【完結】ずっと一緒だった宰相閣下に、純潔より大事なものを持っていかれそうです

雪野原よる

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番外

絶対安全宰相椅子(安全とは)

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「陛下、おめでとうございます」
「おめでとうございます!」

 明るい陽光に溶けて、淡い花びらが舞っている。

 喝采の声が耳をつんざく。陽光に負けないぐらい明るい人々の顔が見える。花を撒く使用人たちと、手を振る客人たち、豪華な衣裳を纏った廷臣たち。

(……あの日も、こんなだったかしら)

 ゆっくりと足を踏み出しながら、私は即位十周年の日を思い出そうとした。あの日もよく晴れていて、沢山の花びらが降り注いでいて、そして、めでたくも宰相が私の椅子となった、というか、なりおおせた日でもあって……ああ。これ以上思い出すのは止めよう。

 今日は、絵に描いたような結婚式日和だ。







 当事者である私の気分はまあ……かなり落ち着いているのだけれど、慶事というのは良いものだと思う。

 人々が活気に満ちているのは良いことだ。城全体が浮足立っているようで、興奮した笑い声があちこちに渦巻き、パタパタと絶え間ない足音が響く。食欲をそそるご馳走の香りが漂ってきて、それを圧倒するほど強烈なお酒の匂いが流れる。

(……誰かが樽を倒して、城の地下を水没でもさせたのかしら?)

「……酒蔵庫に何かあったの?」

 私の前に膝をついて、ドレスの紐を結んでいる侍女の頭の天辺に向かって問い掛ける。

「葡萄酒を積載した荷車が一台、城の前で横倒しになる事件がありまして」
「それは大変ね」
「さらに一台、行方不明になっている荷車もございます。城下には酔っ払いが溢れているという報告が」

 表情も変えずにボソボソと話す、特に特徴のない地味な彼女は、かつてユリウスの謀反を報告してきたこともある密偵兼侍女だ。あれから、ユリウスについて不穏な報告が上がってきたことはないけれど、

「……最近、宰相はどうかしら? 何か怪しい動きはない?」

 こっそり、小声で訊いてみた。

 ちょっとした悪戯心だ。彼が謀叛を企むはずもないことは、他でもない私が一番よく知っている。しかも、この挙式の日に、ものすごい醜聞の種を持ってきたりしたら吃驚だ。だから、半ば冗談のつもりで問い掛けてみたのだけれど、

「結婚を前に、不貞を働かれたとの噂がございます」
「ん?」
「妙齢の女性と二人きりで、長時間私室に篭って過ごされたとか」
「んんん?」

 何かが喉に詰まったような声を出してしまった。

 何事?

(何をやってるの、ユリウス?)

 ちょうどその時、紐がくいっと引かれて、最後の結び目が作られた。気を逸らしていた私は不意を突かれて、小さく「うぐっ」という息を洩らしてしまった。

「それはまあ……驚いたわね」
「お相手は、豪華な夜会用のドレスを着用し、高く結い上げた髪に鳥籠を乗せておられたとか。本物の鳥入りで」
「豪華なドレス、鳥籠………………なるほど、そうなのね。分かったわ」

 一気に気が抜けた。疑いようもなくあの人だ。

 それからは、黙って着付けが終わるのを待って、全ての侍女たちを下がらせた。着付けも化粧も一流の腕前が揃っているだけあって、文句の付けようがない、完璧な仕上がりだ。

 女性は結婚衣裳に思い入れを持つ、というのが定説のようだけれど、鏡台に向き合う私の目は興奮の色も無く、ただただ凪いでいる。

(昔から、私にとってドレスは鎧のようなものだったし)

 浮き浮きしながら着飾るのを楽しむ、という経験が私には無い。まして、伝統的に女王の挙式衣裳は定められていて、長く尾を引く白絹のドレスに、各地の領主たちの紋、象徴を刺繍や宝石で入れ込み、王家の石であるサファイヤを散りばめて仕上げるという……とても政治色の強いものだ。見た目の可愛らしさより、どこの領主からもクレームが来ないことだけを念頭に置いて作られている。

(いつもの三割増しぐらいの重さね)

 頭に乗せた宝冠に、ずっしりとした青い宝石が輝く。頭にのしかかるような感覚だけれど、これでも六歳の頃から、身の丈に合わない衣裳を引き摺るようにして生きてきたのだ。このぐらいで潰れたりはしない。

(……さて)

 私は息を吸い込んだ。

「ユリウス! いるんでしょう、ユリウス」
「お呼びですか、陛下」

 当然のように返事が返ってきた。

 私が着替えているとき、彼はいつもその場にいないが、呼べば声の届く範囲にいる。宰相のくせに、侍従や侍女のような距離感だ。

(まあ、それはユリウスだから……)

 そう考えてしまう私もかなり末期だと思うが、

「ユリウス。貴方、浮気したという噂が流れているわよ」

 私は敢えて難しい顔を作って、しかつめらしく言った。

「浮気?」

 大股で部屋に入ってきた宰相が、深く眉を顰める。彼もまた重厚な婚礼の衣裳に身を包んでいて、幾重にも重ねられた宝飾や貴金属が擦れ合う。その重たげでいかめしい様といったら、暗殺者がやってきても刃が通らず跳ね除けられそうだ。

「私が浮気と仰いましたか? 念の為にお尋ねしますが、陛下ではなく?」
「何故私が浮気するというの」
「他の椅子に座られたのでは?」
「そうね、浮気のハードルが低すぎるものね。疑おうと思えば、無限に疑えるのは面倒ね」

 私は冷ややかな流し目で彼を見た。

「それはそうと、貴方の浮気の相手はフレンジル王子だそうよ」
「なるほど。一昨日の夜、城をおとなわれた王子と通商路の問題について意見交換したのですが、それが妙な方向に膨らみましたか」
「紛らわしい格好をなさってるものね、あの方。中身はまともなのに」
「ともあれ、その噂はすぐに対処を致します」

 ユリウスが扉の外に向かい、呼び寄せた誰かとニ、三語言葉を交わした。ユリウスの大きな身体の陰から、深々と礼をして去っていく彼の部下がちらりと見えた。

 私は何気なくその姿を視界の隅に捉えて、

「……あら?」

 緩く首を捻った。

 灰色の頭髪。やや背中を丸くした老齢の男だ。その姿に、不思議と見覚えがある気がする。

(どこで見たのかしら)

「ユリウス、今のは貴方の部下よね?」
「は。細やかな働きが出来る男で、長らく重宝しております」
「そう……」

 ユリウスの部下には表沙汰にされない者も多くて、私は大半を把握していない。どこかですれ違ったのだろうか……顎に手を当てて考え込んだとき、ふっと記憶が浮上した。

 茶楼だ。

 ざわめく人々の流れを、私が露台から身を乗り出して見下ろしていた午後。静かな茶楼の二階、端の席でうつらうつらしていた老人だ。ユリウスが現れる前に居て、彼が現れた後はいつの間にか姿を消していた。

「……なるほど」
「どうなさいましたか、陛下」
「いえ、なんでもないわ」

 本当に、なんでもないことだ。ユリウスが様々な手立てを駆使して、私の身の安全を守ってきてくれたことは知っている。その大部分は私の知らないことだけれど、守られているという、その事実だけは知っているのだ。

 たまに、こうしてその現実の片鱗を垣間見て、何とも言えない気分になるだけで。
 
「貴方の忠実な部下なのね。いつか、紹介してもらえるかしら?」
「その必要があれば幾らでも、お望み通りお引き合わせいたしますが、まずその必要はないかと」
「……」
「陛下」

 思わずむっと渋い顔になってしまった私に向かい、宰相は優しく説きただすでもなく、しかし重みのある声で、

「陛下は私が、平穏な御世のためなら手を汚すことを厭わない人間であることを知っておられる。それで必要十分です。我々がどのように手を汚してきたか、陛下が正確に知る必要はございません。陛下の成されるべきことは他にあります」
「……ユリウス」

(こういうことを、前にも言われたことがある気がするわね)

 ……いや、本当にそうだったかしら?

 宰相が私の為に、私の心の支えとなるような言葉を投げかけてきたのは初めてではない。この十年、彼には色々なことを言われた。その全てが、新米の女王にとってはいささか甘すぎるものだったと思う。

 それでも、甘すぎると言われようと何だろうと、そのお陰で私はまっすぐ背筋を伸ばして、前を向いて立っていられたのだ。

「貴方、私たちが出会ったときに言ったわね。あれは」

 十年前、大きな玉座の上で所在なげに足をぶらつかせていた、まだ幼い私に向かって彼が言ったことを、記憶の遠い澱みから引っ張り出す。

「陛下の御世に、永き安寧と繁栄を。何も恐れず、俯かずにお進み下さい。陛下の手足となり礎となり、我が身の全てを捧げてお護り致しましょう」

 ずっと覚えている。俯いて逃げ出したくなる私を励まして、自分に恥じない女王になれるまでしっかりと立たせてくれた。大切な言葉だ。それが、今となっては随分と、その意味合いが変わってきてしまったのだけれど──

「ねえ、つまり、『陛下の手足となり礎となり』って、『椅子になりたい』って意味だったのよね?」
「仰るとおりです」

 即答された。

 つらい。

「じゃあ、『何も恐れず、俯かずにお進み下さい』は?」
「私の膝の上で、羞恥に震えながらも耐えて背筋を伸ばしていらっしゃる陛下をどこまでも鑑賞したい、どうぞ耐え続けて頂きたい、という意味ですな」
「そんなことだろうと思ったわこの狂人……!」

 泣きたい。

 しかし私は泣く代わりに、彼の腹目掛けて握った拳を軽くぶつけた。

 本気で叩き込まないのは、殴ったら私の手の方が間違いなく痛む、と本能的なもので察しているからだ。

「……ふむ。怒っておいでですかな?」

 宰相が一歩退いて、私の反応を観察する眼差しでこちらを見る。

 私は歯軋りしながらも、冷たい目を光らせて胸を張った。

「怒っているけれど、これから貴方ががっかりするだろうと思うと、少しは胸がすくの。心の底からざまあ見ろ、と思っているわ」
「私ががっかりするとは。一体どのようなことで?」
「貴方が愛好する、ぷるぷる震える兎ちゃんなんてものはもう、この世にいないのよ! 貴方、前に言っていたでしょう。私は貴方を半ば身内判定しているから、いずれはこの状況に慣れるって。その通りだわ。幾ら毎日が常識と狂気のせめぎ合いでも、結婚までした相手と日々椅子を巡って争いたくないもの。気分を切り替えることにするわ。だから、明日からは貴方が何をしようと、落ち着き払った私しかいないのよ。どう、さぞかし残念でしょう?」
「……陛下?」

 普段分かりやすい感情を映すことがないユリウスの目に、信じがたいものを見るような色が宿った。

 私をまじまじと眺め下ろしながら、

「……ここまで自棄になっておられるとは。流石にこれは、自爆慣れしすぎましたかな」
「な、何を言っているの」
「いえ、まあ、これは……陛下の精神状態を案じるのはまた、後回しと致しましょう。このままでは、私がつけ込む隙しかございませんが」

 宰相は独り言のように呟き、

「まずは一つ、誤解を解いておきましょう。私は何も、ぷるぷる震える不憫な兎ちゃんを何よりも愛好しているわけではございません」
「う、嘘」
「不憫な兎ちゃんは、いつか慣れて幸せな兎ちゃんになるから良いものです。徹頭徹尾、生涯を通じてぷるぷる震える様を愛でるのであれば、それは単なる虐待でしょう」
「……?!」
「つまり」

 宰相は無慈悲な声で告げた。

「陛下が震えていようがいまいが、私が愉しんでいることに何ら変わりはございません」






 こうして、ぷるぷる震えてはいないが、相変わらず不幸な気持ちで宰相の上に座っている兎ちゃん(私)が誕生した。

 人々の視線の集中砲火を浴びても、据わった目のままで微動だにしない兎である。

(そもそも、どうして)

 結婚式の誓いの場、大聖堂の荘厳な伽藍の下で、私はユリウスの膝の上に座らされているのだろうか。

(そんな必要があった?)

 どう考えようと答えは「無い」なので、敢えて口に出して問い掛けることもなく。私はただ死んだような目で、目の前で厳めしい祝辞を述べる大司教の姿を眺めていた。

「ユリウス、もし貴方が暗殺される時が来たら、私の関与を疑ったほうがいいと思うわ」

 ぽつりと呟く。

「随分とお怒りですな」

 捨て台詞的な毒を吐いた私に対し、ユリウスは融和的な態度で通すつもりらしく、

「ならば陛下、一つだけ確実に、心からの誓いを告げさせて頂きましょう。私が陛下の椅子である間、何があろうと陛下の身と心をお守りいたします」
「……貴方がいつだって、守ってくれていることは知っているわよ」
「では、改めて誓いを。椅子である間、陛下の望まれないことは一切致しません。絶対的に安全です」
「……そう」

 私は小さく頷いた。

 特に問い直す必要も感じなかった。でも、彼がそう言うのならば、これも何かの交渉材料にできるのかしら?

 そんな風に考えていた私が、「座っている間は安全、ということは、座っていないときは危険、という意味では?」「安全確保のために座れとか、そういうことを言い出すのでは?」「もしかして:謀られてる」などと思いついて、俄にドキドキし始める(恋愛的な意味ではない)のはその後、間もなくの話である。
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