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しおりを挟む「一週間どうでしたか?」
私の髪を梳きながら、ノラが鏡越しに笑顔を向けた。
ユーリによって毎日強制的に帰宅させられていた私は、時間がないことに焦り、かえって日中の人々の噂など構っていられないほど集中した。おかげで仕事はかなり捗ったし、噂に翻弄される暇もなく済んだのだけれど。
「……すっごく疲れたわ」
「あらあら」
ノラは朗らかに笑うと、香りのいい香油を髪に擦り込んでいく。
連日の残業で疲れ切った私を見たノラは、自ら世話を申し出てくれた。もちろん丁重にお断りをしたのだけれど、身支度を怠るのはだめだと有無を言わせぬ笑顔の圧力に負け、夜だけこうして風呂あがり後の髪の手入れや細かなケアをしてくれる。
正直、とても気持ちいいし、ありがたい。
そして毎日この屋敷でユーリと共に取る夕食もとても美味しくて、一人きりで取る、ただ空腹を満たすだけの食事よりも、ずっと心が穏やかになった。
人恋しいと思ったことはないけれど、もともと大家族出身の私は人がいることに抵抗がないのだと思う。
ユーリと向かい合い他愛もない会話をして、ノラやギルバート、通いで来ている料理人や使用人たちと話すのはとても楽しかった。
(ザックと付き合っていた時よりも、満たされている気がするわ)
ザックのことは好きだった。
情熱的に口説かれ、愛されて、私へ向けられる気持ちに答えたいと頑張った。彼に合わせ、彼の趣味に付き合い、なるべく一緒にいて彼を知ろうと努力した。
けれどいつからか、彼の私に対する気持ちを束縛や執着と感じるようになった。仕事のこと、一人でいたい休日、友人と一緒に行く食事。それらすべてを彼に管理され、嫉妬という名のついた彼の苛立ちに恐ろしさを感じるようになった。
(それを溺愛と呼んで喜ぶほど、私は彼に恋をしていなかったのね)
私は今、優しい人々、笑顔のユーリに見守られながら、このひと時を楽しんでいた。
「――そう言えば、ユーリはまだなのね」
いつものように二人で騎士団を出てお屋敷へ戻ると、ユーリはまだ業務があるからと、玄関先で私の額に口付けを落とした。
初めから言ってくれたら一人で帰ったと言うと、ユーリは首を横に振り「それはだめ」と強く念を押した。玄関で出迎えたノラでさえ「短い距離でも一人になってはいけない」と言う。
『明日は休みだし、一緒にデートしようよ』
だからなるべく早く帰るから、と笑いながら、彼は騎士団へ戻っていった。
「でもきっと、遅くてもお帰りになりますよ」
「どうして?」
「ふふっ、ユーリ様はアリサ様が来られてから、ちゃんと屋敷へお戻りになるようになったんです。それまでは、忙しくて遅い時間になると帰るのが面倒だからと、騎士団の仮眠室でお休みになっていたんですよ」
「そ、そうなの?」
ユーリが言っていた、健康的な生活。それはどうやら私の生活のことを指しているだけではなかったらしい。
(合同訓練で忙しいのね)
二週間の合同訓練を終えると、騎士団に併設された演武場でトーナメント戦が行われる。今回は王族の臨席も決まっていて、警備の確認にも余念がない。例年よりも業務が増え、騎士たちは連日忙しいのだ。
「それでも私を送迎してくれるなんて、申し訳ないわね」
そう零すと、ノラが「あらあら」と笑った。
「アリサ様が一人になる方が、ユーリ様は耐えられませんよ」
なんだかその含みのある言い方に居心地が悪くなる。
「あ、あのねノラ、聞いていると思うけれど、私とユーリはそういう関係では……」
「わかっています、形だけ、ですわね」
ノラは笑顔で頷くと、「それではおやすみなさい」と笑顔を深めて退室した。
(本当に分かっているのかしら……)
お屋敷では食事以外でユーリと会うことはほとんどないし、私たちのまるで友人のようなやり取りを見ているだろうから、わかっていると思うのだけれど。
マントルピースの上の置時計を見て、さっきから彼の帰宅時間を気にしている自分に気がつき、小さくため息を吐いた。
*
(――物音?)
ふと、ベッドで目が覚めた。
窓の外から扉の開く音、低い話声が聞こえる。
気になってベッドから降り窓の外を見ると、帰宅したユーリをギルバートが出迎えているところだった。時計を見ると深夜を回っている。
(こんな遅くまで仕事だなんて)
やがて、すぐに階段を上へ登っていく足音が聞こえた。
こんな時間に帰宅しても、朝は普通に起きてくるユーリが容易に想像できた。
明日は休みだから、出かけたりなどせずゆっくり休んだ方がいいに決まっている。
(明日のことは気にせず休んでって、言った方がいいわよね)
私は寝衣の上に厚手のガウンを羽織り、そっと部屋を出た。
暗い階段を上り廊下を進むと、明かりが漏れる部屋があった。確かあそこがユーリの部屋だ。
コンコン、と扉をノックすると、室内から物音がしてすぐに扉が開けられた。
「アリサ」
室内の明かりを背に立つ彼の顔は、疲労とは違う、何か、いつもとは違う雰囲気を纏っていた。
「ごめんなさい、こんな時間に。……おかえりなさい」
「ただいま。どうしたの、何かあった?」
心配そうに私の顔を見て、警戒するように素早く廊下を確認する。
「違うの、何もないわ。ただ、こんな時間に帰ってきたからちょっと心配になって」
言っていて、余計なお世話だったと後悔した。騎士は夜番や早番があるのが普通だ。もしかしたら日中に仮眠を取っていたかもしれないし、そういう調整を普段からしているのに。
「ごめんなさい、今のは余計なお世話だったわ」
「そんなことないよ、ありがとう」
やっぱり、なんだかいつもと様子が違う。なんだろう、いつもより早口かもしれない。
「あの、明日なんだけど、無理して出かける必要はないわ。あなたにも休息は必要でしょう? 私のことは気にせず……」
「一人で出かけるの?」
やや強めに言われたその言葉に少し驚いてその顔を見上げると、私の顔を見て何かを察したのか、ユーリは口元を片手で覆った。
「いや、大丈夫、俺が一緒に出掛けたいんだ。昼前くらいでいいかな」
「でも」
カタン、と階下で物音がして、思わずびくりと肩を揺らしユーリに身を寄せる。
ギルバートだろうか、じっと耳を澄ませているとどこかの扉が閉じる音がして、また静かになった。
「……あ、ごめんなさい、驚いてしまって」
ユーリに身を寄せてしまったのを身体を離して謝ると、そのまま逞しい腕が私の腰に回され、室内に引き込まれた。
「……⁉」
背後で扉が閉まる音を聞き、そのまま扉に押し付けられる。隊服を着たままのユーリは寝衣の私をぎゅうっと抱きしめ、肩口に顔を埋めた。
首筋に彼の熱い息がかかる。
「あ、あのっ⁉」
「……アリサ」
唇がちゅっと首に触れ、高い鼻先がつうっと首筋をなぞった。そのまま彼の唇が私の顎を、頬を食む。
「ゆ、ユーリ!」
彼の胸を押し返してもびくともしない。がっしりと抱きしめられ、腰に回っていた掌が弄るように腰や背中を撫でた。頬を食むように唇を寄せ、耳朶に舌を這わせた彼の荒い呼吸、熱い息。
(これは……)
覚えがある。
時々ザックもこんな風になることがあった。
騎士としての業務は、王城周りの警備や市内の警邏だけではない。時に誰かと剣を交え戦い、命の駆け引きをするのだ。
そしてその熱と昂ぶりを抱えた彼らは、恋人や妻のもとへ、中には娼館へ足を運ぶ者もいる。
そんな時ザックはたとえ何時だろうと私を呼び出し、朝まで離さなかった。
「……娼館には行かなかったの?」
私の首筋に唇を寄せる彼へそう声をかけると、ぴたりと動きが止まった。
そして我に返ったのか、彼はガバッと私の肩を掴み身体を離した。
「ごっ、ごめん……!」
狼狽し顔を真っ赤にした彼はそう言うと、さっと両手を上げた。
「変なことはしないって言ったのに、俺!」
「待って」
くるりと背を向けた彼の腕を掴むと、ユーリはその手を掴みもう一度私を扉に押し付けた。
「アリサ、頼む……、今日はだめだ。俺に、近づかないで」
私を押さえつけながらそんなことを苦しそうに言う彼の顔は真っ赤で、熱い息を繰り返し吐き出す。
きっと、恋人がいるからと娼館へ行かずに帰宅したのだろう。
「ユーリ、こっちを見て」
私を押さえつけたまま俯く彼に、そっと声をかける。
目許を赤く染めた彼は、視線を上げて私を見た。いつもの穏やかな瞳とは違い、その青い瞳には強い欲望が渦巻いている。
手首を扉に押さえつけられたまま、私は身体を前に倒しユーリの唇に噛みついた。びくりと大きく彼の身体が揺れる。
互いに瞬きもせず見つめ合いながら、もう一度彼の唇に口付けをしようとすると、今度は彼が私の唇に噛みついた。
手首を押さえていた手はすぐに腰に回され、ぎゅうっと抱きしめられる。背の高い彼の首に腕を回して、見た目よりもずっと逞しいその身体にしがみ付き、深く、深く口付けをした。
どちらともなく舌を絡め、角度を変えて唇を合わせ貪り合う。
腰に回していた腕が私の身体を持ち上げるように抱き上げ、激しく口付けを交わしながらベッドへと移動した。
どさりとベッドに横たえられ見上げるユーリの表情が、一瞬だけ苦しそうに顰められる。
それは、後悔のような、懺悔のような表情で。
(そんな顔をしなくてもいいのに)
これは私が望んでいることなのだから。
彼に手を伸ばし、私はふっと笑って見せた。
「ユーリ」
そう名を呼べば、彼は目を細め、私に覆いかぶさった。
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