5 / 9
ベランダの向こうの目
しおりを挟む曇天の空。カーテンを開けているものの、どこか暗い印象の部屋で、遥は奏絵を床に寝かせてスマートフォンを触っていた。
「えっと…奏絵の体重は今8キロだから…まだMサイズで大丈夫だよね…?」
奏絵が産まれてからというもの、遥は必要最低限の外出しかしていない。赤ん坊を連れて外に出るのは大変で頻繁に行くのは遥の体力的に難しかったのだ。重たい物や赤ん坊のオムツやミルクなどの大きくて嵩張る物は割高だと分かってはいるもののネットスーパーで注文している。
オムツ漏れが多い原因は分からずじまいだが、サイズアップするにしてもまだLサイズに推奨される体重には程遠い。結局、いつも購入しているサイズの購入ボタンを押した。
スマホでスワイプしていると、ベビーフードが目に入る。
「流石にそろそろ始めないと、だよね…。離乳食。」
スヤスヤと昼寝をする奏絵をチラリと見た後に、遥は呟いた。まだ大丈夫、まだ良いだろうと先延ばしにしてきた。流石にそろそろ始めないといけないと思ってはいるのだけれど、気が進まない。
理由は明確だ。離乳食が大変という話はネットを見れば嫌というほど転がっている。見れば見るほどに敬遠したくなる書き込みの数々。山積みになったままテーブルに放置された本が目に映った。『簡単!離乳食』『これだけ読めば安心!育児の全て』等タイトルが書かれた背表紙の、埃を被ったそれらは読む余裕が無く購入したきりになっていた。
「ベビーフード…やっぱり楽そうだなあ。自分で作る自信も無いし…。」
冷凍の物やフリージング、粉末状のものなど様々な種類のベビーフードが並んでいた。消費者が悩まないよう、5ヶ月から7ヶ月からと食べさせて良い時期まで書いてある。
「うーん。やっぱり最初はお米からだよね。お米も最近高いのよね…節約の為には自分で作った方が良いのかな…。」
楽さを取るか、それともお金を取るか…。頭を悩ませていると、奏絵が起きたのか泣き始めた。慌てて娘を見れば寝返りをしたまま戻れなくて藻掻いているようだった。
「かなちゃん、大丈夫だよ。」
遥は奏絵にそう声を掛けると、スマートフォンを見詰める。どれを買おうか…?
迷っているうちに娘の泣き声はどんどん大きくなっていく。溜め息を吐いてスマートフォンを置いてから奏絵の脇に手を入れて持ち上げようとしたところで、奏絵が背中を大きく反らして後頭部が遥の顎に当たった。
「…痛っ…。」
遥の瞳が一瞬、揺らいだ。
一呼吸分の時間を置いて、遥は奏絵を横抱きにしてあやす。
「奏絵、大丈夫よ。大丈夫。ちょっと痛かったね。ごめんね。」
話しかけながら涙を指でそっと拭った。そういえばそろそろミルクの時間だ。泣き喚く娘を抱えたまま遥はキッチンに向かいミルクを作り始める。
「よしよし、今ミルク出来るからね~。」
こんな時、母乳だったらすぐにあげられて良いのにと思う。母乳の出が悪く奏絵が嫌がってすぐに口を離しては大泣きしてしまう為、母乳をあげることを諦めたのはいつ頃だったか…。
あれだけ泣いていた奏絵だが、哺乳瓶を口に含ませるとすぐに泣き止んで吸い付いた。小刻みに動く唇を見て遥は微笑んだ。
「可愛いなあ。」
ミルクを飲む奏絵を見ながら、我ながら可愛い子を産んだものだと思う。クリリとした大きな目にマツエクでもしてるのかと思うくらいのフサフサのまつ毛。もちもちのお肌にちぎりパンのような手足…。見詰めながら、遥は奏絵の柔らかい頭に口付けた。
『3月12日に会社員の女性が殺された事件から、今日で2週間が経ちました。ーーーーー生後6カ月の女の子は未だ見つかっておらず、警視庁は情報提供を呼び掛けています。』
「今日もこのニュース…まだ犯人が捕まっていないなんて…。」
早く捕まってくれないだろうか。警察は何をしているのだろう。行方不明の赤ちゃんの特徴や、当時着ていた服装の情報が流れた所で遥はテレビを消す。
暗転したテレビ画面を見ながら遥は考える。もし自分が同じ目に遭ったのならば…きっと犯人を許す事は出来ない。娘に何かあれば犯人を呪ってしまうだろう。
ピンポーン
インターホンが鳴った。
慌ててミルクを飲み終えたばかりの奏絵を床に置いた。
遥は少し間を置いてから、白い受話器を取ってそっと耳に当てた。
「はい。」
「あの、隣に住む者ですが…大家さん、来ませんでした?赤ちゃんの声が気になって…。あ…」
女性が何か言いかけた所で、遥は遮るように言葉を重ねる。
「すみません。うちの子まだ小さくて…。」
「いや、すみませんじゃなくて…。」
「気を付けるようにしますから。」
遥は受話器を置いて通話を終了させた。その場から動けないでいる遥の耳に、奏絵の無邪気な声が聞こえてくる。
やっと動けた遥が奏絵を見ると、奏絵はまた寝返りに挑戦している。そのままゴロンと転がって寝返りを成功させた後、足をパタパタさせていた。
「ゲボッ」
大きなゲップと共に飲んだばかりのミルクが吐き出され、また泣き声が響いた。
「あっ…!」
奏絵は吐き出されたミルクの上に頬を付け泣いている。遥はその様子を見つめた。
泣き声が大きくなった所でゆっくりと近付いて反対側に転がして服を脱がせる。べちゃりと嫌な感覚。見ると、吐き出されたミルクが奏絵の頭の下まで伸びて柔らかい髪を濡らしていた。
遥は一瞬手を止めた。
酷く泣く奏絵を抱き上げてミルクで濡れた髪の毛や首筋と床をティッシュで拭いて、綺麗になった床に奏絵をそっと置いて寝室に向かう。
「大丈夫だからね。大丈夫。」
背後からは奏絵の泣き声が聞こえてきていた。
寝室に入ると、またあの黒いウエストポーチが目に入った。遥は少しそれを見詰めてから、視線を逸らして部屋の電気を付ける。
クローゼットを開けてから、ベビー用の服があまり無いことに気付いた。オムツ漏れで着替え、ミルクを吐き出しては着替え…。そうこうしているうちに次のミルクの時間が来る。毎日洗濯しても服が足りない。
「服も買い足さないと…。」
何かと物入りで今月は赤字だ。貯金を崩しながらの生活になりそうだと焦りが出てくる。和希に仕送りの増額をお願いしてみようか…しかし夫も向こうでの生活がある。余り無理は言えない。
きっと大丈夫だ。
まだいくらか貯金はあるのだから。
遥は歩いて奏絵の所まで戻ると、奏絵は裸のまま寝返りもせずに泣き続けていた。
服を着替えさせようと抱き上げると一瞬泣き声が弱まるが、広げた新しい服の上に置くとまた激しく泣き始める。暴れるので中々着替えが進まない。ボタンを掛け違えたりしているうちにオムツの線が青くなる。
「……大丈夫だよ、かなちゃん。オムツも替えようね。」
寝室にオムツを取りに行くついでにと、汚れた服を手に取ってそのまま洗濯機に放り投げた。
新しいオムツを手に取って奏絵の元へ戻り、暴れる奏絵を宥めながら何とか替え終わり、着替えも完了させた。
服を探さないと、か。
そろそろ温かくなってくるのだから、薄手の物を買った方が良いのだろう。良いものがないかネットショッピングサイトを開いて探しているうちに洗濯が終わった。
濡れた洗濯物を取り上げてベランダに向かう。相変わらず雲で覆われた空に、溜め息を吐いた。
ベランダに出る為に引き戸を開けると、
「たまには散歩に行きたいけど…あの事件の犯人が捕まっていないから。」
カゴから一つ奏絵の服を持ち上げる。ふと違和感を覚えて目線を上げると…。
黒い瞳と目が合ったような気がした。
「えっ?」
ここは1階だからベランダにいれば通行人が歩いている事もあるだろう。けれど、塀は高めで中が見えにくいようになっている。
こうして目が合うというのは滅多に無いことだった。目が合ったのは少し草臥れた風貌の黒髪の中年の女だ。一瞬のことだったが、その女がじっとこちらを見つめていたような気がしたのだ。
遥は震える手でカゴを持って家の中に戻った。バタンと大きな音を立てて引き戸が閉まる。
遥の心臓が大きな音を立てた。見たことない女だ。女のギョロリとした大きな目が不気味に記憶に残る。
数日にわたり報道されているあのニュースが頭をよぎった。
『3月12日午後8時ごろ、〇〇県△△市に住む28歳の会社員・勝部茜さんが、自宅で腹部を数カ所刺された状態で発見され、病院に搬送されました。しかし、翌日午前8時に心肺停止が確認されました。
また、茜さんの長女で生後4カ月の女の子が行方不明となっており、警察は当初、茜さんと女の子がいた部屋に何者かが侵入したとみて、殺人および誘拐の容疑で捜査を進めています。』
まさか…と遥は頭を振って頭の中に浮かんだ考えを払拭する。
「はあ…はあ…はあ…。」
遥の呼吸が荒くなり冷や汗が額に浮かんだ。ガタガタと身体が震えるのを抑えるように自分の体を抱いた。
体の震えが止まるのを待って、呼吸を整える。
「どうしてこんな馬鹿な考えが浮かんだんだろう?…きっと、ニュースを見て怖いと思っているから、通りすがりの人と目が合ったのを怖く思ってしまっただけ。………私の気のせいに決まってる。」
「ふぇ…ふぇ…。」
奏絵がぐずり始める声が聞こえて、遥はよろよろと近付いてそっと抱き上げる。
(可愛い奏絵…。私の奏絵…。)
「大丈夫、大丈夫…。何も怖くないよ。」
その言葉は本当に奏絵に向けたものだったのか、それとも自分に向けた言葉だったのか遥には分からなかった。それでも、遥は奏絵を強く抱き締めたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】勘違いしないでください!
青空一夏
恋愛
自分の兄の妻に憧れすぎて妻を怒らせる夫のお話です。
私はマドリン・バーンズ。一代限りの男爵家の次女ですが、サマーズ伯爵家の次男ケントンと恋仲になりました。あちらは名門貴族なので身分が釣り合わないと思いましたが、ケントンは気にしないと言ってくれました。私たちは相思相愛で、とても幸せな結婚生活を始めたのです。
ところが、ケントンのお兄様が結婚しサマーズ伯爵家を継いだ頃から、ケントンは兄嫁のローラさんを頻繁に褒めるようになりました。毎日のように夫はローラさんを褒め続けます。
いいかげんうんざりしていた頃、ケントンはあり得ないことを言ってくるのでした。ローラさんは確かに美人なのですが、彼女の化粧品を私に使わせて・・・・・・
これは兄嫁に懸想した夫が妻に捨てられるお話です。あまり深く考えずにお読みください💦
※二話でおしまい。
※作者独自の世界です。
※サクッと読めるように、情景描写や建物描写などは、ほとんどありません。
俺の可愛い幼馴染
SHIN
恋愛
俺に微笑みかける少女の後ろで、泣きそうな顔でこちらを見ているのは、可愛い可愛い幼馴染。
ある日二人だけの秘密の場所で彼女に告げられたのは……。
連載の気分転換に執筆しているので鈍いです。おおらかな気分で読んでくれると嬉しいです。
感想もご自由にどうぞ。
ただし、作者は木綿豆腐メンタルです。
短編)どうぞ、勝手に滅んでください。
黑野羊
恋愛
二度も捨てられた聖女です。真実の愛を見つけたので、国は救いません。
あらすじ)
大陸中央にあるルオーゴ王国で、国を守る結界を維持してきた聖女ロザリア。
政略のため王太子と婚約していた彼女は、突如『真の聖女』が現れたとして婚約を破棄され、聖女の座を追われてしまう。さらに、代わりに婚姻しろと命じられた聖騎士からも拒絶され、実家にも見捨てられたロザリアは、『最果ての修道院』へと追放された。
けれど彼女はそこで、地位や栄光、贅沢などとはほど遠い、無条件に寄り添ってくれる『真実の愛』と穏やかな日々を手にいれる。
やがて聖女を失った王国は、崩壊へ向かっていき――。
ーーー
※カクヨム、なろうにも掲載しています
後の祭り
ねこまんまときみどりのことり
ライト文芸
母親を馬車の事故で亡くしたナズナは、馬車に乗っていた貴族の男性に、義理の娘として引き取られた。引き取られた先の子爵邸では、義母や義妹に傷付けられて泣いて過ごすこともあったが、懸命に生きていく。引き取られた裏には、別の理由もあったようで。
小説家になろうさん、カクヨムさんにも載せています。
カメリア――彷徨う夫の恋心
来住野つかさ
恋愛
ロジャーとイリーナは和やかとはいえない雰囲気の中で話をしていた。結婚して子供もいる二人だが、学生時代にロジャーが恋をした『彼女』をいつまでも忘れていないことが、夫婦に亀裂を生んでいるのだ。その『彼女』はカメリア(椿)がよく似合う娘で、多くの男性の初恋の人だったが、なせが卒業式の後から行方不明になっているのだ。ロジャーにとっては不毛な会話が続くと思われたその時、イリーナが言った。「『彼女』が初恋だった人がまた一人いなくなった」と――。
※この作品は他サイト様にも掲載しています。
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる