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1話
記憶喪失と決断<7>
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最後に一目だけ希美の顔が見たくて、病棟に行った。
廊下から希美の入院している部屋を見ると、律子さんの姿はないようだった。
ナースステーション脇の小部屋に白衣がかかっているのが目に留まった。幸いナースステーションにも、小部屋にも人はいない。
僕は関係者のような顔をして、小部屋に入り、白衣を拝借した。
ワイシャツとスラックスの上に白衣を着て、姿見を見る。なんとか医師に見える。
希美の入院中に二度顔を合わせていたが、希美は僕のことを看護師だと誤解していたから、今回も誤魔化せるだろう。
僕は思い切って、白衣姿で希美の病室に入った。
希美の病室は四人部屋で、今、入院しているのは希美だけだった。
窓際の希美のベッドまで行き、「倉田さん、おかげんはどうですか?」と、僕は医師らしい態度で聞いた。
険しい表情でスマホを見ていた希美が視線をこちらに向ける。
知らない人を見るような目だった。
「あ、えっと、大丈夫です」
希美はやっぱり僕の顔を忘れたままだ。
「頭痛などはしませんか?」
「はい。全く」
「ご主人のことは思い出せそうですか?」
希美が頭を左右に振る。
「顔を見れば思い出せると思って、姉に届けてもらった私のスマホで主人の写真を探したんですけど、それらしい人が全く映っていなくて」
それで希美は険しい表情でスマホを見ていたのか。
「私、夫の写真を撮らなかったようです。仲が良くなかったのかしら」
希美が不安そうな顔をする。
「正直、夫に会うのが怖いです。知らない人といきなり一緒に生活するなんて……」
希美の認識を聞いて、少しだけ凹むが、希美の前から消える選択をしたのは間違っていなかったようだ。
「大丈夫ですよ」
希美の心の負担を少しでも軽くしてあげたくて声をかけた。
「大丈夫ですかね」
「はい」
希美が帰る家にはもう僕の痕跡は残っていないから大丈夫だよ。
そう心の中で希美に言った。
「先生、無責任ですね。そんなこと言って」
希美がクスッと笑う。
久しぶりに見た希美の笑顔に頬が緩む。
「たいていのことは、意外と大丈夫なものですから」
「確かに。階段から落ちても私、生きていたし。でも、なんで駅の階段から落ちたんだろう」
「覚えてないんですか?」
希美がコクリと頷く。
「気づいたら病院で。なんで私、こんな所にいるんだろうって思って……」
希美がハッとしたような表情を浮かべる。
「先生、ICUにもいらっしゃいましたよね?」
ICUで僕と会ったことを覚えているとは思わなかった。あの時、希美は酷く混乱していたから、僕のことなんか忘れていると思った。
「ええ」
「私、先生に失礼なことを言いませんでしたか? なんか先生がすごく悲しそうな顔をしていたのは覚えているんです」
――誰ですか?
意識が戻ったばかりの希美にそう聞かれたことを思い出し、苦い思いが込みあがる。
「大丈夫ですよ。あの時はちょっと疲れていただけです」
「そうですか。お医者さんって、激務ですものね。先生もお大事にして下さい」
希美に優しい言葉をかけられて、じわっと目の奥が熱くなる。
「ありがとうございます。では、失礼します」
こみあげて来た感情を何とか胸の奥に押しとどめ、僕は精一杯のポーカーフェイスを作って、病室を後にした。
もう僕は希美に会うことはないだろう。
さよなら、希美。
最後に話せて嬉しかった。
拝借した白衣を戻し、僕は涙を堪えながら、病棟を出た。
廊下から希美の入院している部屋を見ると、律子さんの姿はないようだった。
ナースステーション脇の小部屋に白衣がかかっているのが目に留まった。幸いナースステーションにも、小部屋にも人はいない。
僕は関係者のような顔をして、小部屋に入り、白衣を拝借した。
ワイシャツとスラックスの上に白衣を着て、姿見を見る。なんとか医師に見える。
希美の入院中に二度顔を合わせていたが、希美は僕のことを看護師だと誤解していたから、今回も誤魔化せるだろう。
僕は思い切って、白衣姿で希美の病室に入った。
希美の病室は四人部屋で、今、入院しているのは希美だけだった。
窓際の希美のベッドまで行き、「倉田さん、おかげんはどうですか?」と、僕は医師らしい態度で聞いた。
険しい表情でスマホを見ていた希美が視線をこちらに向ける。
知らない人を見るような目だった。
「あ、えっと、大丈夫です」
希美はやっぱり僕の顔を忘れたままだ。
「頭痛などはしませんか?」
「はい。全く」
「ご主人のことは思い出せそうですか?」
希美が頭を左右に振る。
「顔を見れば思い出せると思って、姉に届けてもらった私のスマホで主人の写真を探したんですけど、それらしい人が全く映っていなくて」
それで希美は険しい表情でスマホを見ていたのか。
「私、夫の写真を撮らなかったようです。仲が良くなかったのかしら」
希美が不安そうな顔をする。
「正直、夫に会うのが怖いです。知らない人といきなり一緒に生活するなんて……」
希美の認識を聞いて、少しだけ凹むが、希美の前から消える選択をしたのは間違っていなかったようだ。
「大丈夫ですよ」
希美の心の負担を少しでも軽くしてあげたくて声をかけた。
「大丈夫ですかね」
「はい」
希美が帰る家にはもう僕の痕跡は残っていないから大丈夫だよ。
そう心の中で希美に言った。
「先生、無責任ですね。そんなこと言って」
希美がクスッと笑う。
久しぶりに見た希美の笑顔に頬が緩む。
「たいていのことは、意外と大丈夫なものですから」
「確かに。階段から落ちても私、生きていたし。でも、なんで駅の階段から落ちたんだろう」
「覚えてないんですか?」
希美がコクリと頷く。
「気づいたら病院で。なんで私、こんな所にいるんだろうって思って……」
希美がハッとしたような表情を浮かべる。
「先生、ICUにもいらっしゃいましたよね?」
ICUで僕と会ったことを覚えているとは思わなかった。あの時、希美は酷く混乱していたから、僕のことなんか忘れていると思った。
「ええ」
「私、先生に失礼なことを言いませんでしたか? なんか先生がすごく悲しそうな顔をしていたのは覚えているんです」
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「大丈夫ですよ。あの時はちょっと疲れていただけです」
「そうですか。お医者さんって、激務ですものね。先生もお大事にして下さい」
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「ありがとうございます。では、失礼します」
こみあげて来た感情を何とか胸の奥に押しとどめ、僕は精一杯のポーカーフェイスを作って、病室を後にした。
もう僕は希美に会うことはないだろう。
さよなら、希美。
最後に話せて嬉しかった。
拝借した白衣を戻し、僕は涙を堪えながら、病棟を出た。
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