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第九章 特訓開始

58.今日は怒られてばかりな気がする

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 コウの黄銅色の瞳が怒りで輝いている。人間、怒りで美しく見えることがあるのだと亮太は初めて知った。

「何、やってるんだ?」

 声も怖い。亮太は思わず一歩後ずさった。頬がひく、と引き攣る。

「いや、何って、だから首の上に乗ってとどめを刺したら首が剣毎俺を上にポーンと放り投げたから」
「から?」
「だから、落ちたらコウが翼を広げてトランポリンみたいに受け止めてくれて九死に一生を」
「亮太は馬鹿なのか!」

 馬鹿と言われた。さすがに他の二人はそこまで言わなかったが、コウはさすがというか遠慮がない。

「馬鹿は酷くないか? あれは不可抗力っていうか」
「そもそもこんな地面の固いところで龍の頭に乗る阿呆がいるか!」

 今度は阿呆ときた。フー、フー、と毛を逆撫でて怒っている猫の様だった。

「だって早く退治を」
「お前が死んだら私が困る!」

 そう言われながら胸ぐらを掴まれた人間の気持ちは、そう言われながら胸ぐらを掴まれた経験がある人間にしか分かるまい。
 
「あー、まあアキラのこともあるしな、軽率だった」

 今のところ亮太しか八岐大蛇を退治出来る人間がいない。

「そうじゃない!」

 掴まれた胸ぐらをぐわんぐわん揺さぶられた。アキラのことじゃない? するとええと、あれか。

「あ、住む所ないと困るもんな」

 コウが顔を真っ赤にして思い切り睨みつけてきている。しまった、これじゃなかったか? 亮太は焦って別の答えを探す。他に、他に。

「ええと、あ、結婚相手を探す手伝いか」

 アキラも蓮もこの辺りに知り合いがいない。亮太ならばコウに似合う女性を探して紹介するのも容易い。コウも結婚相手がいないと望まぬ結婚を進められてしまう。確かにこれは重要だ。

 すると。

 ブチ、とコウの血管が切れる音がした気がした。胸ぐらを掴んだ細い手がわなわなと震えている。どうやらこれも違ったらしい、ということだけは亮太も理解出来た。コウから怒気が立ち昇るのが見えた気がした。

「――馬鹿!!」

 コウは乱暴に手を離すと、くるりと後ろを向いて出口の鳥居の方に先に一人向かってしまった。完全に怒らせてしまったらしい。

「えーと」

 亮太が困って横で様子を眺めていたアキラに助けを求めると、アキラが呆れた様に首を横に振り、コウの後を追って駆け足で行ってしまった。今のはどういう意味だろうか。

 するとタイミング良く蓮が着替えて戻ってきた。

「お待たせ致しました。さあ食事に向かいましょうか。……あの、どうされました?」
「……コウを怒らせちまった」

 亮太が途方に暮れた様に言うと、蓮がさもありなんと言わんばかりに大袈裟に頷いた。

「今回は亮太が悪いですから」
「俺? 俺か? 結構頑張ったのに」

 情けなく垂れる亮太の眉と口角を見て、蓮がようやく笑った。

「情けない顔をしないで下さい、亮太。――さあ、食べに行きましょう、何かお腹に入れればきっと機嫌も直りますよ」
「だといいんだけどな」

 訳が分からないが、まあ心配してくれたのは確かなのだろう。あそこの鶏わさは旨いのだ。それにまずはお疲れのビールが欲しかった。

 亮太と蓮は肩を並べてコウとアキラの後を追ったのだった。



 茶沢通りから斜めに駅前の通りに入り、三叉路の左奥にその店はある。旨いのだが、そこそこする。
 だが今回は先日コウが渡してくれた生活費がまだ丸々残っているので、それを使わせてもらうことにした。お金に色は着かないから、まあ金は金だ。

 テーブル席に着いて、まずは乾杯のビール。アキラはオレンジジュース、蓮はまさかの日本酒のひやだった。なんと酒が飲めたらしい。

 隣でぶすっとしているコウが亮太を睨みつけつつ、亮太が乾杯に差し出したジョッキに面倒くさそうにジョッキをカンと当て、次いで一気に飲み干した。物凄い飲みっぷりだ。というか、何故亮太の隣に座らせた。先に店に入って場所を確保したアキラを恨みがましい視線で見ると、横に座る蓮をチラチラと見上げていた。まあ、そういうことだ。

「アキラ、食え食え頼め」
「ん」

 そうだ、鳥わさは頼みたい。コウは好きだろうか?

「コウ、鳥わさ食うか? ここの旨いんだけど」
「食べる」

 即答だった。機嫌が直ったのかと思って目を覗き込むと、まだ眉間に皺が寄っている。うん、まだまだ酒が必要そうだった。

 亮太は蓮と相談しつつあれこれ注文してみた。待っている間に蓮の横のアキラの顔色を見ると、白かった。あれを身体から出すのがどれだけ辛いのかは亮太には分からない。恐らくアキラも説明などしないだろう。だからせめて。

「アキラ、やったな」
「……何が」

 怪しいおっさんを見る様な目つきで見られるのももう慣れた。これはこいつなりの処世術なのだろう。考えていることを悟られない為だ。

「もうあと半分だろ」
「……亮太って本当あれだよね」
「何だよあれって」
「普通半分残ってたらまだあと半分じゃないの」
「年取るともうあと半分なんだよ」
「……そこまで年じゃないでしょ」
「普段おっさんおっさん言っといて何だよそりゃ」

 なあ? と蓮に振ると、蓮は首を傾げた。

「私に年齢に関することを聞かれましても」

 確かに蓮は一体どれ程生きているのやらだ。聞く相手を間違えた。となると、残りは一人しかいない。亮太は恐る恐るコウを見た。

「その、コウはどう思う?」
「何が」

 相変わらず冷たい。まだ怒っているらしかった。

「その、四十五は若いかおっさんかだよ」

 何でこんなにコウに気を遣っているのか自分でも分からない。分からないが、機嫌を直して欲しかった。例えこうすることで家庭内順位が最下位になることになったとしても。

 コウがじっと亮太を見た。目の色が明るいからか、そわそわする。

「亮太は、亮太だろう」
「何だよそれ」
「十分いい男だってことだ」

 するとアキラがブッとオレンジジュースを吹いた。

「ああもう何やってんだアキラ」

 亮太は急いで立ち上がりおしぼりでアキラが零したオレンジジュースを拭いた。腐ってもバーテンダー、こういう時の反応は早かった。

 店主に代わりのおしぼりを貰い交換終了。鼻に入ったのかまだゴホゴホしている。

「レン、背中トントンしてやれよ」
「私がですか?」
「隣に座ってんだろ」

 そういえば蓮はアキラに触れない。八岐大蛇的な何か制約でもあるのだろうか。そう思ったが、普通にアキラの背中をトントンし出した。考えてみればおしめも替えていたのだ、問題はない筈だった。

 分かりにくく照れているアキラを微笑ましく眺めていると、焼き鳥が来た。途端、恋する乙女の目から肉食獣の目に変わった。毎度毎度、これぞ正に豹変である。

 鶏わさも来たので、亮太は一つをそっと爪楊枝で指すとコウを手で呼び寄せ耳元で囁いた。

「こっそりバレない様にコウにこれやるから、ポーチ毎渡してくれ」

 コウは無言で頷くと斜め掛けしていたポーチをカチッと外し亮太に下から手渡した。亮太は辺りをさっと見渡してからポーチを開け、中に入っているみずちに小さく声を掛けた。

「コウ、ご飯だぞー」
「わーい」
「見つからないようにな」
「分かったのー」

 みずちは顔だけ出すと、差し出された爪楊枝に刺さった鶏わさ一切れを丸呑みした。正直毎回この瞬間だけはあまりにも蛇っぽいので若干うっとなってしまうが、これも慣れだ、慣れ。

 上手く飲み込めた様なので亮太はポーチのジッパーをそっと閉じた。これでよし。顔を上げると、すぐ近くにコウの顔があった。

「私のコウには食べさせてあげるのに」

 ボソリと言われた。え? 亮太はコウの手元を見ると、いつの間にか蓮と日本酒を分け合っている。目の下の白い肌がすでに赤く染まっていた。空きっ腹にビールを一気飲みの後に日本酒だ、まあ酔いも回るだろう。そしてまだ眉間に皺が寄っている。折角の美形が台無しだ。

「コウ、食べないと悪酔いするぞ」
「あ」

 コウが形のいい口を開けた。

「え?」
「悪酔いするんだろ? あーん」
「え?」

 え、しか出てこない。コウは亮太の肩のすぐ近くで口を開けて待っている。反対側に座る蓮を見ると、アキラに甲斐甲斐しく食べ物をよそっている。アキラを見ると、さっと目を逸らされた。自分で対処しろということだろう。

 亮太はもう一度コウを見た。これはあれか、仕返しされているのか。多分そうだ。まあ心配をかけたのだ、ちょっと意地悪の一つもしたくなったのだろう。

 亮太は無理矢理自分をそう納得させると、鶏わさを一切れ箸で摘んでコウの口の中に入れた。


 コウが口を閉じ、もぐもぐしながら笑った。
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