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「……ご、」
耳を疑う言葉に、私はアルクス様が何か精神に作用する呪いをかけられたのではとさえ思った。それ以外に、この状況を説明できない。
私を、辱める。加護を破って。
脅しだとしても度が過ぎている。確かに何ひとつ釣り合う点のない婚約者だったし、逃げるように王都を去ったけれど、そこまで深く憎まれるようなことをしただろうか。
「ご自身がヴェスパー家の名を背負っていることを、理解しておられますか?」
「保守的な土地に生まれ育った君は知らないだろうが、婚儀を迎える前の貴族が隠れて交わるのはそう珍しいことでもない」
「それは、た、互いに求め合った結果の話ではありませんか。私は、こんなこと……」
交わす言葉の生々しさにめまいがしそうだった。髪に、肌に触れること、口付け、どれも私にとっては正式に結ばれた伴侶とのみ交わす秘めやかな行為で、本来なら軽々しく口に出すことすら許されない。
何より、愛情に裏打ちされた行為であるはずのそれらを、こんな風に心を苛むために用いるのが理解できなかった。
「体内に施された魔法は、一度解除されると再度かけても綻びの跡が残る」
腿に触れる手がじわりと這い上がり、足の付け根に至る。下履きを掠めそうな指先の位置を意識すると、血の気の引く思いだった。
「不品行のはびこる王都ならまだしも、婚礼は清浄な魂が結びつくものという教えの根付くこの地において、貞操の維持は不可欠だ。加護を失った息女には謗りが付いて回る」
アルクス様の言うとおり、シルヴァは伝統的に純潔を重んじる土地で、それを破った娘は余程の理由がない限り嫁ぐ先を失う。ただでさえ一度婚約している私が貞潔を守る加護を解いたと知られたら、いくら自分の意思ではないと訴えても伴侶を見つけるのは難しいだろう。
でも、今さらだった。嫁ぎ先の心配なんて、何の意味も持たない。
「……逃げ出せないよう羽根を折れば、私が王都に戻りたいと頭を下げるとお考えですか」
何か冷たいものが、胸の底から染み出すのを感じた。
私の加護は、お母様が私が清く健やかに生きられるよう心をこめて施して下さったものだった。それを、埃でも払うようにあっさり損なわれた。
「全て、覚悟の上です、私のような取り柄のない、傷を負った娘に再び縁談が舞い込むことなどないと。それでもシルヴァに帰ることを選んだのは……離れることが私達のあるべき姿だと思ったからです」
なぜアルクス様が私などに固執するのかはわからないけれど、背負う必要のない責任に手を出し、立場にあるまじき手段で退路を断とうとしている現状がお互いのためになるとは思えない。
私は肌に触れる手を意識しないよう気を配りながら、こわばった声で続けた。
「……さ、差し出がましい発言とは存じておりますが、少し冷静になられた方が良いかと。憎しみや失望は時として人の目を曇らせます」
「カペラ」
「先ほどアルクス様は得たいものを優先すると仰いましたが、本当に私などを妻にしたいとお考えですか? 今は裏切られた怒りを晴らしたいのかもしれませんが、きっとすぐに後悔します」
隠しきれない小さな棘が言葉に絡みついて、心臓が軋みを上げる。本来なら口ごたえなど許されない相手だと理解していても、感情を抑えきることができなかった。
ずっと一人きりの部屋、決して触れることのない手、吐き捨てるような言葉の記憶が、痛みをともなって明滅する。あの時、一度でも私を見て下さればと未練がましいことを考えてしまう。この方と生きたいと願う気持ちは、もうすり減って消えてしまったのに。
「――カペラ、君は根本を見誤っている」
平坦な声とともに、アルクス様が視線を合わせた。磨き抜かれた氷の眼差し。それだけで、魔力の影響を受けたように鼓動が逸る。何か失敗しただろうかと息が詰まる。
「まず私は君に対して怒りや憎しみといった感情を抱いていない。婚約を解消するつもりがないと言っているだけだ」
「なぜですか? た、確かに一度公にした婚約を取り消すのは不名誉かもしれませんが、これからのことを考えれば……」
「君を求めているから」
それ以外の理由が必要か? と当たり前のように尋ねられて、私の中のあらゆる思考が停止した。
「な……」
鼓動が跳ね上がったのは、あの婚約の儀から王都を出る日まで求め続けていた言葉を与えられたからじゃない。同時に頬に触れた手が恐ろしいほど冷たくて、血が通っていないようだったから。
半端に開いた唇から、震えを帯びた吐息が洩れる。ひとつの言葉も形にならず立ち尽くす私に、アルクス様は手紙でも読み聞かせるような静かな声で続けた。
「カペラ、私は君を手放すつもりはない。爪の一本、髪の一房に至るまで、君をすべて所有するつもりだ」
耳を疑う言葉に、私はアルクス様が何か精神に作用する呪いをかけられたのではとさえ思った。それ以外に、この状況を説明できない。
私を、辱める。加護を破って。
脅しだとしても度が過ぎている。確かに何ひとつ釣り合う点のない婚約者だったし、逃げるように王都を去ったけれど、そこまで深く憎まれるようなことをしただろうか。
「ご自身がヴェスパー家の名を背負っていることを、理解しておられますか?」
「保守的な土地に生まれ育った君は知らないだろうが、婚儀を迎える前の貴族が隠れて交わるのはそう珍しいことでもない」
「それは、た、互いに求め合った結果の話ではありませんか。私は、こんなこと……」
交わす言葉の生々しさにめまいがしそうだった。髪に、肌に触れること、口付け、どれも私にとっては正式に結ばれた伴侶とのみ交わす秘めやかな行為で、本来なら軽々しく口に出すことすら許されない。
何より、愛情に裏打ちされた行為であるはずのそれらを、こんな風に心を苛むために用いるのが理解できなかった。
「体内に施された魔法は、一度解除されると再度かけても綻びの跡が残る」
腿に触れる手がじわりと這い上がり、足の付け根に至る。下履きを掠めそうな指先の位置を意識すると、血の気の引く思いだった。
「不品行のはびこる王都ならまだしも、婚礼は清浄な魂が結びつくものという教えの根付くこの地において、貞操の維持は不可欠だ。加護を失った息女には謗りが付いて回る」
アルクス様の言うとおり、シルヴァは伝統的に純潔を重んじる土地で、それを破った娘は余程の理由がない限り嫁ぐ先を失う。ただでさえ一度婚約している私が貞潔を守る加護を解いたと知られたら、いくら自分の意思ではないと訴えても伴侶を見つけるのは難しいだろう。
でも、今さらだった。嫁ぎ先の心配なんて、何の意味も持たない。
「……逃げ出せないよう羽根を折れば、私が王都に戻りたいと頭を下げるとお考えですか」
何か冷たいものが、胸の底から染み出すのを感じた。
私の加護は、お母様が私が清く健やかに生きられるよう心をこめて施して下さったものだった。それを、埃でも払うようにあっさり損なわれた。
「全て、覚悟の上です、私のような取り柄のない、傷を負った娘に再び縁談が舞い込むことなどないと。それでもシルヴァに帰ることを選んだのは……離れることが私達のあるべき姿だと思ったからです」
なぜアルクス様が私などに固執するのかはわからないけれど、背負う必要のない責任に手を出し、立場にあるまじき手段で退路を断とうとしている現状がお互いのためになるとは思えない。
私は肌に触れる手を意識しないよう気を配りながら、こわばった声で続けた。
「……さ、差し出がましい発言とは存じておりますが、少し冷静になられた方が良いかと。憎しみや失望は時として人の目を曇らせます」
「カペラ」
「先ほどアルクス様は得たいものを優先すると仰いましたが、本当に私などを妻にしたいとお考えですか? 今は裏切られた怒りを晴らしたいのかもしれませんが、きっとすぐに後悔します」
隠しきれない小さな棘が言葉に絡みついて、心臓が軋みを上げる。本来なら口ごたえなど許されない相手だと理解していても、感情を抑えきることができなかった。
ずっと一人きりの部屋、決して触れることのない手、吐き捨てるような言葉の記憶が、痛みをともなって明滅する。あの時、一度でも私を見て下さればと未練がましいことを考えてしまう。この方と生きたいと願う気持ちは、もうすり減って消えてしまったのに。
「――カペラ、君は根本を見誤っている」
平坦な声とともに、アルクス様が視線を合わせた。磨き抜かれた氷の眼差し。それだけで、魔力の影響を受けたように鼓動が逸る。何か失敗しただろうかと息が詰まる。
「まず私は君に対して怒りや憎しみといった感情を抱いていない。婚約を解消するつもりがないと言っているだけだ」
「なぜですか? た、確かに一度公にした婚約を取り消すのは不名誉かもしれませんが、これからのことを考えれば……」
「君を求めているから」
それ以外の理由が必要か? と当たり前のように尋ねられて、私の中のあらゆる思考が停止した。
「な……」
鼓動が跳ね上がったのは、あの婚約の儀から王都を出る日まで求め続けていた言葉を与えられたからじゃない。同時に頬に触れた手が恐ろしいほど冷たくて、血が通っていないようだったから。
半端に開いた唇から、震えを帯びた吐息が洩れる。ひとつの言葉も形にならず立ち尽くす私に、アルクス様は手紙でも読み聞かせるような静かな声で続けた。
「カペラ、私は君を手放すつもりはない。爪の一本、髪の一房に至るまで、君をすべて所有するつもりだ」
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