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22話 厨房の攻防
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教会の大厨房は、まさしく地獄と天国が同居する空間だった。鼻を突く、得体のしれない薬品のような匂い。その中で、リリシア様だけは、至上の幸福に満ちた表情で聖なる儀式(料理)に没頭している。
「さあ、アランくん! まずは、この『嘆きのカカオ』と『絶望の砂糖』を、聖なる釜へと投入しますわ!」
「はい、喜んで!」
俺の返事と同時に足元に置いておいた「普通のカカオ」と「普通の砂糖」の袋をリリシア様の死角から素早く釜へと滑り込ませる。
彼女が「嘆き」と呼ぶ黒い粉の正体は、どう見ても薬草の炭だし、「絶望」という名の白い粉は、塩と何かザラザラしたものを混ぜた代物だ。こんなものを使えば、悪魔しか喜ばない物体が錬成されてしまう。
俺の戦いは情報戦であり、時間との戦いだ。
「あら、アランくん。次は、この『悪魔の涙』を100ccほど……」
「あっ! リリシア様、大変です! 釜の火が神々しく燃え盛っております! 今こそ、祈りを捧げる時では!?」
俺が、わざとらしく叫ぶと、リリシア様は「まあ、本当!」と、喜び勇んで釜の前にひざまずき目を閉じて祈りを捧げ始めた。
その隙に俺は『悪魔の涙(正体はたぶん酢)』を流しに捨て、代わりに用意しておいた新鮮な牛乳を寸分の狂いもなく計量カップに注ぐ。
スパイ映画の主人公もかくや、というほどの、完璧なすり替え作戦。
俺は自分の才能が逃亡計画ではなく、こんなところで開花していることに若干の悲しみを覚えた。そんな血の滲むような攻防を続けていた時だった。
「ふう……。アランくんと、こうして二人きりで作業できるなんて、本当に夢のようですわ」
リリシア様は、額の汗を拭いながら、ふっと、幸せそうに息をついた。
その時、俺は、彼女の頬に白い粉が付いているのに気づいた。たぶん、俺がこっそり使った普通の小麦粉だ。
「リリシア様。ついてますよ」
俺は、何を思ったか、ほとんど無意識に彼女の頬へと手を伸ばしていた。
そして、その柔らかな肌に付いた小麦粉を指でそっと拭ってやる。
「……え?」
リリシア様の翠色の瞳が驚いたように大きく見開かれた。いつもの、全てを見透かすような、狂気を孕んだ輝きはない。
ただ、一人の女の子が、不意の優しさに戸惑っているような、そんな、ごく普通の表情。
その顔を見て、俺の心臓が、ドクン、と大きく鳴った。
……なんだ、今の……。
彼女の顔がほんのりと赤く染まっている。
そのあまりにも無防備で、あまりにも可憐な表情に俺は、自分の顔まで熱くなるのを感じた。
――ヤバい女だ。ストーカーで独善的で人の話を聞かない、とんでもない女だ。でも、なんだか、このまま、放っておけない、かも……。
俺の中に今までなかった、奇妙で、温かい感情が芽生え始めていた。
◇
「……あら? いつものような、深い漆黒の輝きがありませんわね……」
数時間後。
オーブンから取り出されたクッキーの第一弾を見て、リリシア様が不思議そうに首を傾げた。
そこに並んでいるのは、黒い炭塊ではない。きつね色に焼けた、ごく普通の美味しそうなクッキーだ。
まずい。ここで俺の妨害工作がバレるわけにはいかない。
「そ、それはきっと! 俺の未熟な愛が混じってしまったせいです!」
俺は咄嗟に叫んだ。
「リリシア様の100%純粋な闇のように深い愛と違って、俺の愛は、まだ、太陽のような光の色をしているのです! だから、二人の愛が混ざり合って、このような夕焼けのような色合いに……!」
我ながら何を言っているのか分からない。
だが、詩的でロマンチックな響きに弱いリリシア様には、効果てきめんだった。
「まあ……! なんて、なんて詩的な表現なのでしょう、アランくん!」
彼女は、うっとりとした表情でそのクッキーを一枚つまみ上げた。
「これが、私とあなたの、愛のグラデーション……! 素晴らしいですわ!」
勘違いしてくれて本当にありがとう。
「さあ、アランくん。記念すべき、私たちの最初の共同作業の結晶です。あなたが、最初に味見なさい」
「は、はい……」
俺は、恐る恐る、そのクッキーを一口かじった。
サクッ。
口の中に広がるバターの香りと優しい甘さ。
……美味い。
普通に美味いクッキーだ。
俺の必死の妨害工作は、見事に成功したのだ。
俺は、安堵のため息を悟られぬように、そっと吐き出した。地獄の厨房での戦いは、ひとまず俺の勝利に終わった。
だが、俺の胸の中では、リリシア様の、あの、不意に見せた少女のような表情が、ずっと消えずに残っていた。
それは俺の計画を、そして俺自身の心を静かに、しかし確実に蝕み始めていた。
「さあ、アランくん! まずは、この『嘆きのカカオ』と『絶望の砂糖』を、聖なる釜へと投入しますわ!」
「はい、喜んで!」
俺の返事と同時に足元に置いておいた「普通のカカオ」と「普通の砂糖」の袋をリリシア様の死角から素早く釜へと滑り込ませる。
彼女が「嘆き」と呼ぶ黒い粉の正体は、どう見ても薬草の炭だし、「絶望」という名の白い粉は、塩と何かザラザラしたものを混ぜた代物だ。こんなものを使えば、悪魔しか喜ばない物体が錬成されてしまう。
俺の戦いは情報戦であり、時間との戦いだ。
「あら、アランくん。次は、この『悪魔の涙』を100ccほど……」
「あっ! リリシア様、大変です! 釜の火が神々しく燃え盛っております! 今こそ、祈りを捧げる時では!?」
俺が、わざとらしく叫ぶと、リリシア様は「まあ、本当!」と、喜び勇んで釜の前にひざまずき目を閉じて祈りを捧げ始めた。
その隙に俺は『悪魔の涙(正体はたぶん酢)』を流しに捨て、代わりに用意しておいた新鮮な牛乳を寸分の狂いもなく計量カップに注ぐ。
スパイ映画の主人公もかくや、というほどの、完璧なすり替え作戦。
俺は自分の才能が逃亡計画ではなく、こんなところで開花していることに若干の悲しみを覚えた。そんな血の滲むような攻防を続けていた時だった。
「ふう……。アランくんと、こうして二人きりで作業できるなんて、本当に夢のようですわ」
リリシア様は、額の汗を拭いながら、ふっと、幸せそうに息をついた。
その時、俺は、彼女の頬に白い粉が付いているのに気づいた。たぶん、俺がこっそり使った普通の小麦粉だ。
「リリシア様。ついてますよ」
俺は、何を思ったか、ほとんど無意識に彼女の頬へと手を伸ばしていた。
そして、その柔らかな肌に付いた小麦粉を指でそっと拭ってやる。
「……え?」
リリシア様の翠色の瞳が驚いたように大きく見開かれた。いつもの、全てを見透かすような、狂気を孕んだ輝きはない。
ただ、一人の女の子が、不意の優しさに戸惑っているような、そんな、ごく普通の表情。
その顔を見て、俺の心臓が、ドクン、と大きく鳴った。
……なんだ、今の……。
彼女の顔がほんのりと赤く染まっている。
そのあまりにも無防備で、あまりにも可憐な表情に俺は、自分の顔まで熱くなるのを感じた。
――ヤバい女だ。ストーカーで独善的で人の話を聞かない、とんでもない女だ。でも、なんだか、このまま、放っておけない、かも……。
俺の中に今までなかった、奇妙で、温かい感情が芽生え始めていた。
◇
「……あら? いつものような、深い漆黒の輝きがありませんわね……」
数時間後。
オーブンから取り出されたクッキーの第一弾を見て、リリシア様が不思議そうに首を傾げた。
そこに並んでいるのは、黒い炭塊ではない。きつね色に焼けた、ごく普通の美味しそうなクッキーだ。
まずい。ここで俺の妨害工作がバレるわけにはいかない。
「そ、それはきっと! 俺の未熟な愛が混じってしまったせいです!」
俺は咄嗟に叫んだ。
「リリシア様の100%純粋な闇のように深い愛と違って、俺の愛は、まだ、太陽のような光の色をしているのです! だから、二人の愛が混ざり合って、このような夕焼けのような色合いに……!」
我ながら何を言っているのか分からない。
だが、詩的でロマンチックな響きに弱いリリシア様には、効果てきめんだった。
「まあ……! なんて、なんて詩的な表現なのでしょう、アランくん!」
彼女は、うっとりとした表情でそのクッキーを一枚つまみ上げた。
「これが、私とあなたの、愛のグラデーション……! 素晴らしいですわ!」
勘違いしてくれて本当にありがとう。
「さあ、アランくん。記念すべき、私たちの最初の共同作業の結晶です。あなたが、最初に味見なさい」
「は、はい……」
俺は、恐る恐る、そのクッキーを一口かじった。
サクッ。
口の中に広がるバターの香りと優しい甘さ。
……美味い。
普通に美味いクッキーだ。
俺の必死の妨害工作は、見事に成功したのだ。
俺は、安堵のため息を悟られぬように、そっと吐き出した。地獄の厨房での戦いは、ひとまず俺の勝利に終わった。
だが、俺の胸の中では、リリシア様の、あの、不意に見せた少女のような表情が、ずっと消えずに残っていた。
それは俺の計画を、そして俺自身の心を静かに、しかし確実に蝕み始めていた。
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