朱色のおくるみ

だんだん

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大丈夫

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 春の陽気になりかけている3月の柔らかい空気が、遥と奏絵を包んだ。奏絵が生まれた時に単身赴任先の夫が送ってきた小さなオルゴールが有名なクラシック曲を奏でている。
 生後半年になったばかりの奏絵は、聴いているのかいないのか、遥の腕の中でうとうとしていた。

 網戸を開けていると、煙草の匂いが入り込んできた。
 ミルクと赤ちゃんの香りに包まれたその空間に、異物が混じる。
 遥は肩を強ばらせ、考えるより先に引き戸を強く引いた。
 見えない煙が、まだ天井の辺りを漂っている気がして、遥は奏絵を抱えたまま寝室へと駆け込んだ。
 電気の付いていないカーテンの隙間から僅かな光が差すばかりの寝室には、夫の物がちらほらと置いてある。夫の黒いウエストポーチを見つめ、それから目を逸らし、少し間を置いてから部屋の電気を付けた。
部屋を移動しても服に先ほどの煙草の匂いが残っている気がして、奏絵をベビーベッドに置いた後、服を脱ぎ始める。

 遥の不安を感じ取ったのか、奏絵はとめどなく泣き出した。
 遥は泣いている奏絵に必死に声を掛けた。

「ごめんね…かなちゃん、もう少し待ってね。」

 脱いだ服を洗濯機の中に放り込み、新しい服を身に着けた頃には奏絵の泣き声は聞こえなくなっていた。
 遥は奏絵に近づく。静かな奏絵を見て、ドクンと心臓が跳ねた。
 震える手でそっと頬に触れる。…………温かい。
 そのまま右胸に触れ鼓動を確認する。ベビーベッドの柵につかまったまま膝から崩れ落ちた。

 大丈夫だった。

 そう思った瞬間、遥は全身の力が抜けるのを感じた。




 次の日。
 夫の和希から電話が掛かってきた。

「遥。ごめんな。今週も帰れそうにないんだ。土曜日も仕事が入ったもんで。」

 夫の疲れの染みた声音に遥は一瞬、言葉を選んだ。

「こっちは大丈夫だよ。奏絵も良い子だし。私一人でも大丈夫だから。それよりも、来週は帰ってこられる?」

「あぁ、上に掛け合ってみるよ。」

「うん。無理はしないでね。」

 遥は和希との電話が終わった後、スマートフォンを胸に抱き締めながら、久しぶりにした和希との会話の余韻に、しばらく身を委ねていた。
 甘い余韻に浸っていると、奏絵が唐突に泣き始める。
 時計を見ると、次のミルクの時間が来ていた。
 遥はすぐには動かず、そのまま目を閉じて溜め息を吐いた。強くなる泣き声に遥は思わず舌打ちをしそうになり……はっとして立ち上がる。
 奏絵は顔を赤くして涙で顔中を濡らしている。

「大丈夫だよ。大丈夫。」

 遥は奏絵をそっと抱き上げ、決まった動作で彼女の唇に哺乳瓶をあてがった。
 すると先程までの泣き声が嘘だったかのように、奏絵は静かにコクコクと喉を鳴らしながらミルクを飲んでいく。
 あっという間に飲み終わった哺乳瓶を、遥は無造作にテーブルの上に置いた。そしていつものようにゲップをさせようと奏絵を抱き上げた。

 ゲップはなかなか出ない。

 遥は奏絵の重みを肩にずっしりと感じていた。じっと耐えていると、肩の奥でギシ、と小さな音が鳴った気がした。
 しばらくいつものように擦っているが、それでもゲップは出ない。

 姿勢を変えてみようか迷い、結局、奏絵を自分の膝の上へと置いた。
 まだ腰が据わりきっていない奏絵の体は、不安定にグラグラとする。
 柔らかい奏絵の体の、胸から首にかけて手の平を添え、指先で顎を支える。
 そのまま、丸い背中をそっと擦った。

 最近はゲップを出させる時、こういう姿勢にするのが主流なのだと、インターネットの動画で見た。
 遥には昔ながらの方法の方が安心なのだが、出ない時には姿勢を変えるのも良いのだと、何かで読んだ気がした。

 しばらく擦っていてもやはりゲップは出ない。

 遥は諦めて、奏絵を縦に抱いたまま部屋の中を行ったり来たりした。
 また暫く、行く当ても無く部屋の中を行ったり来たりしていると――
ピンポーン、とインターフォンが鳴った。
 遥の住んでいる築古のアパートのインターフォンには、来訪者の顔を映すような液晶画面は付いていない。白い無機質な受話器を、奏絵を抱き抱えたまま、そっと持ち上げる。

「はい」

 遥の固い声が、静かな部屋に響いた。相手は遥が出ると思っていなかったのか、驚いたような間が空いた。
受話器の向こうから、何も聞こえない。

「あのぅ……加西さん? 大家なんですけど」

 ここへ越してきた時に挨拶をしただけの大家が、戸惑いを隠さずに言った。

「貴女の部屋から赤ちゃんの泣き声が聞こえるって苦情が来てるの。赤ちゃんが産まれるなんて話聞いてなかったから…。」

 「苦情」という言葉に遥は動揺を感じた。
 口の中が渇いて、頭の中が整理出来ない。
 焦った遥は、

「大丈夫です。」

とだけ言って、受話器を置いた。

 いきなり受話器を置いたからだろうか。
 暫く、インターホンの呼び出し音が、狭いリビングの中を木霊していた。
 奏絵を抱き締めながら、遥は――郵便受けに、何かが入れられるような音を聞いた。


 それきり、静寂だけが残った。






 どのくらい時間が経ったのだろうか、奏絵の温かさと小さな息遣い、赤ちゃん特有の匂いを嗅ぎながら遥はただ壁に掛かった時計の秒針が動くのを見つめていた。
 ふと、静かにしていた奏絵が咳をして、その小さな口元から先ほど飲んだミルクが溢れ出し、遥の服を汚した。
 胃液とミルクの混ざった独特のにおいが鼻に付いて、じんわりとした温かさが、逃げ場のないまま遥の腹部に広がる。
 あぁ、また着替えないといけないのか。遥は思って、軋む体を押して立ち上がった。
 ふと、確認してみると、奏絵の服も濡れてしまっていた。遥は少し考えてから、先に奏絵の服を脱がしていく。
 口から溢れたミルクの量は遥の想像していたものより多かったらしい。奏絵の肌まで湿っていた。
 服を全て脱がしてから、着替えを用意していない事に気が付いた。

 遥は奏絵を床に置いたまま、

「かなちゃん、大丈夫だからね。」

と、言い聞かせるように声を掛けてから、着替えを取りに寝室へ行く。

 寝室に入ると、またあの黒いウエストポーチが目に入った。遥はそれを見つめたまま電気を付ける。
 電気を付けた後、寝室に置かれた少し埃の被った姿見——結婚をした時に買ったもの——に、自分が映った。
 寝癖が付いたままの髪に、よれたスウェット姿の女が立っている。よく見ると、スウェットの真ん中に大きな染みが浮かんでいた。遥は無意識にそれを脱ぎ、クローゼットから新しい服を引っ張り出した。

 汚れたスウェットを洗濯かごに放り込んだところで、遥は独立洗面台の鏡の中の自分と目が合って、咄嗟にリビングへ向かった。

 そこには床に置かれたままの奏絵が、寝返りを打って、汚れた服に埋もれていた。

「ごめんね。かなちゃん。」

 遥は奏絵を見つめて呟いた。
 そのまま傍にそっと膝を付いて、寝返りを成功させて誇らしそうな我が子に纏わりつく汚れた服を取り除く。
 そっと奏絵を抱き上げて、その優しい温もりに安心した。

「早く、お洋服着ようね。」

 優しく声を掛けながら、安心させるようにトントンと小さな背中を叩いた。









 ベビーベッドの上で新しい服に着替えた奏絵を見て、遥は微笑んだ。

「ね、かなちゃん。大丈夫だったでしょう…?」

 奏絵は呼応するかのように習得したばかりの寝返りを再び披露している。ただ、そこから戻れないのか、顔をべちゃりとマットレスに付けて泣き始めた。

「凄いね、かなちゃん。」

 遥はこの瞬間を逃すものかと、寝返り成功の写真を撮り始めた。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫…………。

 奏絵が顔を真っ赤にし、泣き疲れて眠ったところで、遥はようやく抱き上げた。
 そっと濡れた頬に口付けをすると塩辛い味がする。
 遥は涙の跡を撫でて、

「大丈夫だね……。」

と繰り返した。


 夜も更けた。寝かし付けに時間がかかってしまった為、もうとっくに日を跨いでしまっている。
 奏絵をベビーベッドに寝かせると、遥は柵に両手を掛けたまま、しばらく動けなかった。
 小さな胸が上下している。
 呼吸は、ちゃんとある。
 遥はそれを何度も確かめるように見つめた。

「大丈夫……」

 声に出すと、少し安心する。

「大丈夫だよね」

 もう一度、確かめるように言った。
 奏絵は眠ったまま、何も答えない。小さな寝息だけが遥の耳朶を打った。
 遥はようやく柵から手を離し、部屋の電気を消した。
 暗くなった部屋で、ベビーベッドの位置だけを目で追う。


 見えている。

 ちゃんと、見えている。

 だから、大丈夫。

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