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ミヤコはある日、森の中、熊の魔獣さんに出会った
第2章:オレンジの森と、赤い影の襲撃
しおりを挟むそこは、視界のすべてが鮮やかな色彩に満たされた、特別な場所だった。
たわわに実った魔蜜オレンジが、重そうに枝をたわませている。
木漏れ日が果実の表面で弾け、まるで宝石を散りばめたような美しさだ。
「さあ、着いたわ。……わあ、今年は一段と豊作ね!」
私はモップの背から降りると、さっそく収穫に取り掛かった。
鼻をくすぐるのは、もぎたての果実だけが持つ、弾けるような酸っぱい香り。
けれど、高いところにある実は私の背丈では届かない。
「モップ、ちょっと手伝ってくれる?」
私がお願いすると、モップは「わふん」と短く鳴いて、巨大な体をすっくと立ち上がらせた。
前足で枝をそっと押さえ、私が取りやすい位置まで下げてくれる。
大きな爪を器用に使い、決して枝を折ることのないその配慮。伝説の魔獣らしからぬ、あまりに細やかな優しさに胸が熱くなる。
「ありがとう、モップ。ほんと、いい子ね」
私が微笑むと、彼は誇らしげに目を細めた。
収穫したオレンジの皮を指先でなぞってみる。
厚みは十分、油分もたっぷり。
これなら、頑固なグリフォンちゃんの羽の付け根に溜まった脂汚れも、一瞬で浮き上がるはず。
(この香りの強さなら、消臭効果も期待できそうね。あの子、最近ちょっと寝汗をかきやすいって言っていたし……)
お客さんの喜ぶ顔を思い浮かべながら、私はバスケットをオレンジ色で埋めていく。
平和で、満ち足りた、宝石のような時間。
この穏やかな森に、あんな「狂気」が潜んでいるなんて、その時の私は思いもしなかった。
――ズゥゥゥン!!
不意に、地面を激しく突き上げるような衝撃が走った。
平和な鳥のさえずりが一瞬で途絶え、森全体が息を潜める。
奥の茂みが大きく割れ、巨大な赤い影が飛び出してきた。
「ガアァァァァッ!!」
現れたのは、身長三メートルを超える巨獣。赤兜熊。
頭部を覆う真っ赤なたてがみが、血のように鈍く光っている。
この森の王者とも呼ばれるAランク指定の危険な魔獣だ。
魔獣、低い声で地響きのような唸りを上げ、その瞳は我を忘れたように赤く血走っていた。
「……まぁ、なんてこと」
迫りくる脅威を前にして、私の口から出たのは、呆れを孕んだ独り言だった。
その巨体に泥がこびりつき、それが乾いて毛並みはバサバサに逆立っている。
「なんて汚れた子なんだろう。これじゃあ、せっかくの真っ赤なたてがみが台無しじゃない。今すぐトリミングしてあげたいわ……」
私のマイペースな呟きなど届くはずもなく、赤兜熊は家を押し潰すほど巨大な爪を振り上げた。
死を予感させる冷たい風が頬を打つ。
けれど、その爪が私の髪にかすめることさえなかった。
「――ワオォォォォンッ!!」
モップが私の前に割って入り、鋭く吠えた。
それは種族を越えた、絶対的な強者の宣言。
目に見えるほどの空気の波紋が、衝撃波となって空間を真っ二つに引き裂く。
ドォォォォン!!
巨躯を持つ赤兜熊は、まるでぬいぐるみを投げたように後方へ吹き飛んだ。
巨木を何本もへし折りながら、森の奥へと叩きつけられる。
モップは鼻息一つ乱さず、私の安全を確かめるように静かに座り直した。
(本当に、圧倒的ね……。モップにとっては、この子も小さなお友達みたいなものなのかしらね)
圧倒的な戦力差。
倒れた熊はピクリとも動かず、森に深い静かな時が戻ってきた。
私は倒れた熊のもとへ歩み寄った。
近づくと、戦意を完全に喪失し、全身で震えているのが分かった。
けれど、その震えは死の恐怖からだけではない。
うわごとのように小さく鳴きながら、視線だけを必死にある一点に向けていた。
茂みの奥。自分が守るようにして背負っていたはずの場所。
そして、巨大な手の中には、収穫しようとしていたのか、ぐしゃりと潰れたオレンジが握られていた。
「……自分用じゃないのね?」
私はその必死な眼差しに導かれるようにして、茂みをそっと覗き込んだ。
そこには、一頭の小さな子熊が、苦しそうに丸まっていた。
「キュゥ……、キュゥ……」
子熊の口からは、不吉な、どす黒い霧のような瘴気がゆらゆらと漏れ出している。
そのお腹は風船のようにパンパンに膨れ上がり、苦痛のために短い手足をバタつかせていた。
(この瘴気臭……まさか、『影ネズミ』?)
子熊の口元には、黒い毛の残滓が付着していた。
森の疫病と呼ばれる『影ネズミ』。
それは純粋な呪いの塊そのものであり、誤って食べてしまえば、内側から体を腐食させ、死に至らしめる恐るべき害獣だ。
「あらあら、大変。拾い食いしちゃったのね……」
私の胸を締め付けたのは、恐怖ではなく、子供を想う母親への共感だった。
親熊があれほど荒れ狂っていたのは、襲いたかったからではない。
死にゆく我が子を救うために、藁をも掴む思いで果実を探していたのだ。
私は子熊の熱を帯びた額に手を触れる。
冷たい呪いの波動が指先を刺す。
「大丈夫よ。元・幻獣保護センターの職員だった私にまかせて。……これくらい、すぐに『綺麗』にしてあげるから」
私は背後で心配そうに鼻を鳴らすモップを振り返り、力強く頷いた。
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