朱色のおくるみ

だんだん

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赤い跡

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 数日が経った。
 遥は変わらず家の中で奏絵と過ごしていた。閉め切ったカーテンの向こうからは優しい日差しが僅かばかり差し込んでいる。

 奏絵はミルクを飲みながらうとうととしていた。小さな瞼を閉じ、哺乳瓶を弱々しく握りしめていた手が徐々に力を失い落ちていく。
 遥はそんな様子の奏絵を見詰め、哺乳瓶を外すと口元に付いたミルクをそっと拭った。

「いっぱい飲んで良い子だね。」

 奏絵が一度に飲むミルクの量は160ml程。それを1日に6回。
 遥は哺乳瓶をテーブルの上に置いて、眠る奏絵の背中を擦りながら和希からの返信を思い出した。

『週末帰れなさそう。
明後日、電話しよう。』

 スマホをじっと見詰め、溜め息を吐く。

「また、帰って来ない。」

 和希に最後に会ったのは1年程前になる。奏絵が生まれる前に単身赴任をしている和希は、奏絵にひと目も会っていない。


「忙しいんだもんね。仕方ないよね。
…………大丈夫。」


 何か音が聞こえた気がしたが、遥は何も聞こえないかのようにスマートフォンを見詰めたまま。

「それに……気遣ってくれてるし…。それに、きっと…来週は帰って来るから……。」

 奏絵を抱き締めて遥は目元を拭った。優しいミルクの匂いと体温を感じながら、遥はゆっくりと立ち上がる。
 寝室に入り、寝息を立てる奏絵をベビーベッドに置く。奏絵は身じろぎしたものの、すぐにスヤスヤと寝入った。


「大丈夫…だね。」


 遥は寝室を出てリビングに戻る。視界の端に黒いウエストポーチが入った。

 バタン。

 扉の閉じた音で遥はハッとする。耳を澄ましても奏絵の起きた様子は無い。
 遥は何の気も無しにテレビの前に座ると、リモコンを操作してテレビを付けた。
 数日流れていたニュースはすっかり入れ替わり、海外の紛争地区の様子や、芸能人の結婚が報道されていた。

「結局…あの事件、どうなったんだろう?」

 ネット検索して調べても、最初に見たニュース以上のものは見つからない。

「隣の市で起きたなら…犯人がこの近くにいる可能性もあるのに。」

 警察は何をしているんだろう?遥は呟いた。以前、目が合った女の暗い顔が浮かんで……首を横に振るとオルゴールに手を伸ばし、螺子を回す。曲名の分からないクラシック音楽が優しい音を奏でた。

「…きっと、そのうち捕まるよね…。」

 育児による疲れの為か…遥はそのまま瞳を閉じた。





 奏絵の泣き声。
 遥は目を開けてゆっくりと起き出した。

「奏絵…?」

 時計を見ると、うたた寝を始めてから30分が経っていた。寝室に向かい電気を付ける。
 すやすやと眠っていたはずの奏絵は、顔を真っ赤にして泣いている。

「どうしたの?大丈夫、大丈夫だよ。」

 そっと抱き上げてあやすも、奏絵は泣き続けた。

「…もう、どうしたら…?」

 分からない。ミルクは寝る前に飲んだばかりでオムツも濡れているような感じはない。抱っこもしている。
 それなのに、泣き止まない。

 奏絵を抱いたまま遥はリビングに向かう。

「はあ…。」

 部屋の中は他に何も音がしないのに、奏絵の泣き声が大きくて耳が痛い。遥は大きな溜息を吐いた。

「ふぇーふぇー…ぉんぎゃあああああー!!!!」

 一瞬落ち着いたかと思った声量が、また増していく。

「よしよし…大丈夫だよ。かなちゃん、落ち着いて…。」

 縦抱きにしてトントンとするも、泣き止まない。お尻が顔の近くに来た。むわっとした匂いが鼻につく。手を置いていた辺りがじんわりと温かくなる。漏れる様子は無い。

「…オムツ、替えようね。」

 そっと奏絵を床に置いて、オムツを取りに行き手に持って戻る。
 奏絵は疲れたのか寝返りをしたまま顔を床に伏して泣いていた。

「大丈夫だよ、かなちゃん。」

 仰向けに戻そうとすると奏絵は余計に泣いた。床が奏絵の零した涙で濡れていく。遥はそれを見て少しの間、空を仰いだ。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫…。」

 暴れる奏絵を押さえながらオムツを替える。綺麗なオムツを当てて着け終わった頃には、足に押さえていた跡がくっきりと残ってしまっていた。
 遥は自分の指の跡…赤いその跡を消そうとするように奏絵の足を擦った。

「かなちゃん、大丈夫、大丈夫だからね…。」

 暫くするとその跡は薄くなったが、遥の心臓は大きな音を立てたままだった。
 奏絵は泣き疲れて眠ってしまっている。

「また………苦情が来ちゃう…。」

 遥は奏絵を抱えて呟いた。
 暗いリビングは、遥にはいつもより狭く見える。

……っ。」

 その先の言葉は無い。静かな沈黙の中に奏絵の寝息とポツリ、ポツリと水道から水滴が垂れる音が大きく響く。

 時計を見ればもう夕方。
 遥はスマートフォンを手に取り画面を付けたり消したりを繰り返す。




「和希………。」




 ポツリ、呟いた遥の声は震えていた———。


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