桐之院家の日誌

斉凛

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●五ペエジ

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 その日は、遠くかすかに雷鳴が轟き、激しい雨が降る夜だった。まるでこの後の出来事を予兆していたかのようだ。
 旦那様の書斎は、本の匂いで充満していた。月の光もない暗闇が侘しいのか、部屋中にたっぷりと灯りをつけ、昼間のように明るく照らす。
 旦那様と御坊ちゃまが向かい合わせで座り、私はその間に立つ。これから起こることを考えて、思わずスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
 御坊ちゃまの顔は思い詰めたように、何度も身を震わせながら、思い切って話を切り出した。

「僕は来年卒業します。その後どうしたらいいでしょうか? 父上」

 ゆっくりと、慎重に言葉を選ぶ姿は、強い想いが感じられた。

「どうする? お前の好きにすればいい」
「好きに? 父上の仕事を継ぐ必要はないということですか?」
「手続き上養子にしたが、私はお前に仕事を継いでほしいと思ったことはない」

 私はこの時初めて、御坊ちゃまが養子だということを知った。薄々妙だとは思っていたのだ。
 旦那様は独り身で奥様がいらっしゃらなかったし、旦那様と御坊ちゃまは、まったく似ていなかったから。
 旦那様はいぶかし気に首を傾げて、静かに尋ねる。

「私を父と思う必要も無い。自分の将来を決めるのに、赤の他人の意見が欲しいのか?」

 その時近くで大きな雷が落ち、稲光が瞬いた。まるで御坊ちゃまの激しい怒りのようだった。
 御坊ちゃまは立ち上がって、大きく声を張り上げた。

「私は貴方の息子ではないのか! では何の為にわざわざ高い金を払って、僕を買って養子にしたのか!」
「買った!」

 私はつい言葉をあげてしまった。興奮した御坊ちゃまは、ぎらりとした眼で私を見る。これほど激高する姿を見るのは初めてだ。

「そうだ……僕は売られたモノだった。家族も財産も何もかも失って、この身はモノと成り果てて、裏社会で奴隷のように売られた。そして非合法な世界でわざわざこの人は僕を買った」

 長いこと溜め込んだ想いを吐き出したのだろう。旦那様を見下ろし、溢れる言葉が止まらないという風情で、早口でまくしたてる。

「でも……この十年。この人は何も理由を説明しないし、僕に何も求めない」

 興奮すればするほど、どんどん早口になる。まるで自分を嘲笑うかのように、薄笑いを浮かべながら、その眼(まなこ)は光を失った深い闇そのものだ。

「何もかも失って、誰も信じられなくなって、それでも理想の息子を演じ続けていたのに。息子の地位すら奪って、貴方はこれ以上何を求めるんだ!」

 御坊ちゃまの悲痛な叫びを真正面から浴びても、旦那様は眉をひそめるだけで、まるで凪いだ海のように静かだった。「僕に何を求めるのですか」絞り出すようにゆっくりと御坊ちゃまが言葉を繰り返す。

「私はお前に何も求めていないし、期待もしていない。好きに生きればいい。ただそれだけだ」

 息子のことでさえ興味がないといわんばかりの淡々とした言葉が、繊細な御坊ちゃまの心を打ち砕いたのだろう。無言で部屋を出て行った。追いかけて部屋を出ようとした時に、旦那様は私を呼び止めた。

「美佐。わかっていると思うが。今の話も全て日誌に書きなさい。一言一句違わずに」

 それだけ言って旦那様は、一人の世界に沈んで行った。



 私は御坊ちゃまがどれだけ気落ちしてるのか、不安で恐る恐る、部屋の扉をノックした。小さな声で許可をもらって部屋に入る。
 御坊ちゃまは今までに見せたことのないほどに、だらしのない姿でソファに寝そべっていた。シャツのボタンをいくつか外し、気崩した様は、ぞくっとする程の色香を讃えている。
 良家の跡取り息子。その役を今まで演じ続けて優等生であろうとしていたのだろう。その仮面を捨ててむき出しにした御坊ちゃまは、危ういほどに退廃的だ。

「美佐……僕はこの家に、あの人にとっていらない人間なんだね」
「そ、そんなこと……」

 ない……と言いたかったが、あの旦那様の言葉を眼にしたばかりで、断言することができなかった。御坊ちゃまはちらりと私を見て、皮肉気に笑った。

「君は嘘をつけない子だね。そういう所は気楽だけど……こういう時には鬱陶しい。嘘でも必要だと言ってくれればいいのに」
「す、すみません」

 御坊ちゃまは立ち上がって、壁にかけられた外套を手に取った。

「……飲みに行ってくる」

 夜遊びをしに行くなんて、今まで一度も見たことがない。御坊ちゃまも自棄になっているのだろう。とても心配だった。

「こんな時間に危ないです。お酒ならご用意してお持ちしますので……」
「馬鹿な子だね。ただ酒を飲むだけじゃ……満ち足りないんだよ。気晴らしに女でも買おうと思った。それとも……美佐が相手をしてくれるのかい?」

 その言葉の意味に、恥ずかしさと恐ろしさに身をすくませた。
 大きく動揺したけれど、このまま夜の世界に飛び出したら、御坊ちゃまが二度と帰ってこなくなる気がして、どうしても引き止めたくて……私は御坊ちゃまの袖を引いた。

「それで……御坊ちゃまの気がすむなら、好きにしてください。だから……お願いです。この家から出て行かないでください」

 震える声でそう言って俯いた。どんな返事が返って来るのか、何をされるのかもわからない。
 子供の頃に近所の男の子と遊んだことはある。でも年頃になればはしたないと言われるから、家族以外の男性と話さなくなった。
 このお屋敷にあがるまで、男の人と手を繋いだこともなかったし、御坊ちゃまほど長く話し込んだ男性は他にいない。
 ぎゅっと瞼を閉じて、長い間御坊ちゃまの返事を待っていた。どれくらいたっただろう。何度も深呼吸を繰り返してから、声を絞り出すように囁いた。

「ごめん……美佐。君を困らせて。家は出ていかない。酒を持ってきてくれないか。酌をするだけでいいから」

 その声はとても悲し気だったけど、それでも落ち着いていてほっとした。
 命じられたとおり酒を持ってきて酌をする。御坊ちゃまは無言で酒を飲み、酔って溺れるように眠った。私に指一本触れずに……。

 ーーその日を境に、桐之院家はさらに歪んで行った。
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