私の国宝と巡る二十五日間の旅

青西瓜

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【08 五日後、残り十九日】

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・【08 五日後、残り十九日】


 前日ヨータから、そろそろ国宝巡りがしたいという話を受けて、正直あんまり眠れなった。めっちゃ興奮している。
 当日になり、午前はいつも通り仕事をして、午後、早速電車に乗って奈良の大和文華館へ向かった。
 最寄駅から歩いて、まずは昼ご飯を食べることにした。
「今日はピザ屋さんです!」
 そう紹介しながら中に入り、私はすぐさま『まるで別の世界線裏メニュー』を頼んだ。
 出てきたのは刻んだ奈良漬が乗ったピザ。
「変わったピザだね」
 と笑顔で言うヨータに、既に私の嬉しさは最高潮だ。
 ずっと鱗マンさんと散歩して、外に慣れてきただけあり、電車に乗ってもツライ顔をすることは無かった。どうやら昨日は鱗マンさんと電車にも乗ったらしい。
 私の昨日はウェイラさんの愚痴を聞くという謎の時間があったので、その分、今日はヨータの笑顔に癒されたいと思っている。
 早速二人で奈良漬けのピザを食べてみると、奈良漬けの染みている味噌の味とチーズがめちゃくちゃ合う!
 発酵食品同士は相性が良いと言うけども本当にそうで、奈良漬けも刻んで乗っているので、しょっぱ過ぎることが無い。
 チーズもまろやかでコクがあり、塩気の薄いモッツァレラチーズなので、非常に合う。
 ヨータは頬が落ちそうな顔で、
「奈良漬けとチーズの組み合わせは勿論のこと、奈良漬けとパン生地も合うね。ちょっともちもちしていて、もしかしたら米粉パンかもしれないね。米と奈良漬けなら合って当然だもんね」
「米粉! 確かにそうかも! パリっと焼かれたところの香ばしさもお餅っぽくて、すごく美味しい!」
 そんな会話をしながら、完食して二人でお金を払って、ピザ屋さんから出て行き、ついに国宝のある大和文華館へ。
 そこには国宝・風俗屏風があった。
 豪華絢爛な金色の長い屏風。
 まずは彦根屏風から拝見することに。作者は不明だけども、狩野派様式で熟練な作風。
 ヨータは目を輝かせながら、
「何だか、人物の描きかたが独特で、でも魅力的だよね」
「うん、そうだね、まさしく国宝って感じ。三味線をしている人とかさ、スゴロクしている人もいて、こうだったんだなぁ、って感じがする」
「鳳凰みたいなのを描くのも勿論良いんだけども、当時の人を主役に描くのも何か味わい深いよね」
「そうそう、手紙を書いている人とか、そこを描くんだっ、みたいなところあるよねっ」
 ヨータと共感し合っていると、ヨータが少し笑いながら、
「刀を杖にしている若い男性もいるっ、こういうのってしていいんだ、というかやっぱりいたんだね、そういう人」
「本当だ! そういうの良くないって思っていたし、刀って神聖なモノだと思っていたけども、やっぱりいたんだね!」
「まさに風俗屏風だね」
 そんな話をしながら次は、もう一つの国宝・松浦屏風を拝見した。
 私はここで知識を爆発させることにした。事前に調べてきたこと。
「ほら、カルタをしている人もいるよね、カルタは江戸幕府が何度も禁止令を出したけども効果が全然無くて、幕末には今でも言うところの花札になっているんだってさ、要は賭け事だよね」
「カルタが花札の前身だったんだ、初めて知ったし、賭け事も絵にするって面白いし、そもそも賭け事している光景が国宝になってるのも面白いね」
「確かに。国宝ってめちゃくちゃ正式なモノになっちゃって」
 今回の国宝も見入ってしまい、何かすごいパワーがあった。
 誰かが発注して作ったのか、それとも作者が自分の力を爆発して作ったのかは分からないけども、すごく見応えがあった。
 ホクホクした顔で私もヨータも大和文華館を後にして、そろそろ帰ろうかとなったその時だった。
 坊主頭の高校生くらいの子にお金を渋々渡しているお母さんのような人がいて、その人がその自分の子がいなくなったタイミングで大きな溜息をついた。
 何か訳アリな感じがして可哀想と、どこか思ってしまった。
 話し掛けたい、そんな欲が出てきた。だって明らかに困っている顔をしているから。
 そのお母さんが家へ戻る前に、でもヨータをまた変なことに巻き込んだら、と葛藤していると、ヨータが私の顔を見ながら、こう言った。
「ゆに、何か気になっているんでしょ。家へ入る前に話し掛けたらいいんじゃないの?」
「えっ、分かった?」
「分かるよ、ゆにの友達だから」
「じゃあ、その、私、面倒事に首を突っ込んで、いいかな?」
「あの人がイカツ……いや、怖い人じゃなさそうだし、主婦のお方に話し掛けるくらいはいいんじゃないかな」
「そ! そうさせてもらっ! あ! ありがとう!」
 何だかもう家へ戻りそうだったので、私はヨータへの返事をそこそこにそのお母さんと思われる人に話し掛けた。
「あのすみません! 何か困っていることはありませんか! よろしければお話を聞かせてください!」
 急に話し掛けられて、さぞかしギョッとするだろうと思っていると、そのお母さんと思われる人はすぐさまこう言った。
「貴方、うちの子と同じ高校の子?」
「いえ、通りすがりの旅行客です」
「じゃあなおさらいいわ! わたし最近喋りたいことがあって、でも近所の人に言うと噂とかになっちゃうから! あー! ありがとねー!」
 そう言って私の手を握ってきたお母さんと思われる人、良かった、フレンドリーな感じだ。
 その様子を見ていたヨータも近寄ってきて、
「この子の連れです。僕も旅行客で新潟から来たヨータと申します」
「新潟! そりゃ遠出ねー! 二人は兄妹?」
「友達同士です」
「あらま! わたしの私事に付き合ってもらって悪いねぇ!」
 私は首をブンブン横に振って、
「私から話し掛けてきたんで気にしないでください!」
「じゃあ愚痴でもこぼさせてもらおうかなぁ! あっ、家の中でちょっとお話しましょう、人の家の中とか大丈夫っ?」
「私は全然大丈夫です!」
「僕も、むしろ外より中でありがたいです。日差しが強いですからね」
「じゃあ良かったわぁ! そうそう日差し日差し、あの子ったら……って話は中でしましょうかっ!」
 私とヨータは女性の家の中に入って、テーブルに座ったところで、ちょっとした雑談(私とヨータが国宝巡りをしているという話)をしたところで、女性が満を持してといった感じに語り出した。
「あの子ったらちょっと前までは髪型命って感じで、それはそれでうるさかったのに、急に坊主にしちゃって、二週間に一回は床屋代をせびってくるのよー」
 私は相槌を打ちながら、
「それはそれで髪型命なんですね」
「そうなのよー、坊主ってそんな短いスパンで刈ったりしないわよねー、あっ、貴方は普通の髪型だから坊主のことあんまり知らないわよね?」
 とヨータのほうを見ながら言うと、ヨータが、
「でも僕は小学生の時は坊主でしたけども、三ヶ月に一回くらいでしたよ」
「やっぱりそうよねー」
 うんうん、坊主のヨータも可愛かったよなぁ、と思い出して、ちょっとヨダレが垂れそうになっていると(ヨダレ垂れ合奏団)(うわぁ少年合唱団のライバル)(うわぁ少年合唱団にうわぁと言った勢いでヨダレを垂らすヤツがいて、スパイと思われてヤバイことになったことがある)、
「スパンが早い時は一週間に一回ということもあって、何か変よねーと思っているのよー」
 と何だか懐疑的って感じの顔を女性がすると、ヨータが、
「ところで顔スリはしているんですか?」
 女性はオウム返しするように、
「顔スリ?」
 と言うと、ヨータが、
「顔の毛を剃ってはいるんですか? それとも顔の毛を剃ることは法律上できないところの美容室ですかね」
「あー、そう言われると顔の毛はそのままよねー……あぁぁああ!」
 その女性が急にデカい声を出したので、私はちょっとビクンと体を波打たせてしまうと、
「顔剃り分のお金も渡しているかも! あの子、ちょろまかしてるかも! ちゃんとお釣りをぉっ!」
 私はなるほどと思って、こう言った。
「つまり、お釣りをもらうことが目的なのかもしれませんね」
「そうよ! 絶対そうよ! わぁあああ! あの子! 悪知恵をぉぉおおおおおおおお!」
 しかしヨータは少し浮かない顔をしていて、謎が解けたみたいな表情ではなかった。
 私はヨータへ、
「何か言いたいことがあったら、この際言ってみたら?」
 と言ったところで女性が、
「言って! 全部言って! わたしのために!」
 するとヨータが咳払いをしてから、こう言った。
「伊集院光さんがラジオで言っていたことなんですが、若い頃、仲間内でバリカンを買って、親から床屋代をもらってバリカンで刈り合っていたという話があるんです。だからもしかしたら全額くすねとっていたのかもしれません」
「全額ぅぅううううううううううううううう!」
 そう泡が吹きそうな顔をした女性、それはヤバイ。
 でも確かにその可能性あるかも。というかこんな謎解きにもお笑いラジオが関わっているなんて。
 女性はもうアツアツといったような、怒りの面持ちで、
「今すぐ呼び出して! 問いただす!」
 と言ったところで、ヨータが、
「それでは僕たちはこれで」
 とお暇しようとすると、その女性が手を伸ばして、
「待って! 一緒にいて! そっちのほうが心強い!」
 と言って、この展開はヤバイと思った。
 またヨータが罵詈雑言浴びせられてしまう、謎を解いた代償が行なわれてしまう、と思って、
「あっ、大和文華館の時間もあるので」
 と既に見た場所だけども、嘘ついて私は帰ろうとすると、
「嫌よ! 最後まで面倒見てよ!」
 と何だか涙ぐみながらそう言ったので、もういるしかなくなってしまった。
 ヨータが小声で、
「仕方ないよ。嘘ついてまで帰ろうとしてくれてありがとう」
 でもその嘘が成功しないと意味無いのに……もしかするとまた私選択ミスった……? またヨータが酷い目に遭っちゃったら嫌だなぁ……。
 LINEで呼び出されたその坊主の子は七分後にはすぐやって来た。
 というかすぐ来れる時点でやっぱり床屋じゃない。
「あっ、えっ、誰ぇぃ……」
 とか細くツッコミながら部屋に入ってきた坊主の子はそこから説教&説教(説&教でも可)。
 坊主の子は全てを認めて謝罪したが、既に丸刈りだった。
 全てが終わり、私とヨータはそそくさと家から出ると、誰かに呼び止められた。
 それはあの坊主の子で、ヤバイ! めちゃくちゃ文句言われる! と思っていると、その坊主の子がこう言った。
「逆におれの相談に乗ってもらっていいかなっ、この嘘を見破るなんてすごい人だとお見受けしてなんだけどもっ」
 ヨータと顔を見合わせた私。
 ヨータはうんと頷いて、
「分かりました。話を聞きましょう」
 と言って、ヨータがそんな積極的にならなくてもいいのに、と思ったと同時に、そうか、ここ断ったら罵詈雑言われそうだもんね、とも思った。
 その坊主の子の部屋で話を聞き始めた
「実はちょっと悪めの子らと賭け事、インディアン・ポーカーをしていて、それにハマっちゃってさ。でも何か変なんだよね。向こうは二人組で、こっちは一人ずつって感じなんだけども」
 賭け事ってそんな風俗屏風じゃないんだから、現代はそれ描かれても国宝にはなんないよ、全く、とか思っていると、ヨータが、
「まあ場所と状況によってはイカサマできますよね」
「でもさ、怪しい素振りは無いんだよ、音の回数や光の回数などの怪しいところは無いんだ」
 私はう~んと唸ってから、
「いやでもイカサマするなら回数系だよね、じゃあスマホをポケットに入れて、振動を送っているとか?」
 その坊主の子は違うといった顔で、
「スマホのバイブの音って意外と大きいじゃん、それも無いと思う」
 するとヨータがハッキリとした声でこう言った。
「トランプはたかだが十三までしかないですからね、十三種類の目印くらいその日その日で覚えられると思いますよ」
 坊主の子はハッとした顔をしたし、私も多分したと思う。
 そうか、十三種類くらい覚えられるか、例えば右耳上触って1とか、右耳たぶ触って2とか、そうやって細かく分けていけば全然余裕じゃん。
「じゃあそっかぁ……」
 とこうべを垂れた坊主の子へヨータが、
「そんなにインディアン・ポーカーがしたければ、すぐトランプに手をつけて、他のトランプに十四以降の数字をペンで書けばいいんじゃないんですか。向こうが用意したトランプに十四以降の数字を書くだけ。インディアンポーカーは全五十二で対決したって別に良いゲームですからね。それなのに嫌がったら十三種類の目印があるということだと思いますよ」
「そうだ、確かにそうだわ、ちょっと油性ペン持って、アイツらのとこ行くわ。ありがとう、ちょっとあの、LINEだけ交換してもらっていい? また何か困ったことができたら相談したいし、今回の結果も伝えたいし」
 ヨータがスマホを出そうとしたんだけども、この坊主の子が突然豹変して罵詈雑言送ってくる可能性もあるので、
「私と交換でいいですか? こちらのヨータとはいつでも繋がっているのでっ」
「……? あぁまあ全然構わないけども」
 そう言って私と坊主の子がLINEを交換して、その家を後にした。
 私とヨータが民宿に戻ったところでその坊主の子からLINEがきて、
『「興が削がれたから帰る」と胴元に言われて帰らされた もう二度と来るなみたいなこと言われた やっぱりそういうイカサマだった 教えてくれて本当にありがとう もしそっちが何か困ったことがあったら絶対助けるから』
 というメッセージが届いた。
 私はホッと胸をなで下ろしながら、ヨータにも見せると、
「良かったね、ゆにの積極性はやっぱり人を良い方向に変えるんだよ。ゆにのおかげで僕はちょっと成長できたような気がする。ありがとう」
「そ! そんな! ほとんどヨータが解決しちゃったじゃん!」
「そんなのは運みたいなもんだよ、それよりも行動を起こしたゆにがすごいんだからさ」
 ヨータの優しい笑顔にドキドキしてしまった。
 やっぱり、私、ヨータのことが好きかもしれない……って落ち込む必要も無い。ヨータのことが好き。それで最高じゃん。今一緒に旅行しているんだから!
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