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事例 壱 『コウシュ村』
壱
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サク、サクと足を踏み締める音が響く。その音が『今自分は外を歩いている』ことを教えてくれた。
ああ、自分は歩いていたのか。それを自覚したことで、今自分が置かれている状況にも気付かされた。視界が晴れたような感じ、といえば分かりやすいだろうか。
シンシンと降り積もる雪道がレフ板のように辺りを薄暗く照らす中、見覚えのない田んぼの畦道を自分は歩いていたらしい。
雲が分厚いから今が何時くらいなのか、目視では判断がつかないとだけ言っておく。昼間なのか、夕方なのか、はたまた夜なのか。
そして雪を認識した途端、やけに肌寒く感じるようになった。そこでまたふと気が付いた。自分はこの雪に見合わぬ薄着だったらしい、と。
半袖Tシャツ一枚に着古したジーンズ、これまた履き慣れたようにクタクタなスニーカー。明らかにこの薄っすら雪が積もった道を歩くには向かないことなんて、誰の目からも明らかである。
それでも何故か歩みは己の力で止められるものでもなく、流れに乗って道の先へ行くしか今の自分には出来なかった。
フッと顔を上げて足が進む方向にある真っ直ぐな道を見ると、どうやら見知らぬ小さな集落に向かって伸びているようだということが分かった。遠い向こうに昔ながらの家屋が立ち並んで見えたから。
自分はハア、と白い息を吐きながら、はて己は何をしにここに来たのだろうかと疑問に思った。
まてよ、その前に、自分は……誰だ?
自分のことも、自制の効かない行動の意味も、あの集落についても、『自分』は何も知らなかった。いや、覚えていないと言う方が適当か。実に不思議な体験である。
というかこれは所謂記憶喪失とか言うあれなのでは、と全く実感のないことばかりが頭を駆け巡る。
サク、サク、と鳴る自分の足音しか存在しないのではと錯覚させられる程静かなこの空間は、思考をグルグルと止めどなく回らせる。実に嫌な感覚だ。
だんだんハッキリスッキリしてきた頭は思考を止めず、しかしそれを要らないものであるかのように足は無意識的にドンドンと進んで行く。当然、だんだん集落が目と鼻の先にまで迫っていた。
「……なんだ、あれ。」
集落の様子が視認できるくらいまで近づいた辺りで、集落の入り口の手前に何かがポウッと浮かび上がってきた。
目を凝らしてみるとそれが人間、それも白髪を綺麗に結ったお婆さんだと分かる。
ポツネンと独り立ち尽くす腰の曲がったお婆さん。何故か彼女の存在に自分の心がホッとしたのには驚いた。
もしかして記憶を失う前、このお婆さんにお世話になったのだろうか。……うーん、分からん。
思い出せない記憶をウンウン唸りながら引っ張り出そうとしていると、そのお婆さんはしゃがれた声で話しかけてきた。
「帰れ。お前が来ていい場所じゃあない。」
と。
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