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6話 若き宰相はお疲れのようです_③
しおりを挟む「正しい字を書くためには、正しい姿勢が大事なのです」
そのまま沈黙すると本格的に何も言えなくなってしまうと感じたイリスは、慌てて次の言葉を探し出した。
イリスの説明に興味を持ったらしいブルーノが、「ほう?」と反応を示す。
「猫背になったり身体が横に反れると文字も歪みます。身体と机の距離が近すぎても遠すぎてもいけません。ペンの持ち方や握る力の強さも書字に影響します」
「そ、そんなに気をつけることがあるのか……」
照れ隠しのためにやや早口で説明すると、ブルーノが苦笑いを零した。
「俺はそれを全部正しても綺麗な字を書ける気がしないけどな」
「え、ええと……あはは……」
自虐というよりも冷静な自己分析にように聞こえたが、それでも「そうですね」と返答するわけにはいかない。逡巡した結果「人には得手と不得手がありますので」とはぐらかすと、ブルーノが「そうだな」と微笑んだ。
その笑顔に今度はイリスの方が感心する。
高い爵位を有する者であればあるほど、苦手や弱点を認めず、見栄を張って欠点を隠そうとする傾向が強い。だがブルーノは自身の不得手を嘆くのではなく、すっぱりと認めて、それを得意とする者に信頼して仕事を託す選択ができる人だ。相手の技能や知識量を正確に把握する目と頭脳、そしてその能力を適切に使う判断力と潔さは、ブルーノの美点と言えよう。
「そういえば、ずっと疑問だったんだが」
嬉しさと恥ずかしさで火照っていた頬の熱がようやく引いた頃、秋色の庭園を眺めていたブルーノが別の話題を切り出してきた。
「イリスはどうして、頻繁に『愛人』 の疑惑をかけられるんだ?」
「!」
「実際に不道徳な関係を結んでいるわけじゃないのなら、誤解なんてされないと思うんだが」
夜会の日から約三週間が経過した。期間限定の偽りの恋人になると決めた二人だが、日に日に増していく仕事の忙しさに気を取られ、半年間の約束をして以降『イリスの噂』についてほとんど話題にしていなかった。
噂の『元凶』について訊ねられたイリスが俯いてしまったことに気がついたのだろう。隣のブルーノが、小さく息を呑む音がした。
「すまない、話したくないならいいんだ。気を悪くしたのなら申し訳ない」
「あ、いえ! 違うのです……!」
ブルーノの困惑の声を聞き、慌てて手と首を振る。
突然の質問に驚いただけで、イリスは気分を害されたとは思っていない。むしろブルーノだってずっと気になっていだろうに、イリスが作業の環境に慣れるまでは無理に聞かないよう配慮してくれていたに違いない。彼の優しい一面をまた一つ見つけた気がして、ほっと安堵する。
だからブルーノに事情を打ち明けることにも大きな抵抗は感じない。彼なら、イリスの話をありのまま受け止めてくれる気がした。
「……発端は王立中央貴族学院に在学中の、とある出来事です」
ベンチの上で姿勢を正すと、風に揺られて落ちてくる木の葉を見つめながら、三年ほど前の記憶を手繰り寄せる。あれはまだイリスが学院生だった頃、十五歳のときの話だ。
「実は私、アーロッド侯爵家のご子息であるルーク=アーロッドさまという幼なじみがいるのですが」
王都の中心地に大きな屋敷を構えるアーロッド侯爵も、イリスの父と同じくルファーレ王宮に勤める上流貴族の一人だ。彼は政治の舞台でも発言力と権力を持った実力者だが、性格は温和で優しく、紳士的な男性である。自身には息子ばかりで娘がいないせいか、イリスのことも実の娘のように可愛がってくれている。
そしてその『息子たち』の中で一番年齢が近いのが、イリスの一つ年上の青年・ルーク=アーロッド侯爵次男だった。
「とても気さくで話しやすい方なのですが、少々その……配慮に欠けるところがありまして……」
ルークも父に似て優しく親しみやすい男性だが、困ったことに、彼は相手の顔色やその場の空気を読むのがあまり得意ではなかった。あるいはちゃんと察していても、自分の感情や願望を優先してしまう性質なのかもしれない。
その性格のせいで、ある日イリスに予想外もしない『問題』が起きてしまった。
「彼にはジェニファー侯爵家のご息女であるリナリア=ジェニファーさまという婚約者がいました。ですがルークさまは、リナリアさまとの約束よりもクロムウェル家との交流を優先してしまうことが多かったのです」
アーロッド侯爵家の屋敷とクロムウェル伯爵家の邸宅の距離がさほど遠くなかったこともあり、二つの家には昔から家族ぐるみの付き合いがあった。
その両家があまりに親密だったせいだろうか。ルークが婚約者であるリナリアとの約束を忘れて、家族と一緒にクロムウェル家に遊びに来る、という状況が頻回にあったらしい。だがそれは後から聞いた話で、当時のイリスはルークが約束をすっぽかしていることをまったく把握していなかった。自分には関係のない婚約関係にある二人の約束など、イリスは知る由もなかったのだ。
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