触れられ触れて、人になる。

佐倉 悦巳(さくら えつみ)

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 狭山は、一度腹を括ってしまえば思い切りのよいタイプだったようで、俺との共同生活にかなり短い日数で馴染んだ。
  同居を始めた次の日には二人で狭山の身の回りの物を買いに出かけたが、必要最低限どころか足りるのか心配になるほどわずかなものしか、彼は望まなかった。
  わずか三日目にして俺は狭山を家に残して大学へ向かったけれども、彼は逃げ出すどころか帰宅すると部屋のそこかしこが綺麗に掃除されていたのだった。
「狭山さん、俺、あなたをハウスキーパーにするつもりはないんで、当番以外のことはやらなくていいですよ」
  一週間がすぎたところで、俺は言った。その間にも、普段俺が手をつけないようなところまでが磨き上げられ、すでに部屋は業者にクリーニングを頼んだ後のようにピカピカだ。
「あ……すみません。動いていないと落ち着かなくて」
  本当に申し訳ないというように、狭山が体を縮こませる。
「昼間、もっと出かけてもらって構いませんよ。こんなに家事をしていたら職探しの時間が足りないでしょう?交通費が必要なら、買い物用に置いてる封筒から使ってください」
  大学に行っている間に食料やら日用品やらを補充してくれるというので、必要な時に使えるよう部屋には現金を置いていた。合鍵も渡してある。
  こんなにわずかな日数だというのに、共同生活のためのシステムはすでにほとんど不便がないくらいに整っていた。
  ……そして、不本意ながら俺は気づいてしまったのである。今の生活が、想像していたよりもずっと快適であることに。
  もちろん、狭山が気を遣っているということもあるだろう。元々控えめな性格なのか、立場をわきまえなければと心がけているのか、はたまたその両方なのか俺にはわからなかったが、適度に取られた距離はとても心地よかった。
  大学の課題など、やらなければならないことがある時に狭山が話しかけてくることはない。静かに部屋の隅で本を読んでいるか、当番になっていれば家事をしていることが多い。そして終わった頃を見計らって、“頭を使ったでしょうから”と甘い飲み物をくれたりするのだ。
  彼の態度は気遣いにあふれているけれどよそよそしいわけではなく、食事の時やテレビを見ている時などは、思いの外よく喋り、時折笑顔を見せることすらあった。線の細い狭山によく似合う、柔らかな声で形作られる言葉は丁寧で、聞いていて心地が良い。話の内容も、買い物の時に見かけた猫が可愛かったとか、道ばたに咲いていた花が綺麗だったとか、穏やかでポジティブなものが多い。相手のことをほとんど何も知らないままに勢いだけで始めてしまった同居だが、彼が汚い言葉で下世話な話をするような人間でなくて良かったと今になって思う。
  一日の終わりに、ベッドに寝転びながらそんなことを思い返していると、不意に声をかけられた。
文人あやとさん、電気、消しますね」
  同居生活を送っていると、度々兄のことが話題に上る。小さい頃どんなことをして遊んだとか、どんなものが好きだったとか。兄の話は狭山の傷をえぐってしまうのではないかと思ったが、聞かせてほしいと請われて時々話した。
  そんな中で、兄との区別をつけるために狭山は俺のことを名前で呼ぶようになった。時を同じくして一人称も私から僕へと変化したので、少しは気を許すようになったのかと思ったけれど、お互いの立場に基づいてきっちりと引かれた一線は相変わらずだ。
  手にしたリモコンを天井に向けると、ピ、と短い音がして、部屋は暗闇に包まれる。
  部屋の中央に置いているテーブルをギリギリまでベッドに寄せて、空いたスペースに狭山が布団を敷いて寝る。
  ……俺は同じ空間で他人と寝ることが苦手だ。
 強制的に一つの部屋に押し込まれてしまう修学旅行や合宿なんかは酷いもので、毎回眠るのが最後になってしまう。それどころか全く寝付けず、皆の寝息を聞きながら夜を明かすことすらあった。
 なのに、狭山が同じ空間で生活することにはあっさりと慣れてしまったのだから、本当に驚いた。俺自身は何も変わっていないのだから、これはきっと狭山の持つものによるところが大きいのだろう。
  
「仕事が決まりました」
  狭山がそう告げたのは、同居を開始して二週間に少し欠けるくらいのことだった。
「一刻も早く働くことを優先したので、アルバイトですが」
  採用になったのはアパートから徒歩で10分ほどの場所にある、個人経営の小さなパン屋だと言った。
「販売だけでなく作るところからお手伝いさせていただくことになったので、朝は早い時間に出ることになります。できる限り文人さんを起こさないように行きますから」
  “それでもご迷惑をおかけしたらすみません”と謝った後で、
「その分、帰りはそんなに遅くなりません。晩ご飯の用意は今まで通り僕がやりますね」
  と告げたのだった。変わらずに担当できることが誇らしいとでも言うような表情で。
  
  ——会社員だった頃、狭山はさぞ優秀な社員であっただろうと思う。彼がやることは、誰も成績をつけたりしないような家事においてすら、ひとつひとつが丁寧で緻密だ。きっと、会社では周りから評価もされ、本人もやりがいを感じていたのではないだろうか。
  それをこんな形で失った上に、アルバイトだなんて、と最初は思っていた。
  しかし、俺の考えをよそに狭山は楽しそうだった。さすがに勤め始めてすぐはぐったりしていたけれど。
  “パン屋って思っていたよりも力仕事でした”と彼は言った。
「前の仕事はデスクワークだったんです。だから、一日中立っているパン屋の仕事は結構体にきちゃって……パンの生地も、あんなに重いなんて知らなかった」
  “体力不足を痛感します”そうこぼした彼は、テレビを見ているうちにずるずるとテーブルに突っ伏してしまった。
  聞こえてくる規則正しい寝息と無防備な姿が妙に可愛らしく思えて、そう感じた自分に戸惑った。
  勤め始めたばかりで欠勤は困る、と風邪を引かないよう狭山の体に毛布を掛けてやったのだが、目覚めた後でそれに気づいた時の狭山の慌てぶりはすごかった。
  ひとしきり恐縮し、縮こまり、何度も詫びた。
  その後で、はにかむように微笑んで“ありがとうございます”と言ったのだ。
  ただ、それだけ。
  それだけなのに、照れくさそうな笑顔がいつまで経っても頭から離れなくて、俺は少し困った。
  
  体が仕事に慣れた頃から、狭山は時折土産を持って帰ってくるようになった。
「今日はクリームパンを作ったんです」
  と嬉しそうに報告する一方で、
「ただ、あの……失敗して、焼いたらクリームがはみ出してしまって……」
  帰ってから食べればいいとオーナーがくれたと、とても恥ずかしそうに不格好なクリームパンを取り出した。
  なるほど、生地からはみ出したせいで、そこだけ濃い焼き色がついている。
  確かにこれでは売り物にはならない。
「俺、甘いもの好きですよ」
  いただきます、と一口かじった途端、優しい甘さが口の中に広がった。
「あ、すごい……」
  思わず口からこぼれた言葉に、狭山は嬉しそうに笑う。
「クリーム、なめらかですよね。僕も初めてごちそうになったときに驚きました」
「このクリーム、狭山さんも作れるようになるんですか?」
「……まずは、ちゃんと包めるようにならないと、です」
「はは、そうですね」
  できの悪いクリームパンを見つめて悔しそうな狭山に、つい笑みがこぼれる。
「いつか、作れるようになってくださいよ。俺、好きです。これ」
「オーナーに教えてもいいって思ってもらえるよう、頑張りますね」
  27歳。俺より6つも年上だというのに、狭山はすごく自然体だ。
  新しい環境の中では今までの経験が役に立たないのを知っている。そのことを卑下するのではなく、できないことが多いからこそ、何かを得ようと努力する。
  ある程度社会人として経験を積んだからこそのプライドだってあるだろうに、彼はいつだって謙虚で一生懸命だった。
  狭山といると、自分まで上に引っ張りあげられるような気になって、向上心が沸いてくる。それがたまらなく心地よかった。
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