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11 道玄坂を登ってりんごの歌を
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1
かのんと高梨由比さんは、一つちがいだった。
かのんがお姉さんで、由比さんの家は歩いて五分ほどだった。
由比さんのおじいちゃんは生き残ったが、ほかの家族親類はすべて亡くしていた。境遇も似ていた。
「かのんさあーん」
そういって、由比が遊びにくるようになった。
むこうがこないときは、かのんが時間をつくり、由比の家を訪ねた。
由比の職業は、かんたんにいうと日本手拭のデザイナーだった。
手拭の価値は絵柄で決まる。
絵柄は、注染といって、江戸時代から伝えられた伝統的な型紙や糊や染料を使って作られる。
由比は、すべてをおじいさんから教わった。絵師としては名が通っていた。
「おじいちゃんの持ち物を探したてみたけど、やっぱりどこにもないのよ。ごめんなさいね。これからも気づいたところ、あちこちひっくりかえしてみるけど」
どんぐりさんの手紙を発見しようとしているのだが、見つからなかった。
かのんもどんぐりさん自筆の本物を手にしたかったが、仕方がなかった。
かのんは由比に、水彩絵の具で色をつける花の絵の描き方を教わった。
スイセンや山百合、リンドウやアザミなどが、色をつけると想像以上に見事な姿を浮かばせてくれた。
うれしくなって、かのんはそのたび、由比のところにもっていった。
仕事も、絵を描くことも、由比と会うことも楽しかった。
「かのんさん、上野にパンダ見にいかない」
由比が、ある日、誘った。
パンダは世間で騒がれていた。
由比が、みんなのやることをやろうとするのは珍しかった。
ときには伝統をはなれ、パンダの手拭でも作ろうという企てなのか。
まあ、たまにはそういうところにでもいってみようか、とかのんも賛成した。
上野動物園は、善男善女であふれていた。
朝の十時にいったのに、立って並んだまま昼の弁当を食べた。
ようやく一時になって、なかに入れた。三時間もかかった。
「止まらないでください。立ち止まらないでください」
動物園の係員が必死の呼びかける。
二人は、ぞろぞろとみんなのあとについていった。
パンダ見物は一瞬のうちに終わった。
結局、パンダの尻と横顔をちらっと見たきりだった。
店に帰って、前田医院の娘の花子とたった一人の店員にいきさつを話した。
馬鹿みたいだったけど面白かった、とみんなで笑った。
由比は、お尻を見せたパンダをユーモラスに、伝統的なデザインで手拭にした。
二人は時間を示し合わせ、銀座の歩行者天国でコーヒーを飲んだ。
一人はおかっぱ頭、もう一人は肩のところで日本人形のように髪を切っている。
似たようなおそろいの髪型だ。
かのんは頬がふっくらし、由比は頬がなめらかで顎がちょんとでている。
丸顔とゆるやかな三角顔である。
由比は和服だった。かのんは、仕事を通いの店員さんに頼んできたので、いつもの洋服姿に白いエプロンをかけていた。
「何年も手間隙をかけて資料を見つけ、デザインしなおした貴重な役者絵の手拭より、ちらっと見たパンダの手拭の方が百倍も売れんだからね」
役者絵は、由比が苦心して仕上げた江戸時代当時の歌舞伎役者の総カタロだった。
一枚の手拭に十人からの役者絵が、北川春信のタッチで染められた芸術作品である。四枚一組だった。
2
由比は、若い人向けになにかを作ってみようかと、歩行者天国で女性のファッションを観察していた。
「颯爽として、みんな軽快だわね」
「由比さんの参考にするところなんか、なんにもないでしょう」
銀座四丁目の歩行者天国には、軽やかにアメリカナイズされた若者たちの文化であふれていた。
「みんな、変わっていくんだよ」
「変わっていくのが、文化といえば、文化なんだね」
「そしていまは、パンダが一番上に君臨しててね」
なんて幸せに満ちているんだろう、と感心しながらも、かのんは、このなかに戦災孤児になった人がどのくらいいるのだろうか。
自分の恋人が特攻で死んでいった遺族はどのくらいいるのだろうか。
などと考えていた。
たぶん、そんな人間は、一人もいないだろうな、と憶測しつつ。
近くの売店から、流行の、美空ひばりや雪村いずみやエリ・チエミの歌がきこえていた。
反対側のスナックの店からは、エルビス・プレスリーとかザ・ビートルズの歌が流れていた。
流行の歌は、かのんも由比も好みではなかった。
ただかのんは、パティペイジというアメリカの女性歌手の歌っている、テネシーワルツという曲だけは心に響いた。
彼女の歌をきていると、詩の内容とは関係なく、アメリカのどこかにいる花売りジョーや、東京上空で遭遇した特攻機がどんなに恐ろしかったかを語ったジェームスを思いださせた。
銀座にはあちこちに映画館があった。
だから、由比とかのんは、ときどき映画も鑑賞した。
アメリカ映画ではなく、日本映画だった。
地味だがしみじみした小津安二郎の映画はだいたい観た。
黒澤明の用心棒は、登場人物の描写と主人公の豪胆さが楽しかった。
キューポラのある街は、主演の吉永小百合の懸命な演技が胸に応えた、
五番町夕霧楼は小説家、水上勉の原作で、人間の悲しい運命がにじみでていた。
みんなストーリーも映像も人物像もしっかりしていた。
生きていく人間のたくましさや悲しみが、しみじみと感じられた。
また由比は、よくコンサートを探してきた。
その場所はたいてい○○市民ホールとか○○文化会館とかの名前がついていた。
会場は東京の郊外で、歌手たちはだいたいが無名だった。
演奏曲は、月の砂漠、浜地鳥、朧月夜、みかんの花咲く丘、荒城の月、椰子の実……など日本の歌だった。
そのたび、二人ともつれだって出かけた。
そしてかのんは、何気なく覚えていた『里の秋』がなんのために唄われた歌なのかを、三番目の歌詞ではじめて知った。
一番はだれでも口ずさむ、
『しずかな しずかな 里の秋』である。
そして、三番の歌詞は次のように続いた。
『さよなら さよなら 椰子の島
お船に揺られて 帰られる
ああ とうさんよ ごぶじでと
今夜も かあさんと いのります』
歌の一番の最後のほうにでてくる
『ああ、母さんとただ二人……』
が、なぜ二人だけなのかと不思議だった。
南の戦場にいったお父さんが、帰還船に乗り、無事に日本に帰ってくるようにという、願いをこめた歌だったのだ。
どんぐりさん、あなたがもし帰ってきたら──。
かのんは、新聞記者からもらった写真を小さく複写し、いつも胸のポケットに入れていた。
まだ十九歳の若々しい少年だった。
写真のなかのどんぐりさんは、おかっぱ頭のかのんを見つめ、いつも微笑んでいた。
里の秋とともに、もう一つ聴きたい唄があった。
「ねえ、由比さん。りんごの歌、どこかでやってないかしら?」
かのんも由比も、あれからりんごの歌をほとんどきかなかった。
以前はラジオでときどき流れていたが、テレビ時代になってからは、まったく聞かなかった。
由比もりんごの歌が好きだった。
かのんは、りんごの歌を唄っている並木路子という歌手が、どこで活躍しているのかを、以前に知り合った新聞記者に調べてもらった。
並木道子は、全国あちこちを飛び回っていた。
現在は東京渋谷の道玄坂の店で、一日一度は唄っているということだった。
バー形式の自分の店だった。
「いってみよう」
かのんが誘った。
バーだから、いくとしたら夜である。
夜の渋谷など、歩いた経験はなかった。
花屋の納品があるので、バーやクラブのようすはよく知っていた。
だが、客として入った覚えはなかった。
「たまには、夜の渋谷のバーなんていうのもいいね」
由比は賛成した。
「道玄坂だってさ」
「店の名前は?」
「ブルースポット」
新聞記者に、店の電話番号と場所を教えてもらった。
3
二人で高校生のように手をつなぎ、ネオンの坂を上っていった。
道玄坂には、若い学生風情の男女がいききしていた。
かのんは由比に合わせ、和服を着ていた。
教わった地図のとおり、路地に入った。すぐにわかった。
こじんまりした洒落た店だった。
「ここが、あの並木路子さんの店だよ」
「そうだね。いよいよ本人からりんごの歌、聴けるんだね」
かのんも由比もわくわくしていた。
同時に、三月の大空襲で生き残り、母親をなくしながら歌を唄いつづける並木路子という歌手に、畏敬の念が湧いた。
常連の客が多いような気がした。
着飾って、みんなリラックスしていた。
二人は、ワインとチーズとサラダを頼んだ。
「かのんさん、あなたはやっぱり結婚しないの?」
由比がワインを口にしながら、わかっているのにきいた。
「由比はどうしてなのよ」
かのんがききかえした。
「わたし、結婚したい。跡取りほしい。だけど、いい男いないもの」
由比は、つい本気で大きな声をだしていた。
「いい男って?」
「いい男……イメージ湧かないのよ」
すると突然、隣のテーブルに座っていた若い二人の男が話しかけてきた。
「失礼ですけど、どうせなら二人同士、一緒にいかがですか?」
二人ともポマードの頭に、櫛の目をきちんと入れた三十代の男だった。
サラリーマンではなさそうだった。
一人の男の手首には、重たそうな金のブレスレットが巻かれていた。
着ている背広も高級そうだったが、品がなかった。
二人とも、映画の主役の俳優の絵のように、シャツのエリの後ろはんぶんを立てていた。
そのシャツが赤や派手なアロハ調でなかったところが、かろうじての救いだった。
でも、やくざというわけでもなさそうだった。
かのんと由比は、顔を見合わせた。
「わたしたちは、二人で楽しみにきたのです。けっこうです」
かのんがはっきり答えた。
「楽しみにって、なにを?」
金鎖のほうが、かのんの意思を無視し、なおも話しかける。
「音楽をききにきたのよ。りんごの歌、ききたいんです」
由比がためらいなく応える。
「りんごの歌?」
「なんだそりゃあ」
もう一人の男が素っ頓狂な声をあげた。
店全体の空気が、ざわざわとさわいだ。
全員が、かのんと由比のテーブルのほうを見ていた。
店の男の従業員がやってきた。
「お客さん」
怖い顔だった。
「大きな声をだしていたので、みんあきこえました。でていってください」
いきなり、男の二人連れに告げた。
「この店はあなたたちが来るような店ではありません。他のお客に迷惑をかけるのでしたら、おひきとりください」
強引だった。
「なんだよ。となりの女に話しかけただけだろ」
「とにかく、あなたがたはわたしどもの店の客ではありません。さあ、お帰りください。でていってください」
店のマネージャーなのか、落ち着いたあしらいで二人をうながした。
有無をいわせない態度だった。
二人のポマードの男は、席からたちあがり、財布から金をだした。
「ひまだから、ばばあに声をかけただけじゃねか。こんな店、二度とくるかい」
いい残し、ドアのむこうに姿を消した。
「申し訳ありません。ちかごろ、あんな客がときどきやってきまして。ご迷惑をおかけいたしました」
かのんと由比は、わかったような、どこかよくわからないような顔を二人でならべた。
マネージャーらしき中年の男はすぐにさっし、説明した。
「ここは、たしかにあなたがたがおっしゃったように、りんごの歌をききにくるお客様の店なんです。でもときどき、そんな内容も知らずに入ってくるお客様がいらっしゃいます。ふつうのお客様ならそれでも問題はありませんが、あのようなお客様はお断りしております」
「不動産屋さんですか?」
由比がためらわずにきいた。
バブルの時代である。不動産成金という言葉はだれでも知っていた。
「そうみたいですね」
マネージャーらしき男がうなずく。
「地上げ屋さん?」
由比がさらにきく。
「ここにいらっしゃるお客さんのほとんどは、りんごの歌をご存知です。最近、この近辺にもあのような方が増えまして、ときどき当店にも入っていらっしゃいます。どうぞ気分を悪くせず、くつろいでいってくだい」
かのんの店にも男がきて、なんとか興行というような会社の名刺を置いていった。
医者の娘の花子が、店番をしていたときどきだった。
「パンチパーマをかけていた。ヤクザみたいだった。あれは地上げ屋だね」
花子は知ったような口調で告げた。
長くて黒い髪は、ビルマ娘のシンボルである。
黒い瞳が、遠い南国のビルマの夜空の星のように輝いていた。
薄褐色の肌は、もうすっかり日本人の肌の色に馴染んでいた。
パンチパーマの男は、こちらの店の借地の件で話がしたい、と言ったという。
かのんは大家さんに土地を借りている。
大家さんが新しい事業でもはじめようとしているわけではなかった。
土地の持ち主の大家さんですら知らないのに、地上げ屋たちは、勝手に動きまわっているのである。
妙な連中だし、ときには暴力沙汰を起こしたりもする不気味な輩でもあった。
道玄坂の店は、閉店時間前に、本人の並木路子がやってきた。
挨拶をし、りんごの歌を唄った。
店は、りんごの歌の大合唱になった。
レコードできいたときの歌声と変わっていなかった。
みなさん、明日も明るく生きましょうね」
黒っぽいドレスに襞のあるスカートをはいた、若々しい並木路子さんだった。
閉店してから、かのんと由比は、手をつないでりんごの歌を唄いながら、道玄坂の道を駅にむかった。
4
朝から三人の男がやってきた。
まだ閉まっている店の戸を乱暴に叩いた。
一人は、わざとそれらしくしているのか、丸い黒メガネをかけていた。
一人はパンチパーマである。
もう一人はワイシャツに背広を着、ネクタイを締めていた。
でも、唇がひん曲がっていた。ついでに着ている背広の肩も、古びた案山子みたく斜めに歪んでいた。
「ご主人ですね。わたし、このまえ挨拶にあがりました大塚興行の大塚です。いかがですか、考えておいてくれましたか?」
いきなりパンチパーマが訊いてきた。
「なんのことでしょう……」
かのんは、不吉なオーラの三人にふるえるほどの嫌悪感をおぼえた。
「あれえ?」
パンチパーマの大塚は、おどろいたように目を丸くした。
「話しておいたじゃないのよ」
「だから、なんのことですか」
「借地権のことだ、きまってるだろ」
クロメガネが顔をかしげ、ああん、と顎をしゃくる。
「借地権? 地主さんにはなんにもきいてませんけど」
かのんは、なんだろうと本当に思った。
「ばか。借地権のことなんか地主と関係あるかよお」
今度は背広の男が、般若の形相を作った。
どうやら、三人で脅しにきたようだった。
「このまえ、娘に話しといたじゃねえか」
パンチパーマが、当然のような口調でいった。
「べつになにもきいてません」
ちらり耳にはしたが、きいても意味がわからなかった。
「きいてないだあ?」
「きいてないですむか」
「朝からなんのために、三人でやってきたと思ってんだ」
「ばかにするのもいい加減にしろ」
三人で、勝手に怒りだした。
「ここの借地権をゆずれって話だよ」
「こんな銀座の一等地で、花屋なんかやってる場合かよ」
「ここをどこだと思ってる」
「一坪いくらすると思ってる」
「なあ。うんて、うなずいてなあ」
「ちょんて、ハンコついてくれりゃそれですむんだよ」
「かんたんじゃねか」
「あとは場所変えて、きれいなガラス張りのでかい店、どっかに造りゃいいだろう」
「こんな、馬小屋みたいな店じゃなくってよ」
「銀座の特等地じゃないの、ここ」
ようするに三人は、わけのわからない娘に一枚の名刺をわたして適当に話をし、言いがかりをつけにきたのだ。
これが、うわさにきく地上げ屋なのかと、三人を観察した。
ほかの場所でおきる騒動をよくきいていた。
が、自分の目の前にあらわれるとは思ってもいなかった。
「地主さんとは関係ないって、どういう意味ですか?」
「おまえが、借地権を放棄すればいいってこと」
「坪、三百万円が、二億、三億に化けるんだぜ」
「一生左団扇じゃねえか」
「どんな昔気質のシブチンのガンコ地主でも、最後にはウンてうなずくんだよ」
「左団扇がいいと、わたしは思わないけど」
ここは、どんぐりさんと小さいころに遊んだ歯科医院の跡だ。
混乱のとき、従兄弟の服部がピストルで撃たれた場所だ。
悲しい思い出は、美しくもある。美しい思い出は、生きる力と忍耐力を与えてくれる。
「帰ってください」
かのんは静かにいった。
「なにいってんだ。三億、四億だぞ。ばか」
かのんは無視し、引き戸を閉めようとした。
その戸を、パンチパーマの大塚が両手で押さえた。
「すぐ裏に地主さんがいますから、呼んできましょうか?」
かのんは、相手にしてはいけないと思いながらも、ちょっとまともに対応した。
「地主の問題じゃねえんだよ」
「おめえだよ。おめえ」
「おめえが、ここを立ち退いてくれれば、それでいいんだよ」
「いなくなったあとは、おれたちに任しときな」
「ばか」
最後にいったのは、かのんだった。
パンチパーマの胸を、両手でどんとついた。たいした力ではなかったが、思わぬ攻撃でよろけたすきに、戸を閉めた。
5
営業時間がきて、店を開けたとき、もう連中はいなかった。
ところが次の日の朝、またやってきた。
「おーい、気持ち変わったかあ?」
大きな声で呼びかけてきた。
すぐに帰ったが、次の日の朝にもやってきた。
まるでかのんをからかっているようでもあった。
また、いつか気が変わるに決まってる、と読んでいるようだった。
知らせをきき、まちうけていた大家さんの一人息子が、隣から医者の白衣姿ででてきた。
「なんだ、おまえらは」
「おまえこそなんだ」
「ここの地主だ」
「ここの地主は、おまえの親父だろ。関係ないのは、ひっこんでろ」
パンチパーマは、堂々としていた。
「警察を呼びますよ」
「こっちは商取引を持ちかけてんだ。こわくもなんともねえよ」
ふふんと鼻で笑ったような気がした。
だが、次の日から姿を現さなくなった。
その代わり、シャッターの前に、犬や猫の死骸が転がるようになった。
でたらめの花の注文がくるようになった。
頼んでもいない出前も届くようになった。
店の前に昼間からルンペンが座りこむようにもなった。
あげくは夜中、店や医院の前に糞尿をまかれた。
そして最後には、深夜の花屋の小火騒ぎである。
消防や警察がきたが、大塚興行と結びつくなにも見いだせなかった。
ある日、大塚興行の三人が、にやにやしながら店に入ってきた。
景気はどうですか、などときいてきた。
かのんはもっていた竹棒をふりあげた。
細い棒だったが、三人を力いっぱい叩いた。
「借用書に名前書い、印つくだけで、五億だぞ」
パンチパーマは叩かれながら、叫んだ。
こんな事件は、日本中のどこにでも起こっていた。
日本人は、頭がおかしくなってしまったのだ。
こんな人達が跋扈する世の中のため、特攻は自らの命をかけのか──。
何十万という人々が火に炙られ、死んでいったのか──。
その夜、由比の家を訪ねた帰り道、かんのは裏通りで車に跳ねられた。
命をねらわれたのかも知れない。
やつらは、あの土地の借用人さえいなくなればいいいと、考えていたのか。
あとは自分たちの方法でなんとかなると。
かのんは重症だった。
轢き逃げ犯の手掛かりはなかった。
●11章終
8303
かのんと高梨由比さんは、一つちがいだった。
かのんがお姉さんで、由比さんの家は歩いて五分ほどだった。
由比さんのおじいちゃんは生き残ったが、ほかの家族親類はすべて亡くしていた。境遇も似ていた。
「かのんさあーん」
そういって、由比が遊びにくるようになった。
むこうがこないときは、かのんが時間をつくり、由比の家を訪ねた。
由比の職業は、かんたんにいうと日本手拭のデザイナーだった。
手拭の価値は絵柄で決まる。
絵柄は、注染といって、江戸時代から伝えられた伝統的な型紙や糊や染料を使って作られる。
由比は、すべてをおじいさんから教わった。絵師としては名が通っていた。
「おじいちゃんの持ち物を探したてみたけど、やっぱりどこにもないのよ。ごめんなさいね。これからも気づいたところ、あちこちひっくりかえしてみるけど」
どんぐりさんの手紙を発見しようとしているのだが、見つからなかった。
かのんもどんぐりさん自筆の本物を手にしたかったが、仕方がなかった。
かのんは由比に、水彩絵の具で色をつける花の絵の描き方を教わった。
スイセンや山百合、リンドウやアザミなどが、色をつけると想像以上に見事な姿を浮かばせてくれた。
うれしくなって、かのんはそのたび、由比のところにもっていった。
仕事も、絵を描くことも、由比と会うことも楽しかった。
「かのんさん、上野にパンダ見にいかない」
由比が、ある日、誘った。
パンダは世間で騒がれていた。
由比が、みんなのやることをやろうとするのは珍しかった。
ときには伝統をはなれ、パンダの手拭でも作ろうという企てなのか。
まあ、たまにはそういうところにでもいってみようか、とかのんも賛成した。
上野動物園は、善男善女であふれていた。
朝の十時にいったのに、立って並んだまま昼の弁当を食べた。
ようやく一時になって、なかに入れた。三時間もかかった。
「止まらないでください。立ち止まらないでください」
動物園の係員が必死の呼びかける。
二人は、ぞろぞろとみんなのあとについていった。
パンダ見物は一瞬のうちに終わった。
結局、パンダの尻と横顔をちらっと見たきりだった。
店に帰って、前田医院の娘の花子とたった一人の店員にいきさつを話した。
馬鹿みたいだったけど面白かった、とみんなで笑った。
由比は、お尻を見せたパンダをユーモラスに、伝統的なデザインで手拭にした。
二人は時間を示し合わせ、銀座の歩行者天国でコーヒーを飲んだ。
一人はおかっぱ頭、もう一人は肩のところで日本人形のように髪を切っている。
似たようなおそろいの髪型だ。
かのんは頬がふっくらし、由比は頬がなめらかで顎がちょんとでている。
丸顔とゆるやかな三角顔である。
由比は和服だった。かのんは、仕事を通いの店員さんに頼んできたので、いつもの洋服姿に白いエプロンをかけていた。
「何年も手間隙をかけて資料を見つけ、デザインしなおした貴重な役者絵の手拭より、ちらっと見たパンダの手拭の方が百倍も売れんだからね」
役者絵は、由比が苦心して仕上げた江戸時代当時の歌舞伎役者の総カタロだった。
一枚の手拭に十人からの役者絵が、北川春信のタッチで染められた芸術作品である。四枚一組だった。
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由比は、若い人向けになにかを作ってみようかと、歩行者天国で女性のファッションを観察していた。
「颯爽として、みんな軽快だわね」
「由比さんの参考にするところなんか、なんにもないでしょう」
銀座四丁目の歩行者天国には、軽やかにアメリカナイズされた若者たちの文化であふれていた。
「みんな、変わっていくんだよ」
「変わっていくのが、文化といえば、文化なんだね」
「そしていまは、パンダが一番上に君臨しててね」
なんて幸せに満ちているんだろう、と感心しながらも、かのんは、このなかに戦災孤児になった人がどのくらいいるのだろうか。
自分の恋人が特攻で死んでいった遺族はどのくらいいるのだろうか。
などと考えていた。
たぶん、そんな人間は、一人もいないだろうな、と憶測しつつ。
近くの売店から、流行の、美空ひばりや雪村いずみやエリ・チエミの歌がきこえていた。
反対側のスナックの店からは、エルビス・プレスリーとかザ・ビートルズの歌が流れていた。
流行の歌は、かのんも由比も好みではなかった。
ただかのんは、パティペイジというアメリカの女性歌手の歌っている、テネシーワルツという曲だけは心に響いた。
彼女の歌をきていると、詩の内容とは関係なく、アメリカのどこかにいる花売りジョーや、東京上空で遭遇した特攻機がどんなに恐ろしかったかを語ったジェームスを思いださせた。
銀座にはあちこちに映画館があった。
だから、由比とかのんは、ときどき映画も鑑賞した。
アメリカ映画ではなく、日本映画だった。
地味だがしみじみした小津安二郎の映画はだいたい観た。
黒澤明の用心棒は、登場人物の描写と主人公の豪胆さが楽しかった。
キューポラのある街は、主演の吉永小百合の懸命な演技が胸に応えた、
五番町夕霧楼は小説家、水上勉の原作で、人間の悲しい運命がにじみでていた。
みんなストーリーも映像も人物像もしっかりしていた。
生きていく人間のたくましさや悲しみが、しみじみと感じられた。
また由比は、よくコンサートを探してきた。
その場所はたいてい○○市民ホールとか○○文化会館とかの名前がついていた。
会場は東京の郊外で、歌手たちはだいたいが無名だった。
演奏曲は、月の砂漠、浜地鳥、朧月夜、みかんの花咲く丘、荒城の月、椰子の実……など日本の歌だった。
そのたび、二人ともつれだって出かけた。
そしてかのんは、何気なく覚えていた『里の秋』がなんのために唄われた歌なのかを、三番目の歌詞ではじめて知った。
一番はだれでも口ずさむ、
『しずかな しずかな 里の秋』である。
そして、三番の歌詞は次のように続いた。
『さよなら さよなら 椰子の島
お船に揺られて 帰られる
ああ とうさんよ ごぶじでと
今夜も かあさんと いのります』
歌の一番の最後のほうにでてくる
『ああ、母さんとただ二人……』
が、なぜ二人だけなのかと不思議だった。
南の戦場にいったお父さんが、帰還船に乗り、無事に日本に帰ってくるようにという、願いをこめた歌だったのだ。
どんぐりさん、あなたがもし帰ってきたら──。
かのんは、新聞記者からもらった写真を小さく複写し、いつも胸のポケットに入れていた。
まだ十九歳の若々しい少年だった。
写真のなかのどんぐりさんは、おかっぱ頭のかのんを見つめ、いつも微笑んでいた。
里の秋とともに、もう一つ聴きたい唄があった。
「ねえ、由比さん。りんごの歌、どこかでやってないかしら?」
かのんも由比も、あれからりんごの歌をほとんどきかなかった。
以前はラジオでときどき流れていたが、テレビ時代になってからは、まったく聞かなかった。
由比もりんごの歌が好きだった。
かのんは、りんごの歌を唄っている並木路子という歌手が、どこで活躍しているのかを、以前に知り合った新聞記者に調べてもらった。
並木道子は、全国あちこちを飛び回っていた。
現在は東京渋谷の道玄坂の店で、一日一度は唄っているということだった。
バー形式の自分の店だった。
「いってみよう」
かのんが誘った。
バーだから、いくとしたら夜である。
夜の渋谷など、歩いた経験はなかった。
花屋の納品があるので、バーやクラブのようすはよく知っていた。
だが、客として入った覚えはなかった。
「たまには、夜の渋谷のバーなんていうのもいいね」
由比は賛成した。
「道玄坂だってさ」
「店の名前は?」
「ブルースポット」
新聞記者に、店の電話番号と場所を教えてもらった。
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二人で高校生のように手をつなぎ、ネオンの坂を上っていった。
道玄坂には、若い学生風情の男女がいききしていた。
かのんは由比に合わせ、和服を着ていた。
教わった地図のとおり、路地に入った。すぐにわかった。
こじんまりした洒落た店だった。
「ここが、あの並木路子さんの店だよ」
「そうだね。いよいよ本人からりんごの歌、聴けるんだね」
かのんも由比もわくわくしていた。
同時に、三月の大空襲で生き残り、母親をなくしながら歌を唄いつづける並木路子という歌手に、畏敬の念が湧いた。
常連の客が多いような気がした。
着飾って、みんなリラックスしていた。
二人は、ワインとチーズとサラダを頼んだ。
「かのんさん、あなたはやっぱり結婚しないの?」
由比がワインを口にしながら、わかっているのにきいた。
「由比はどうしてなのよ」
かのんがききかえした。
「わたし、結婚したい。跡取りほしい。だけど、いい男いないもの」
由比は、つい本気で大きな声をだしていた。
「いい男って?」
「いい男……イメージ湧かないのよ」
すると突然、隣のテーブルに座っていた若い二人の男が話しかけてきた。
「失礼ですけど、どうせなら二人同士、一緒にいかがですか?」
二人ともポマードの頭に、櫛の目をきちんと入れた三十代の男だった。
サラリーマンではなさそうだった。
一人の男の手首には、重たそうな金のブレスレットが巻かれていた。
着ている背広も高級そうだったが、品がなかった。
二人とも、映画の主役の俳優の絵のように、シャツのエリの後ろはんぶんを立てていた。
そのシャツが赤や派手なアロハ調でなかったところが、かろうじての救いだった。
でも、やくざというわけでもなさそうだった。
かのんと由比は、顔を見合わせた。
「わたしたちは、二人で楽しみにきたのです。けっこうです」
かのんがはっきり答えた。
「楽しみにって、なにを?」
金鎖のほうが、かのんの意思を無視し、なおも話しかける。
「音楽をききにきたのよ。りんごの歌、ききたいんです」
由比がためらいなく応える。
「りんごの歌?」
「なんだそりゃあ」
もう一人の男が素っ頓狂な声をあげた。
店全体の空気が、ざわざわとさわいだ。
全員が、かのんと由比のテーブルのほうを見ていた。
店の男の従業員がやってきた。
「お客さん」
怖い顔だった。
「大きな声をだしていたので、みんあきこえました。でていってください」
いきなり、男の二人連れに告げた。
「この店はあなたたちが来るような店ではありません。他のお客に迷惑をかけるのでしたら、おひきとりください」
強引だった。
「なんだよ。となりの女に話しかけただけだろ」
「とにかく、あなたがたはわたしどもの店の客ではありません。さあ、お帰りください。でていってください」
店のマネージャーなのか、落ち着いたあしらいで二人をうながした。
有無をいわせない態度だった。
二人のポマードの男は、席からたちあがり、財布から金をだした。
「ひまだから、ばばあに声をかけただけじゃねか。こんな店、二度とくるかい」
いい残し、ドアのむこうに姿を消した。
「申し訳ありません。ちかごろ、あんな客がときどきやってきまして。ご迷惑をおかけいたしました」
かのんと由比は、わかったような、どこかよくわからないような顔を二人でならべた。
マネージャーらしき中年の男はすぐにさっし、説明した。
「ここは、たしかにあなたがたがおっしゃったように、りんごの歌をききにくるお客様の店なんです。でもときどき、そんな内容も知らずに入ってくるお客様がいらっしゃいます。ふつうのお客様ならそれでも問題はありませんが、あのようなお客様はお断りしております」
「不動産屋さんですか?」
由比がためらわずにきいた。
バブルの時代である。不動産成金という言葉はだれでも知っていた。
「そうみたいですね」
マネージャーらしき男がうなずく。
「地上げ屋さん?」
由比がさらにきく。
「ここにいらっしゃるお客さんのほとんどは、りんごの歌をご存知です。最近、この近辺にもあのような方が増えまして、ときどき当店にも入っていらっしゃいます。どうぞ気分を悪くせず、くつろいでいってくだい」
かのんの店にも男がきて、なんとか興行というような会社の名刺を置いていった。
医者の娘の花子が、店番をしていたときどきだった。
「パンチパーマをかけていた。ヤクザみたいだった。あれは地上げ屋だね」
花子は知ったような口調で告げた。
長くて黒い髪は、ビルマ娘のシンボルである。
黒い瞳が、遠い南国のビルマの夜空の星のように輝いていた。
薄褐色の肌は、もうすっかり日本人の肌の色に馴染んでいた。
パンチパーマの男は、こちらの店の借地の件で話がしたい、と言ったという。
かのんは大家さんに土地を借りている。
大家さんが新しい事業でもはじめようとしているわけではなかった。
土地の持ち主の大家さんですら知らないのに、地上げ屋たちは、勝手に動きまわっているのである。
妙な連中だし、ときには暴力沙汰を起こしたりもする不気味な輩でもあった。
道玄坂の店は、閉店時間前に、本人の並木路子がやってきた。
挨拶をし、りんごの歌を唄った。
店は、りんごの歌の大合唱になった。
レコードできいたときの歌声と変わっていなかった。
みなさん、明日も明るく生きましょうね」
黒っぽいドレスに襞のあるスカートをはいた、若々しい並木路子さんだった。
閉店してから、かのんと由比は、手をつないでりんごの歌を唄いながら、道玄坂の道を駅にむかった。
4
朝から三人の男がやってきた。
まだ閉まっている店の戸を乱暴に叩いた。
一人は、わざとそれらしくしているのか、丸い黒メガネをかけていた。
一人はパンチパーマである。
もう一人はワイシャツに背広を着、ネクタイを締めていた。
でも、唇がひん曲がっていた。ついでに着ている背広の肩も、古びた案山子みたく斜めに歪んでいた。
「ご主人ですね。わたし、このまえ挨拶にあがりました大塚興行の大塚です。いかがですか、考えておいてくれましたか?」
いきなりパンチパーマが訊いてきた。
「なんのことでしょう……」
かのんは、不吉なオーラの三人にふるえるほどの嫌悪感をおぼえた。
「あれえ?」
パンチパーマの大塚は、おどろいたように目を丸くした。
「話しておいたじゃないのよ」
「だから、なんのことですか」
「借地権のことだ、きまってるだろ」
クロメガネが顔をかしげ、ああん、と顎をしゃくる。
「借地権? 地主さんにはなんにもきいてませんけど」
かのんは、なんだろうと本当に思った。
「ばか。借地権のことなんか地主と関係あるかよお」
今度は背広の男が、般若の形相を作った。
どうやら、三人で脅しにきたようだった。
「このまえ、娘に話しといたじゃねえか」
パンチパーマが、当然のような口調でいった。
「べつになにもきいてません」
ちらり耳にはしたが、きいても意味がわからなかった。
「きいてないだあ?」
「きいてないですむか」
「朝からなんのために、三人でやってきたと思ってんだ」
「ばかにするのもいい加減にしろ」
三人で、勝手に怒りだした。
「ここの借地権をゆずれって話だよ」
「こんな銀座の一等地で、花屋なんかやってる場合かよ」
「ここをどこだと思ってる」
「一坪いくらすると思ってる」
「なあ。うんて、うなずいてなあ」
「ちょんて、ハンコついてくれりゃそれですむんだよ」
「かんたんじゃねか」
「あとは場所変えて、きれいなガラス張りのでかい店、どっかに造りゃいいだろう」
「こんな、馬小屋みたいな店じゃなくってよ」
「銀座の特等地じゃないの、ここ」
ようするに三人は、わけのわからない娘に一枚の名刺をわたして適当に話をし、言いがかりをつけにきたのだ。
これが、うわさにきく地上げ屋なのかと、三人を観察した。
ほかの場所でおきる騒動をよくきいていた。
が、自分の目の前にあらわれるとは思ってもいなかった。
「地主さんとは関係ないって、どういう意味ですか?」
「おまえが、借地権を放棄すればいいってこと」
「坪、三百万円が、二億、三億に化けるんだぜ」
「一生左団扇じゃねえか」
「どんな昔気質のシブチンのガンコ地主でも、最後にはウンてうなずくんだよ」
「左団扇がいいと、わたしは思わないけど」
ここは、どんぐりさんと小さいころに遊んだ歯科医院の跡だ。
混乱のとき、従兄弟の服部がピストルで撃たれた場所だ。
悲しい思い出は、美しくもある。美しい思い出は、生きる力と忍耐力を与えてくれる。
「帰ってください」
かのんは静かにいった。
「なにいってんだ。三億、四億だぞ。ばか」
かのんは無視し、引き戸を閉めようとした。
その戸を、パンチパーマの大塚が両手で押さえた。
「すぐ裏に地主さんがいますから、呼んできましょうか?」
かのんは、相手にしてはいけないと思いながらも、ちょっとまともに対応した。
「地主の問題じゃねえんだよ」
「おめえだよ。おめえ」
「おめえが、ここを立ち退いてくれれば、それでいいんだよ」
「いなくなったあとは、おれたちに任しときな」
「ばか」
最後にいったのは、かのんだった。
パンチパーマの胸を、両手でどんとついた。たいした力ではなかったが、思わぬ攻撃でよろけたすきに、戸を閉めた。
5
営業時間がきて、店を開けたとき、もう連中はいなかった。
ところが次の日の朝、またやってきた。
「おーい、気持ち変わったかあ?」
大きな声で呼びかけてきた。
すぐに帰ったが、次の日の朝にもやってきた。
まるでかのんをからかっているようでもあった。
また、いつか気が変わるに決まってる、と読んでいるようだった。
知らせをきき、まちうけていた大家さんの一人息子が、隣から医者の白衣姿ででてきた。
「なんだ、おまえらは」
「おまえこそなんだ」
「ここの地主だ」
「ここの地主は、おまえの親父だろ。関係ないのは、ひっこんでろ」
パンチパーマは、堂々としていた。
「警察を呼びますよ」
「こっちは商取引を持ちかけてんだ。こわくもなんともねえよ」
ふふんと鼻で笑ったような気がした。
だが、次の日から姿を現さなくなった。
その代わり、シャッターの前に、犬や猫の死骸が転がるようになった。
でたらめの花の注文がくるようになった。
頼んでもいない出前も届くようになった。
店の前に昼間からルンペンが座りこむようにもなった。
あげくは夜中、店や医院の前に糞尿をまかれた。
そして最後には、深夜の花屋の小火騒ぎである。
消防や警察がきたが、大塚興行と結びつくなにも見いだせなかった。
ある日、大塚興行の三人が、にやにやしながら店に入ってきた。
景気はどうですか、などときいてきた。
かのんはもっていた竹棒をふりあげた。
細い棒だったが、三人を力いっぱい叩いた。
「借用書に名前書い、印つくだけで、五億だぞ」
パンチパーマは叩かれながら、叫んだ。
こんな事件は、日本中のどこにでも起こっていた。
日本人は、頭がおかしくなってしまったのだ。
こんな人達が跋扈する世の中のため、特攻は自らの命をかけのか──。
何十万という人々が火に炙られ、死んでいったのか──。
その夜、由比の家を訪ねた帰り道、かんのは裏通りで車に跳ねられた。
命をねらわれたのかも知れない。
やつらは、あの土地の借用人さえいなくなればいいいと、考えていたのか。
あとは自分たちの方法でなんとかなると。
かのんは重症だった。
轢き逃げ犯の手掛かりはなかった。
●11章終
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