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草原と森と私
しおりを挟む「わっ」
何かに腕をひかれたようだった。
ちょうど腰を屈めて、前のめりの体勢だったので、ぐらりと身体が傾く。
「んぐっ」
コンクリートの固い感触を覚悟し、ぎゅっと目を閉じて衝撃に備えたマコが、頭から倒れ込んだのは、なぜかやや柔らかい感触の上だった。
「うん...~ったぁ...」
思い切りぶつけた側頭部と膝をさすりながら身を起こすと、ムワッとした気温。
青臭さが鼻をつく。そして、虫の声。
「え?」
(なにこれ、草?)
あたりは真っ暗――ということななく、やけに明るい。
見える範囲は全て、足首ほどまで伸びた草原そしてマコの背景には影の濃い森。
夜空に煌々と輝く満月から少しだけ痩せた月が、柔らかな光で大地を照らしていた。
その明るさは、先ほどみたきらきらとした駅前のイルミネーションとはまったく違うものであった。
「え?ええ?あ、あれ?え?」
夜なのに、影ができている。月明かり以外、大きな光源が見あたらないからだろう。
空には白い雲すら見える。
あまりの驚きにアルコールで鈍っていた思考も、僅かに元に戻りつつあった。
「ここ、どこ...?」
自分は、先ほどまで駅前に吉岡といた筈だ。
吉岡がなにか言いかけ、それを遮らればと、咄嗟に視界に入った猫のしっぽに釣られたフリをし――
――それから?
何かに腕をひかれ、倒れ込んだのは、路地裏のコンクリートの上、ーーである筈なのだ。
こんな草だらけの場所は、駅前にはなかったはずだ。
間違っても駅前緑地計画などではないだろう。
あの時――と、混乱に陥った脳内を鎮めようと、マコは考えを整理する。
吉岡は、あのタイミングで告白をしようとしていたように思えた。まさかと言う思いもあったし、嬉しくなかったとは言わないが、あの状態では聞きたくなかったのだ。
入社当初から、ほんのりとマコの自覚なく芽生えた恋心は、日々の業務の中で少しづつ膨らみ、それに気がついたのが『恩人の娘』の入社してくる直前。
しかし、あれよあれよという間にその想いと吉岡の間にはち切れんばかりのむちむちのボディをねじ込ませ、マコに頭痛と胃痛を押し付けた『恩人の娘』は、あっさりとその恋心をかき乱し、霧散させた。
『恩人の娘』の与えるストレスと、そのやらかしへのフォローの為の多忙――残業含む――で、あっさりと。
なんだ、そこまで好きじゃなかったんだなと妙に納得し、傍若無人に振る舞う女へ、はっきりとした拒絶の態度を取らない吉岡に八つ当たり交じりの苛立ちを感じさえいた。
こんな中での、あのタイミング。
無理だ。
そう判断しての先ほどの行動だった。
に、しても。
「ここ、どこよ?」
改めてあたりを見回す。
街灯の一つもない。
視界にあるものは、森、草原、月、夜空のみ。
「ええ~~…?なに?ほんと…めっちゃ田舎…とか?」
一歩、二歩と歩みを進めるが、華奢なパンプスのヒールがでこぼことした地面に埋まり、満足に歩くのも一苦労だ。
それでもマコは、現状を把握するため、おぼつかない足取りで歩き出した。
―――腕時計の針は、歩き出してから三時間ほど時を刻んでいた。
午前四時をとうに過ぎている。
月は中天にかかったまま、動いていないように思えた。
着ていたジャケットの上着とコートは、冬とは思えない気温と、歩いたせいで汗だくになったので脱いでウエストに巻き付けた。
ひざ丈のスカートから延びるストッキングは、あちこちを草にひっかけてみるも無残な伝線だらけ。冬のボーナスで買った、先週下ろしたばかりのパンプスは、傷だらけの泥だらけ――。
財布や携帯を入れていたバッグは、歩き出す前にあたりを探したが、見つからなかった。
歩き出したころより、更にヨロヨロと一歩一歩、歩く。
何度か転んで、パールホワイトのシャツもドロドロだ。
「…もうむり…歩けない…足いたい…うちに帰りたい…」
マコは半泣きになって呻いていた。
たいした距離は歩いていないだろうが、とにかく足場が悪い。
舗装されていない、道ですらない場所を歩くことなど、皆無といっていいマコの体力は、三時間で底をついていた。
「もう、いやぁ...」
ついにマコは完全に足を止めた。
もとより、何か目標に向かって歩いていたわけではない。
見知らぬ場所を、あてもなく歩くというのは、意外なほどに精神をすり減らすようだ。
へなへなと地面に座り込んだ。
ちょうど、ひと抱えほどある岩と岩が作り出したくぼみに、這うように入り込む。
一度座り込んでしまうと、もう一度立って進もうということが、途方もなく難しいことのように感じる。
膝を抱えその上に顔を乗せて身体を丸めると、少しだけ気持ちが落ち着く。
「もうわかんないし...もうやだ...」
鼻を啜り、ぐりぐりと額や頬を膝に擦り付ける。
本当に訳がわからなかった。
ここはどこなのか。
駅前にいたはずの吉岡はどこに行ったのか。
誰かに、人に会えるのか。
「...おかーさん...おとーさん...」
ぐるぐると回る思考を巡らせていると、徐々に瞼が重くなってきた。
ぬるい夜風をわずかに感じながら、マコの意識は闇に落ちて行った。
傍に広がる森の梢が、ざわりと鳴った。
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