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17 悪女による自己研鑽
しおりを挟む「あら、どうしたの、アレックス」
翌日。居室のソファでぐったりしているところへ、美しく着飾った叔母さまが部屋から降りてきた。
「――叔母さまこそ、アーロンとデート?」
「違うわ、仕事よ。新しいレストランの出資者と打ち合わせ」
革の手袋をぎゅっと嵌めて、スタイリッシュなライトグレーのツーピースに身を包んだ叔母さまは、私を見て首を傾げた。
「何を放心しているの? 昨日の恋愛レッスンはうまくいかなかった?」
「昨日……」
途端、エイデンさまとの口付けが脳裏に蘇る。
「あら、あらあらあら?」
叔母さまは慌てる私の顔を見て、何を思ったのかニヤリと笑った。
「なっ、なに……!?」
「いいえ? 嫌なことがあったんじゃないなら、私は何も言わないわ」
「いっ、嫌なことなんて! エイデンさまはそんなことする人じゃないわ!」
「そうみたいね」
クスクス笑う叔母さまに、これ以上何か言ってボロが出る前に、クッションを抱えて口元を覆った。
叔母さまはそんな私を見て「かわいいわねぇ」と、また笑う。
「ねえアレックス、あの恋愛小説は読んだの?」
「いいえ、まだ読んでないわ」
「今日は予定がないんでしょう? 読んでみたら勉強になるわよ、きっと」
「そう、ね……」
「じゃあ、行ってくるわね。遅くなるから、食事は好きに取ってちょうだい」
「分かったわ。行ってらっしゃい」
屋敷前に止まった馬車へ乗り込む叔母さまを見送って、はぁっとため息を吐き出す。
頭から追いやっていた昨日の出来事を叔母さまによって掘り起こされて、顔が熱い。慌てて居室に戻り、ソファに倒れ込んだ。
昨日、エイデンさまと出掛けた郊外で、私たちに起こった出来事。
あれは完全に、どうかしていたと思う。
(あんなふうに口付けをするなんて……!)
初めてだったのだ。
口付けがあんなに激しくて気持ちがいいなんて、知らなかった。ただ唇を合わせるだけだと思っていた!
気持ちよさに溺れて、何度も繰り返してしまった。恋多き悪女だからいいのだろうか。分からない。彼はこれもレッスンのひとつだと考えているのだろうか。
(エイデンさまは、もちろん初めてじゃないんだろうけど……)
彼だって大人の男性なのだ。いくら女性とうまくいったことはないと言っても、きっと女性経験くらいはあるだろう。
(私、おかしくなかったかしら……)
あまりにも終わらない口付けに、思わず彼の唇を両手で塞いで顔を背けた。
「エ、エイデンさま、もう……」
「――終わり?」
彼の低い声を聞いただけで、ぞくぞくと背中が痺れた。大きな掌が私の頬を撫でて、乱れた髪をそっと耳に掛けてくれる。
濡れた唇を親指が優しく拭い、けれど青い瞳のギラギラした輝きは収まるどころかますます強く光っていた。
「外、ですから」
「ああ……、そうだな。ここでは台無しだ」
(台無しって、何が……?)
私の額に柔らかく口付けを落として身体を起こした彼は、私をそっと起き上がらせてくれる。
「食事を楽しもうか」
「そっ、そうね」
(それどころではないんですけど……!?)
正直、何を食べたかなんて覚えていない。その後も、ちゃんと振舞えていた自信もない。
屋敷まで送り届けてもらい、馬車を降りるときに、エイデンさまはそっと手の甲に口付けを落とした。
「――次は、レストランを予約する」
「~~、楽しみに、してるわ」
私の答えを聞いた彼は嬉しそうに笑い、去っていった――。
(口付けなんて……)
恋愛指南に、そういう触れ合いも含まれているのだろうか。いや、結果含まれていたんだけれど。
エイデンさまは、好きでもない人と口付けができるの?
でも、それって私も……。
(私は、好きでもない人とあんなふうに口付けができるの……?)
そこまで考えて、かぁっと顔が熱くなった。
エイデンさまの振る舞いや人柄を、好ましいと思っていた。悪い人ではないし、怖くなんてない。みんな彼を知らないだけで、もっと知ったらきっと彼の良さを分かってくれる人が現れる。
今はまだ、私しか彼の素敵なところを知らないだけ、そう思っていた。
(――私、好きなんだわ)
エイデンさまが好き。
『指南することで、あなたも自分の恋愛の勉強になるんじゃない?』
勉強どころか、私は私の恋心に気が付いてしまった。
*
「ただいま……って、あれ? アレックス、どうしたの」
「――お帰りなさい、アーロン」
居室であのまま考え込み、けれど何も答えが出ないの私は、ソファ横に置いて積んでいた恋愛小説に手を伸ばした。気を紛らそうと思ったのだ。
けれど、読み始めてすぐに私は撃沈した。そして立ち直れないまま、いつの間にか夕方を迎えている。
「今夜はビルギッタがいないだろう? 夕食どうする?」
「――外に、行きたいわ」
ちょっと、外の空気を吸いたい。混乱していて、自分の気持ちが全然追いつかない。
私の様子がおかしいことに気が付いた彼は、ソファの横に積まれた本を見て笑った。
「ああ、それを読んだんだね。どうだった?」
「どうって……!」
とんでもなく、――いやらしかった!
叔母さまは恋愛小説って言っていたけれど、中身は男女の閨事ばかり書かれた本だった。閨の本よりも具体的ですごかった! すごかった!
言葉を失いパクパク口を開け閉めする私を哀れに思ったのか、アーロンは笑いながら私に手を差し出した。
「よし、気分転換に食事に行こう。いい店を知ってるよ」
笑顔でそういうアーロンに、私はのろのろと手を差し出した。
*
「なるほどね。イーゼンブルグ卿もやるなぁ」
アーロンがおすすめだというレストランで個室に案内され、席に着いてすぐ、詳細は伏せつつも、先日の話をした。もちろん口付けのことは話していない。
用意された料理や見晴らしのいい丘の上でのデート、そして彼の甘い雰囲気と口説き文句。
それらを聞いたアーロンは、笑いながら私のグラスに赤ワインを注いだ。
「女性に慣れていないというよりは、そういう機会が少なくて、その後に続かないってだけなんだろうね」
「そうだと思うわ」
そもそも公爵家の嫡男なのだから、振る舞いがスマートなのは当然だと思う。いくつも功績を上げて騎士団長としても成功している彼に、気後れする人もいそう。
なんていうか、人間としての格が違うのだ。
「だからこそ、私と自然に振る舞う姿を周囲に見せて知ってもらうのが一番、だと思うのよね……」
「ふうん。アレックスはそれでいいの?」
「え?」
メイン料理を運んできた給仕にありがとう、と笑顔で声を掛けながら、アーロンは小さく首を傾げた。
「だって最近の君はとても楽しそうだよ? 領地にいた初恋の男のことなんて全然思い出さないだろう?」
「それは……」
自覚したばかりの恋心。
けれど私は、きっともっと前から、初めて会ったあの瞬間から、エイデンさまに心を奪われていたのかもしれない。
「でも私、田舎の男爵家の娘なのよ。家格が違い過ぎるし、そもそもエイデンさまは婚約者を探すために、私に恋愛指南を依頼してきたんだから」
「だったら君でいいじゃないか」
「いいわけないわ! 馬鹿なこと言わないで」
「そうかな? 君たちはとてもお似合いだと思うけどな」
アーロンは笑いながら、美しくナイフとフォークを切り分けて口へ運ぶ。
叔母さまが、彼も貴族の子息だと言っていたけれど詳細は知らない。なぜ貴族子息が舞台役者で、お金がないからと叔母さまに世話になっているのか。
そこには二人しか知らない物語がある。
「アーロンも、あの恋愛小説読む?」
「ええ? 僕が?」
私の言葉に彼は目を丸くした。
「だって叔母さまが読んでいたってことは、叔母さまの好きなことが読めば分かるかもしれないじゃない? 参考にどうかなって……」
アーロンは、まじまじと私の顔を見て、ふはっ、とおかしそうに笑った。
「アレックスは僕のことどう思ってる?」
「どうって……」
「異性として意識する?」
「全然」
「即答!」
確かに美しい顔をしているけれど、だからといって彼を異性として意識したことはない。
「どちらかと言うと弟か友人って感じよ」
「あは、だと思った!」
「?」
何が言いたいんだろう。
意図が分からなくて首を傾げてから、そういえば、あれは閨事メインの本だったことを思い出す。
男性に勧めるようなものではないのでは?
余計なお世話よね!?
「ご、ごめんなさい!」
「ふふ、いいんだよ。君がそういう人だから、僕もこうして砕けて話せるんだし」
アーロンは、ふっと優しく目を細めた。
「それにね、あれはビルギッタのものじゃないんだ」
「え?」
「あれは亡き夫君のものだよ。年の離れた彼女の心を掴みたい彼が、必死になって恋愛小説を読んで、若い女性の心を掴もうとした努力の片鱗。地位も名誉もある紳士が、それだけ必死になって彼女の心を手に入れようと努力したんだろうね」
年の離れた前侯爵、叔母さまの愛した人。
年が離れていたからこそ、不安や焦りがあったのかもしれない。
「アーロンは、叔母さまを愛しているの?」
つい口にしてしまってから、自分の配慮のなさに顔が熱くなった。
「ご、ごめんなさい、私、余計なこと……」
「あは、いいよいいよ、大丈夫」
アーロンはそう言って「そうだねぇ」と、瞳をくるりと天井へ向けた。
ずっと一緒にいるためか、二人は同じクセを持っている。そのことを本人たちは気付いているのだろうか。私から見た彼らこそ、本当にお似合いの二人だというのに。
「彼女に夢中になっているのは確かだよ。それは僕を援助してくれるからとか、そういう理由だけじゃない。でも愛しているかっていわれると……正直、分からないな」
「分からない?」
「うん。今は彼女に夢中だし、他の女性なんてどうでもいいけど、彼女は今でも夫君を愛している。いつか僕は彼女に捨てられるかもしれない。そのとき僕は取り乱すのかな。それともビルギッタが亡き夫君を思うように、彼女だけを愛して強く生きていくのかなって、考えるんだ」
叔母さまは初めから分かっていた。自分の愛した人が、自分を置いて行ってしまうことを。それでも一緒になることを選んで、そばにいたその決意を、きっと愛と呼ぶのだと思う。
「忘れた方が幸せなことがあるのを僕たちは知ってる。でも彼女はまだあの屋敷で、亡き夫君の気配を感じながら暮らしている。僕に、それができるかな」
最後の言葉は、私に聞かせているのではなく、独り言のように小さく室内に響いた。
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