オム・ファタールの純愛

時田とき子

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第一章 魔性の親友

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 打ちつける雨が男の体温を奪っていく。ぬかるむ山は歩きづらく、何度も転びそうになった。汗なのか雨なのか判然としない濡れた手で一輪車を押しているせいで、何度も手のひらが滑る。
 それでも決して歩みを止めることはなかった。彼女の顔を思い出し自分を奮い立たせる。
 不意に風が吹き、あまりの風の強さに一瞬立ち止まってしまった。その瞬間、一輪車にかけていたブルーシートがバタバタと揺れる。物言わぬ胡乱な骸となった親友と目があった。生前から不健康な顔色であったが、今では蝋人形じみた恐ろしさも放っている。
 男は息を吐き出すと、もう一度山道を登りはじめた。
 親友の死体を捨てる場所はもう決めている。



 男の名前は酒井さかい 景幸かげゆきと言う。一輪車の上で死体となっているのが、かれこれ十年近い付き合いがあった親友だ。
 蘇芳すおう 千歳ちとせ
 美しく、繊細で、傍若無人な景幸の王様。
 千歳は男にしては線の細い部類で、太陽を嫌う生活習慣のせいで、吸血鬼のごとく生白い肌をしていた。さらには小柄な体型と、人形のごとくぱっちりとした目鼻立ちが愛らしい男である。だが中身は可愛い人形や天使などとはかけ離れたもので、むしろ残虐非道な悪魔という言葉の方が似合っている。人間嫌いで、親しい人以外が近くに来ることすら嫌悪していた。
 反対に景幸は、百八十を越える長身に、趣味が筋トレとだけあってがっしりとした体型である。太い眉にたれ目がちの瞳、分厚い唇であつらえられた造形は涼しげで、社交的な性格と合間って大型犬を思わせる愛嬌があった。
 見た目も性格も真逆な二人が出会ったのは、高校に入学するのと同時だった。
 二人は同じクラスで、それから"酒井"と"蘇芳"という名字だったから前後の席となった。
 人嫌いな千歳は、最初こそなにを話しかけてもつれない態度ばかりで、笑わせようとしようが怒らせようとしようがどんな反応もなかった。周りの人間は扱いづらい千歳を早々に観賞用とすることに決め、近づくことをやめた。
 そんな千歳が突如、景幸に笑顔で話しかけてきた時はクラス中にどよめきが起きたものだ。

「よっ、景幸。おはよう!」

 これまで一度も会話らしい会話に付き合ってくれたことがない千歳が、まるで稚児ちごからの付き合いのような気さくさで挨拶してくる。
 突然のことにポカンとしていれば、話しかけてきた千歳も見る見るうちに顔を赤らめ、気まずそうに視線を泳がせ始めた。
 人との距離感を詰めることが下手くそな彼に思わず笑ってしまう。それから少しずつ千歳と一緒にいる時間が増え、千歳という人間を好きになることにも時間はかからなかった。
 蘇芳 千歳は、天使すらも躊躇うほどの可憐な容姿に反し、中身は苛烈で激情家だ。
 可愛いという称賛の言葉を嫌い、そう言って冷やかしてきたクラスメイトや上級生には喧嘩を売ることすら厭わなかった。
 自分を見くびる相手には容赦がなく、徹底的に相手を追い詰める。だというのにこの男は喧嘩が滅法弱いうえ、頭を使って喧嘩するというのも苦手だったから、だいたいは景幸がその喧嘩を引き継いだ。
 二人でボロボロになりながら、近所のコンビニで買ったビールを飲んだときの味をよく覚えている。眉間にシワを寄せて、千歳は「炭酸が染みるな!」と笑った。こんだけボロボロになれば当たり前だとぼやく景幸に、千歳は何が楽しいのか腹を抱えて転げ回った。
 普段の千歳は人間嫌いで、初対面の人間にはとても冷たい。笑顔を見せるどころか、たった一言の会話すら許してはくれないことは景幸も身をもって知っていた。
 その反面、懐にいれた人間には異様ともいえる執着心を持つ。
 高校三年の冬、いつも通り馴染みのバーで酒を呷っていれば、突如千歳がこの場で自分にピアス穴をあけてくれと頼んできた。準備のいいことに、彼の片手にはドラッグストアで買ってきたばかりらしいピアッサーが握られている。
 景幸はパチクリと目を丸めた。カウンターに座っている男女の会話がうるさくて思考に集中できない。
 その男は結婚詐欺しだし、女は近くのぼったくりキャバクラのキャストだ。地獄みたいな関係の行き着く先には少しだけ興味があった。

「どうしたの、急に。千歳は痛いのが嫌いだろう」

 千歳の薄い耳たぶを眺めつつ、なんとかそれだけ言う。これまでも何度かピアスをあけたらどうかという景幸の提案を、千歳は痛いのが嫌だと言って断っていたのだ。全くもって喧嘩っ早い男の言葉とは思えない。
 テーブルを挟んだ先で酒を飲んでいた千歳は、どことなく気まずそうに唇を尖らせた。
 可愛い、と思ったが素直にそんなことを言えば鉄拳が飛んでくる。だから氷が溶けかけたウイスキーで誤魔化しつつ、ただ千歳の返事を待った。

「景幸、もうすぐ誕生日だろう」

 脈絡ない言葉だ。確かにあと半月後には自分の誕生日がやってくるが、それがどう関係してくるのか。なによりこれまで、この男に誕生日を祝ってもらったことなんて一度もない。
 小首を傾げれば、意地悪く笑った千歳がポケットから白い紙袋を取り出した。飾り気のないそれは手のひらに収まるサイズだ。不思議に思いながら受けとる。千歳は早く早くと、目を輝かせながら覗き込んできた。
 中に入っていたのは、ずっと欲しいといっていたブランドもののピアスだ。小さな円形の中心には、控えめにブランドロゴが入っている。シンプルなシルバーのデザインが美しいそれは、何故だか二セット入っていた。

「これ、同じデザインが二つあるけど……こっちは俺の彼女にあげていいの?」
「はあ!? くそウザい! もう返せ、それ!」
「はは、冗談だって。お前が俺とお揃いにするためにピアスあけようとしてくれるのまで含めて嬉しい。ありがとな、千歳!」
「あーもう、やめろって酔っぱらい!」

 ハグしてキスしようとする景幸の背中を、千歳が鬱陶しそうに引っ張る。
 そのピアスを千歳は毎日欠かさずつけていた。景幸に殺されるその日すらも。
 景幸はあのピアスを、一年前には捨ててしまったというのに。



 親友の死体は、車で二時間ほど行ったところにある山に埋める。
 この山には一度だけ千歳と来たことがあった。あの日も今日と同じように、死体を捨てる目的で来たのだ。
 証拠隠滅のためにも、千歳との思い出を断ち切るためにも、ここほど打ってつけの場所はない。
 レインコートを目深に被り、一心不乱に穴を掘っていく。暗闇の中では、きちんと穴を掘れているのかもわからなかった。むしろ自分が穴に飲み込まれている恐怖を感じる。
 成人男性が入れる穴を堀り終わった頃には、汗と雨のせいで衣服の中までぐっしょりと濡れていた。一輪車の上にいる親友も心なしか寒そうに見えて哀れになる。
 だがその思いは、彼女の姿を思い出すことで打ち消した。
 この男には同情する余地はない。
 景幸が人殺しになってしまったのも、千歳が物言わぬ死体となったのも、すべてはこの男のせいなのだ。



 千歳には昔から不思議な魅力があった。
 風貌が整っているというだけではない。美しく、繊細で、苛烈な彼は、次の瞬間には地獄の底へと自ら飛び降りていきそうな危うさがあったのだ。
 破滅願望があるとも、刹那主義的とも言える。
 だからこそ夜中の三時に「人を殺した」と電話がかかってきたときは特に驚かなかった。なにもこんな時間に殺さなくてもいいではないかと、寝ぼけた頭で思った程度だ。

「よっ、おはよう」

 明け方も近い時間に、真っ赤なスポーツカーという目立つ車で自宅にやって来た人殺しは、人を殺した直後とは思えない爽やかな笑顔で片手をあげた。
 簡単に着替えただけの景幸は、寝癖を気にしながら車に近づく。後部座席の足元には男性らしき影が適当に放り捨てられている。暗くてよく見えないが、千歳が言うから間違いなく死体なのだろう。

「で、なんで殺したわけ?」
「俺を女だと思ってナンパしてきたから」
「それなら殺されてもしょうがないね」

 適当に返事する声にあくびが混じってしまう。
 大学に進学したばかりなのに、そんな仕様もない理由で人殺しになるなんてこいつはアホだ。景幸がいないときはあれほど喧嘩するなと言っていたのに、人の言うことに従わないからこんなことになるのだ。

「てかよく千歳が勝てたね。どうやって殺したわけ?」
「酒飲んでふらついてたから、暗闇で後ろから襲いかかった。まず鉄パイプで足を折って、それから頭を何回か殴って、念のため喉も裂いといた。実家近くのクソ田舎でやったから誰にも見られてないし、防犯カメラもないはず」
「やだ、知能犯じゃ~ん」
「景幸が頭使って喧嘩しろっていつも言ってるからな。絶対負けねえ方法を普段から考えてたんだよ」

 これは喧嘩の方法じゃなく、人殺しの方法だと呆れる。
 千歳は腰に手をあてて誉めろとばかりに顎を持ち上げた。だがさすがに自分の行いの不味さを理解しているのか、憔悴しているようにも見える。
 「はいはい、千歳くんはお利口だねえ」と適当に誉めつつ、助手席に乗り込む。それからスマホをいじりつつ、早く乗れと千歳を促した。

「とりあえずこの死体は今すぐ処理しよう。犯罪に巻き込まれたと思われないよう、家族や友人を調べあげて対策しなきゃだし、事情は隠して何人か口が固い奴集めようか。それから現場の証拠と凶器消して、念のためお前のアリバイも作んなきゃね。映像とかあるといいけど、確かよっしーの知り合いにそういうのが得意な奴がいたはずだよ」
「俺のこと助けてくれるのか?」
「刑務所まで会いに行くのも面倒だしね」

 そう言って笑えば、千歳は気恥ずかしそうに歯を剥いて笑う。
 子供みたいに無邪気な顔だ。この笑い方の時だけ見える八重歯が、幼さと悪魔っぽさを際立てていて好きだった。

「それで死体はどうするつもりだったの?」
「隣町に良い感じの山があるんだよ! 俺と景幸の分のスコップも用意してある!」
「俺のこと巻き込む気満々だったんじゃん……」
「お前と出会った年の夏にはもう用意してたんだ。いつか景幸と、死体を埋めたいなと思ってたから」

 ハンドルに頭を置き、夢見心地の顔で言われる。
 出会った年の夏とは、四年も前のことではないか。その時からお前は誰かを殺すつもりでいたのか。まさか、本当は誰か殺したい奴が別にいて、これは予行練習とか、そういうことではあるまい。
 咄嗟に言葉が出てこずに固まる。千歳と絡み合う視線がいやに重かった。

「……夢が叶ってよかったね」

 なんとかそれだけ言えば、千歳はまたニカリと笑った。だがなにも言ってくれないせいで、考えていることは全くわからない。



 ようやく掘り終えた穴へ、無造作に千歳の死体を放り捨てる。あんなに軽かった千歳が、死んだあとはいやに重くなった。
 親友の上に土を被せながら、自分達はどこで間違えてしまったのだろうかと考える。
 千歳の過去を聞き、千歳の変化を止めていれば、こんなことにはならなかったのではないか。
 そう思う反面、どんな風に過去を変えてもこの結末に辿り着くだろうという予感もあった。
 千歳が蘇芳 千歳という存在である限り、破滅は防ぎようがないのだ。



 大学二年生の冬くらいから、千歳の様子がおかしくなり始めた。
 景幸と千歳は、同じ大学の同じ学部に通っていた。千歳が一緒が良いとわがままを言ったのだ。だから仕方なく景幸は大学のレベルを落とした。千歳の寵愛を受ける自分には、彼の可愛いわがままくらいきいてやる義務があると思っていたのだ。
 千歳は大学に入っても、新しい交遊関係を作ることを嫌がった。
 話しかけられてもぞんざいな態度をとるし、わざと嫌われる言動をとることすらあった。
 だが景幸は社交的な方だし、千歳以外にも交遊関係がある。むしろいつか千歳の役に立てばと、率先していろんな人間と関わりを持つ努力をした。
 高校の時は、景幸に千歳以外の友達がいても千歳はなにも言わなかった。景幸の友達数人と遊びに行くときだって、景幸以外とほとんど喋ることはなくとも、その行動を制限することはしなかったのだ。

「俺以外の奴と出かけるな」

 景幸の家へ遊び来ていた千歳が突然言った。彼の手元に握られているスマホは、紛れもなく景幸のものだ。その連絡先という連絡先、SNSというSNSが消されていく。

「わかった」

 ベッドに寝転がって本を読んでいた景幸は短く答える。起き上がると、近くで膝を抱えていた千歳を見下ろす。だが千歳は一切顔もあげず、念入りに自分以外との交流を切ろうとスマホを操作していた。

「彼女とも別れてほしいし、大学でも俺以外とは喋らないでほしい。話しかけられても無視しろ」
「バイトは?」
「俺が毎月金を渡す。だから働かなくていい」

 それではヒモではないか。千歳は自分をどうしたいというのか。
 答えはわからなかったが、「わかった」と言った。
 なのに千歳は、苛立たしげにスマホを投げる。勢いに乗ったスマホは壁にぶつかり、大きな音をたてた。防音のしっかりした部屋だが、隣の住民からうるさいと言われたどうしよう。

「なんでお前はいつもわかったとしか言わねえんだよ! ただの友達でしかない俺のわがままで彼女も友達も捨てて、挙げ句に死体捨てるのも黙って付き合ってくれるなんて変だろう! 頭おかしいんじゃねえの、お前!」
「おかしくないよ、千歳。それでお前と一緒にいられるなら俺はどんな努力もする」
「それがおかしいって言ってんだよ! だって、景幸は俺なんかよりずっとまともで、ちゃんとした人間なのにっ、俺のせいで人生壊れるなんておかしいだろう!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ千歳を、どうなだめたらいいか悩む。
 こんな千歳は始めて見た。軽快に笑いながら人の道を踏み外していくのがいつもの千歳だ。己の行いを悔やみ、景幸の心配をするなんて彼らしくない。
 手当たり次第に近くのもの投げてくる千歳が、棚に並べていたCDにまで手を伸ばす。それに不味いと思った。いくらでも部屋をめちゃくちゃにされていいが、そこには大好きなバンドの限定CDも飾っているのだ。
 慌てて千歳に近づくと、CDを投げ掛けていた彼の手首を掴む。びくりと震える千歳の顔を覗き込んだ。不安に揺れる瞳が、間抜けに景幸を見つめ返してくる。

「まともな人間ならお前に近づかないし、こんなに仲良くもなったりしないよ」

 これは本心だ。
 まともな人間なら、千歳は観賞用として遠巻きに見るだけにとどめる。千歳の人となりを知ったうえで近づく物好きが少ないことは、四年間も側にいた自分がよくわかっていた。

「千歳は俺にどうして欲しいの? お前と居続けるためにはどうしたらいい?」

 千歳がぐっと眉間にシワを寄せた。大きな瞳が涙で潤んでいる。白い肌が赤く色づいていることも、薄い唇が細かく震えている様子も、まるで宗教画だ。前髪に隠れた美しい顔が、欲と羞恥によってどんな風に歪んでいるか、もっと深く覗き込みたかった。
 美しく、繊細で、苛烈な悪魔。
 その心のうちの柔らかい部分に、四年目にして立ち入ることを初めて許された。

「……高校入ってすぐ、お前を帰り道で見かけたんだ」

 話の前後は繋がっていないが、止めることはしなかった。
 それよりも握っている腕から力が抜けたことに安堵する。愛してやまないバンドのCDはなんとか守られた。

「道につっ立って、なにかをじっと見てた。最初はボロい雑巾かと思ったけど、車に轢かれた猫だった。お前は車に轢かれてすぐの、まだ息がある猫を、死ぬまでずっと、ただなにをするでもなく見てた……!」

 言われてみれば確かにそんなことがあった。あのとき近くに千歳がいるとは知らなかったから、それだけは驚きだ。
 あそこは元々交通量も人通りも少ない道なのだ。そこで偶然見かけた野良猫の死に際を、助けるでもなく見守った理由は、四年もたった今では思い出せない。

「そのときに思ったんだ。ああ、俺の最期はこいつに見届けてもらおうって」
「……うん、わかった」
「だから俺が死ぬまで、お前だけはずっと側にいろ! 俺がいつ死んでもいいように、四六時中一緒にいろ……!」

 あまりにもわがままなことを、千歳は子供みたいに泣きじゃくりながら言った。
 仕方がないなと思いつつ、「わかった」と繰り返して千歳の背中を撫でる。
 そのとき初めて、何故自分が人生を捧げるほど千歳を盲信しているか理解した。
 自分は、酒井 景幸は、蘇芳 千歳の最後を見届けたいのだ。
 美しく、繊細で、苛烈な悪魔の最期を。
 この男の破滅を見届けたいのだと、千歳の言葉によって理解させられる。
 ──見届けたい男と、見届けてほしい男。
 なるほど、自分達が親友と呼べる関係までに進展したことは必然と言えるだろう。



「いや、なにその不健康な関係」

 景幸の独白にドン引きした顔で言ったのは、親友の妹であり、それから景幸が親友を殺す決断をするきっかけになった女性だ。
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