにそれは納得だ。

「そういえば、もう一つ大事な事を忘れてるっすね」
「あ?」
「期末テスト。7月5日から9日っすよね、今年」

 一瞬で場が凍りついた。
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