お互いのために別れを告げた婚約者が追いかけてくる話

片茹で卵

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 予想外の言葉に、私は思わず顔を上げた。

「え? ええ、この辺りではあまり髪を結わないので……それが何か」
「いや、ただ」

 今の私は背中の半ばまでの髪を垂らして、飾り気のない長衣に厚手の外套、ヒールのない深靴を合わせている。魔法を織り込んだ外套はあたたかいし森を歩くにはちょうどいい格好だけど、都会の貴族から見れば野卑でしかない。

 またみっともないと言われるだろうか。ううん、アルクス様がシルヴァでの振る舞いに意見したことはないはず。それでも不安は拭いきれなくて身をこわばらせると、不意にアルクス様が背を屈めた。魔法薬らしきハーブの香りが鼻先をかすめるのと同時に、右の手が肩口に伸びる。

「こちらの方が、ずっと君らしいと思った」

 言葉とともに体温の乏しい指が髪をすくい上げて、息を呑む。
 くせのない赤茶の髪をじわりと撫でる指先、慰撫するような柔らかく執拗な触れ方に、私はひどく狼狽えた。一般的に髪、特に女性の髪は非常に個人的な領域で、いくら婚約者の関係であっても男性がみだりに触れていいものではない。

「おやめください、そういった行動はアルクス様のお名前を損ないます」

 声が震えそうになるのを堪えて諌めても手が離れることはない。それどころか、手のひらに絡む一房に薄い唇が触れそうになって、思わず目を見開いた。本能的な恐怖に踵で後ずさったものの、鬱蒼とした森の中では半歩も下がらずに木に背中が触れてしまう。

「ア、アルクス様」
「心のままに振る舞えと言ったのは君だ」

 それに、とさらに距離を詰められて、いよいよ逃げ場を失う。婚約の儀の時よりも近い位置で見上げる瞳は真冬の湖を削り取ったように美しいのに、悪い夢でも見ている気分だった。ようやく息ができるようになったと思った肺腑は水に押しつけられたように苦しくて、痛いほどの鼓動がこめかみを揺さぶっている。
 長い指から毛先が滑りおちて、ほんの少しだけ安堵したのも束の間、すぐに顎を持ち上げられて、ヒ、と悲鳴じみた呼吸が洩れた。どうして。この二年間、指一本触れることはなかったのに。手を握られた記憶すらないのに。

「あの男には触らせたじゃないか」
 
 ぞっとするほど冷たい声が何を指しているのか理解する前に、視線に縫い止められる。しなやかな獣を思わせる鋭い眼差しから逃れられず、それでも最後の力を振り絞って拒絶の言葉を絞り出そうとする私の口元を塞ぐように、夜気をまとった冷たい唇が押し当てられた。
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