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第2章 不器用なカップルとお節介な宿
第19話 リラックスの魔法
ダンジョンから戻った「ゆうすけ荘」の空気は、永久凍土のように冷え切っていた。
沙耶さんは客室に閉じこもり、健太さんは縁側で、この世の終わりのような顔をして膝を抱えている。二人の間に横たわる溝は、もはや日本海溝よりも深いのではないだろうか。
プルは物置の隅で小さくなって震え、ゴブ吉に至っては、オロオロと庭を行ったり来たりしている。動物やモンスターの方が、こういう空気の変化には敏感らしい。
「あの……夕食は、どうされますか?」
俺が地雷原を歩くような慎重さで問いかけると、二人は別々の場所から同時に、力なく答えた。
「「……いりません」」
ああ、だめだ。完全にお手上げだ。
俺とリサは、そそくさと台所へ退散し、二人で頭を抱えた。
「うぅ……私のせいです……」
リサが机に突っ伏してうめいた。いつもの元気はどこへやら、その声は蚊の鳴くようだ。
「吊り橋効果なんて、生半可な知識でしゃしゃり出たばっかりに……。二人の仲を、めちゃくちゃにしてしまいました……」
珍しく本気で落ち込んでいるリサの姿に、俺は少しだけ驚いた。
ただ面白いものを追いかけるだけのトラブルメーカーではなかったらしい。
「いや、お前だけのせいじゃない。俺も、安易に乗ってしまったんだから、同罪だ」
俺がそう言うと、リサはむくりと顔を上げた。その目は少し潤んでいるが、強い光が宿っている。
「このまま、終わらせるわけにはいきません!」
彼女はバン、と机を叩いた。
「私、沙耶さんと話してきます! 今度は小手先の作戦じゃないです。女の子同士、腹を割って話すんです。沙耶さんだって、本当はあんなこと言いたくなかったはず。きっと今頃、一人で後悔してるかもしれない」
「おい、やめておけ。火に油を……」
「大丈夫です」
俺の制止をリサは力強い一言で遮った。
その表情は、民宿の企画広報担当ではなく、一人の友人の幸せを願う、誠実な顔つきだった。
◆◇◆
リサは、戸棚から可愛らしいティーポットを取り出すと、先日、八百屋のおばちゃんから「恋が実るハーブティーよ」ともらっていた包みを開けた。中から現れたのは、カモミールの甘く優しい香り。リラックス効果は抜群のはずだ。
お湯を注ぎ、湯気が立ち上るカップを二つ、お盆に乗せたリサは、一度だけ深呼吸をすると、沙耶さんが閉じこもる客室の襖の前へと向かった。
「沙耶さん、リサです。温かいハーブティーを淹れたんですけど……少しだけ、お話ししませんか?」
中から、返事はない。
しかし、リサは諦めなかった。
「……健太さん、すごく頑張ってましたよ。沙耶さんに喜んでほしくて、色々考えてたみたいです。まあ、その……ほとんど全部、空回りしちゃってましたけど」
リサが少しだけおどけて言うと、襖の向こうで、微かに空気が動く気配がした。
やがて、すすり泣きに似た、小さな声が聞こえてきた。
「……入って」
リサは静かに襖を開けた。
◇◆◇
一方、その頃。
俺は、縁側で石のように固まっている健太さんの隣に、何も言わずに腰を下ろした。
遠くで、ヒグラシが鳴いている。夏の終わりの、少しだけ寂しい風が、俺たちの間を吹き抜けていった。
しばらく、気まずいが、不思議と不快ではない沈黙が続いた。
やがて、健太さんが消え入りそうな声で口を開いた。
「すみません、田中さん……。せっかくの旅行を、俺のせいで台無しにしちゃって……」
「いいんですよ」
俺は短くそう答えた。
無理に励ます言葉も、気の利いたアドバイスも、今の彼には毒になるだけだろう。
かつて、仕事で取り返しのつかない大失敗をし、上司に報告した時のことを思い出す。説教されるかと思いきや、その上司は何も言わず、ただ自販機で買ってきた缶コーヒーを、ポン、と俺の机に置いてくれた。
あの時の、言葉にならない温かさが、どれだけ心に沁みたことか。
俺は静かに立ち上がった。
「高橋さん。ちょっと、付き合ってもらえませんか」
うなだれていた健太さんが、ゆっくりと顔を上げる。
俺は、彼を連れて台所へと向かった。そこには、夕食で使うはずだった、新鮮な地元の食材が出番を失って寂しそうに並んでいる。
俺は無言でエプロンを一つ、健太さんに手渡した。
「男は、腹が減ってちゃ、戦はできんのですよ」
その言葉に、健太さんは一瞬きょとんとした顔をしたが、やがて、その目にほんの少しだけ力が戻ったように見えた。
客室では、女の子同士の秘密のガールズトークが。
そして台所では、不器用な男たちの静かな決起集会が。
この民宿の夜は、まだ始まったばかりだ。
そして、この二つの密談が、凍りついた二人の関係を溶かす、最初のきっかけになることを、俺はただ願うばかりだった。
沙耶さんは客室に閉じこもり、健太さんは縁側で、この世の終わりのような顔をして膝を抱えている。二人の間に横たわる溝は、もはや日本海溝よりも深いのではないだろうか。
プルは物置の隅で小さくなって震え、ゴブ吉に至っては、オロオロと庭を行ったり来たりしている。動物やモンスターの方が、こういう空気の変化には敏感らしい。
「あの……夕食は、どうされますか?」
俺が地雷原を歩くような慎重さで問いかけると、二人は別々の場所から同時に、力なく答えた。
「「……いりません」」
ああ、だめだ。完全にお手上げだ。
俺とリサは、そそくさと台所へ退散し、二人で頭を抱えた。
「うぅ……私のせいです……」
リサが机に突っ伏してうめいた。いつもの元気はどこへやら、その声は蚊の鳴くようだ。
「吊り橋効果なんて、生半可な知識でしゃしゃり出たばっかりに……。二人の仲を、めちゃくちゃにしてしまいました……」
珍しく本気で落ち込んでいるリサの姿に、俺は少しだけ驚いた。
ただ面白いものを追いかけるだけのトラブルメーカーではなかったらしい。
「いや、お前だけのせいじゃない。俺も、安易に乗ってしまったんだから、同罪だ」
俺がそう言うと、リサはむくりと顔を上げた。その目は少し潤んでいるが、強い光が宿っている。
「このまま、終わらせるわけにはいきません!」
彼女はバン、と机を叩いた。
「私、沙耶さんと話してきます! 今度は小手先の作戦じゃないです。女の子同士、腹を割って話すんです。沙耶さんだって、本当はあんなこと言いたくなかったはず。きっと今頃、一人で後悔してるかもしれない」
「おい、やめておけ。火に油を……」
「大丈夫です」
俺の制止をリサは力強い一言で遮った。
その表情は、民宿の企画広報担当ではなく、一人の友人の幸せを願う、誠実な顔つきだった。
◆◇◆
リサは、戸棚から可愛らしいティーポットを取り出すと、先日、八百屋のおばちゃんから「恋が実るハーブティーよ」ともらっていた包みを開けた。中から現れたのは、カモミールの甘く優しい香り。リラックス効果は抜群のはずだ。
お湯を注ぎ、湯気が立ち上るカップを二つ、お盆に乗せたリサは、一度だけ深呼吸をすると、沙耶さんが閉じこもる客室の襖の前へと向かった。
「沙耶さん、リサです。温かいハーブティーを淹れたんですけど……少しだけ、お話ししませんか?」
中から、返事はない。
しかし、リサは諦めなかった。
「……健太さん、すごく頑張ってましたよ。沙耶さんに喜んでほしくて、色々考えてたみたいです。まあ、その……ほとんど全部、空回りしちゃってましたけど」
リサが少しだけおどけて言うと、襖の向こうで、微かに空気が動く気配がした。
やがて、すすり泣きに似た、小さな声が聞こえてきた。
「……入って」
リサは静かに襖を開けた。
◇◆◇
一方、その頃。
俺は、縁側で石のように固まっている健太さんの隣に、何も言わずに腰を下ろした。
遠くで、ヒグラシが鳴いている。夏の終わりの、少しだけ寂しい風が、俺たちの間を吹き抜けていった。
しばらく、気まずいが、不思議と不快ではない沈黙が続いた。
やがて、健太さんが消え入りそうな声で口を開いた。
「すみません、田中さん……。せっかくの旅行を、俺のせいで台無しにしちゃって……」
「いいんですよ」
俺は短くそう答えた。
無理に励ます言葉も、気の利いたアドバイスも、今の彼には毒になるだけだろう。
かつて、仕事で取り返しのつかない大失敗をし、上司に報告した時のことを思い出す。説教されるかと思いきや、その上司は何も言わず、ただ自販機で買ってきた缶コーヒーを、ポン、と俺の机に置いてくれた。
あの時の、言葉にならない温かさが、どれだけ心に沁みたことか。
俺は静かに立ち上がった。
「高橋さん。ちょっと、付き合ってもらえませんか」
うなだれていた健太さんが、ゆっくりと顔を上げる。
俺は、彼を連れて台所へと向かった。そこには、夕食で使うはずだった、新鮮な地元の食材が出番を失って寂しそうに並んでいる。
俺は無言でエプロンを一つ、健太さんに手渡した。
「男は、腹が減ってちゃ、戦はできんのですよ」
その言葉に、健太さんは一瞬きょとんとした顔をしたが、やがて、その目にほんの少しだけ力が戻ったように見えた。
客室では、女の子同士の秘密のガールズトークが。
そして台所では、不器用な男たちの静かな決起集会が。
この民宿の夜は、まだ始まったばかりだ。
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