溺愛恋愛お断り〜秘密の騎士は生真面目事務官を落としたい〜

かほなみり

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 ――ユーリが噂通り庶子だとして。

(でも、だからって何も変わらないのよね)

 彼はあのお屋敷に住んでいて、私はそこでお世話になっている。彼が何者であるか、それは重要ではない。
 一緒に過ごして、会話を重ねた中で、彼がどんな人なのか私は知っている。噂はやっぱり噂だけでしかないし、真実は本人に聞かないとわからない。

(そう、本人に聞けばいいだけなのよね)

 また食事の時に聞いてみたらいいだけ。私は何を怖がっているんだろう。

「どうかした?」

 考え事をして歩いていると、並んで横を歩くレジーナに話しかけられた。慌てて顔を上げると、いつの間にかお屋敷に到着している。

「あ、いいえ、なんでもないわ。ちょっと考え事をしていて」
「そう。では、明日は約束通りあのパン屋に寄っていこう」
「そうね! ありがとうレジーナ」
「いえ。見送りはいいから、ここで」
「ええ。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」

 玄関の呼び鈴を鳴らすとすぐに扉が開かれ、ギルバートが出迎えてくれる。振り返ると、レジーナはずっとそこに立ったまま、私が屋敷に入るのを見守っていた。

「……ねえ、ノラ」
「なんです?」

 夕食を終えお風呂を今日もいただいて、鏡の前でノラが私の髪を丁寧に拭き香油をしっかりと馴染ませてくれる。この時間は本当に、幸せで贅沢だと思う。

「ユーリは貴族なの?」
「あらあら、なぜそう思うのですか?」

 笑顔を崩さず、ノラは鏡越しに私を見た。

「あなたやギルバートがいるから」
「まあ! ふふ、私たちの評価が高いのですね。光栄ですわ」

 ノラはニコニコと笑いながらクリームを私の手や首に擦り込み、マッサージをする。いつもこれが気持ちよくて、つい眠ってしまう。
 
「……でもそれは、問題ではないの」
「まあ、何か問題が?」
「いいえ、何も問題はないの。彼が誰だろうとそんなことは些末なことだわ。ただ……」

 ここ最近ずっと心に引っかかっている何か。このスッキリしない気持ちはなんだろう。

「ただ?」

 ノラの丁寧な手技に段々思考が回らなくなる。
 違う、逆に思考が単純になっていくのかもしれない。隠れている何かが、現れる。

「――ただ、今の状況が不安定で心許ないの」

 ユーリとの関係もここでお世話になっていることも、すべて一時の夢のように儚く感じてしまう。

(朝目覚めたら、全て消えてしまいそうな)

 私はそれが不安なのだ。
 ユーリが消えてしまうような気がして、彼がいないと不安に思ってしまう。

(そうか、私、ユーリがいなくなってしまいそうで不安なんだわ……)

 ふわふわとした気持ちのまま、ぼんやりと鏡の前に置かれた小さなオルゴールに視線を向ける。

『好きなものやお気に入りのものを置いて、帰った時にホッとできる部屋にしたらいいんだよ』

 二人で出かけた時に見つけた、小さなオルゴール。
 青いガラスで作られたそれは美しいモザイク柄で、細工がとても凝っている。金色の縁取りがされた蓋を開けると優しい音楽が流れる。この部屋にある、私のお気に入り。
 彼が何者かわからないことは不安ではない。お母様が女優であろうと、貴族の庶子であろうと、私には関係のないことだ。
 ただ、いつの間にかいなくなってしまいそうな、そんな心許なさが私を不安にする。
 
「明日はドレスが届きますわね」
「ドレス?」
「ユーリ様とお出掛けになった際、お二人で選んだドレスですわ。お直しが終わったそうですよ」
 
 ノラがゆったりとした口調で優しく話すのをぼんやりと聞く。

「……ユーリに見せられるかしら」
「あら、きっと楽しみにされていますよ。私が気合いを入れて美しく磨かせていただきますわね」

 ノラはまた嬉しそうに、鏡の中でにっこりと微笑んだ。

 *

(……誰かいる)

 ベッドの上で、自然に目が覚めた。明かりを落とした暗い室内で、驚くほど頭が冴えている。なんだか変な胸騒ぎがした。

(何かしら)

 横たわったまま視線だけを入り口に向けると、扉の前に誰かがいるような気配を感じた。静かにベッドから降り、近くに置いていた厚手のガウンを身に纏う。音を立てないように裸足のまま扉に近づき、そっと廊下の様子を窺うと、話し声が聞こえてきた。
 低い声と、もう一人はノラの声。ギルバートもいる。

(何かあったのかしら)
 
 ドアノブにそっと手をかけ静かに扉を開けると、廊下で明かりを持った人物が驚いてこちらを振り返った。

「アリサ」
「ユーリ?」
 
 ユーリは私の姿を見て驚くと、手にしていたランタンをノラに渡して私の手を取り室内に入った。フードを被り口許まで覆う黒い外套を着ている彼は、暗い室内ではまるで闇に溶けているようだ。

「ごめん、起こしちゃったかな」

 ユーリはそう言うと、そっと私の手を包み込む。黒い革の手袋は、外気に触れていたのかひんやりと冷たい。
 
「どうしたの? 何かあった?」

 いつも通りを装っているのだろうけれど、今夜もあの夜のように雰囲気が違う。ピリピリと周囲に神経を張り巡らせているのが伝わってくる。

「いや、うん……、そうだね、ちゃんと説明したいんだけど、何から話していいのか」

 ユーリはそう言うと視線を足元に落とした。長いまつげが瞳を隠すのをじっと見つめていると、ふっとその瞳が私を見た。強い瞳が探るように私を見る。

「――私はいつでもいいわ」
「え?」
「あなたが話したくなった時でいいわ。話せないなら話さなくていいし」
「……アリサ」
「ユーリがちゃんと戻ってくるなら、それで大丈夫よ」
「戻ってくるよ」

 大きな手が私を引き寄せ、その腕の中に抱きしめられる。私の首に顔を埋めたユーリのくぐもった声が耳元で響いて、そのくすぐったさと愛おしさに、彼の背中に手を回してぎゅっと抱きしめ返した。

「俺は、君がいてくれるからここに戻ってくるんだ。だから、いてほしい」
「――わかった。約束するわ」
「それから……、ちゃんと聞いてほしいから」
「それはあなたのこと?」

 ユーリの胸の音が聞こえる。
 匂いも腕の中の温もりも、手離したくないと強く思う。

「そう、俺のこと」
「約束よ。ちゃんと聞かせてね」
「うん、約束する」

 私の言葉にユーリはふふ、と小さく笑うと顔を上げ、額に口付けを落とした。

「――エヴァレット様」

 扉の向こうから知らない声がした。彼は小さく息を吐き出すと「今行く」と低く返事をする。

(エヴァレット……ミドルネームだわ)

 でもなんだか、どこかでこんなふうに呼ばれるのを聞いたことがある。いつだろう。どこで?
 ユーリの胸に抱かれたまま記憶を探ろうとすると、彼は私の腰の下に腕を回し高く持ち上げた。

「!」
「裸足だと冷えるよ」

 慌てて彼の肩にしがみつくとユーリは嬉しそうに声を殺して笑い、私をベッドまで運んで恭しく降ろした。

「もう出なくちゃいけないから、明日もレジーナと一緒にいてね」
「ええ。明日はあなたが教えてくれたパン屋へ寄ってから行く約束をしているの」
「え、いいなぁ! 俺も行きたかった」
「今度一緒に行きましょう」
「うん、一緒に行こう」

 そう言うと、彼はくしゃりと少年のように笑った。

「その時は俺のおすすめも教えるよ」
「楽しみにしてるわ」
「ん。それじゃあおやすみ、アリサ」
「おやすみなさい」

 額に口付けかと思いそっと視線を伏せると、それは柔らかく唇に触れすぐに離れた。
 驚いて彼を見ると、青い瞳は私を捉えたまま、ふわりと唇に触れる。今度は柔らかく合わせたまま、小さく食み角度を変え、その甘さにそっと瞳を閉じ応えると、隙間から熱い舌が侵入した。
 
「……っ、ん」

 口内を堪能するように舌が這い回り、舌先を痺れるほど擦り合わせてやっと解放されると、唇を銀色の糸が繋ぐ。はあっと互いの熱い息が唇にかかり、こつん、と額を合わせた。

「ちゃんと眠って」
「……っ、眠れるわけないわ」
「あは、ごめん。俺もだ」

 ユーリはそう言って小さく笑うと、もう一度ちゅっと音を立てて唇に口付けを落とし、「おやすみ」と優しく囁いて静かに部屋を出て行った。
 扉が開いて見えた廊下の壁には、同じ外套をまとったであろう人物の影が明かりに照らされ、揺れていた。
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