桐之院家の日誌

斉凛

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●六ペエジ

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 あの日以来、御坊ちゃまは旦那様を避けるようになった。学校に通って勉強を続けてはいたが、何かに打ち込むことで逃げたいように見えた。
 旦那様は御坊ちゃまに避けられても、今までどおり静かな一人の世界に浸っている。あまりに何も変わらない雰囲気が不気味ですらあった。

 御坊ちゃまが一人で食事をするのは、寂しいのではないかと思い、毎日御坊ちゃまが夕食を食べている間、側に寄り添った。その時だけ、ぽつりぽつりと御坊ちゃまは本音を零す。

 御坊ちゃまがこの家の養子になられたのは十一歳の時。突然旦那様が家に連れてきて養子にすると言ったとか。使用人一同驚いたが、旦那様に近い親族もなく、誰も反対できなかったと。

「僕は……売られると解った時に、自分は誰かの玩具になって、慰み者になるのかと思ってた。こんな容姿だしね。そういう目的であの人が買ったのだと思った。でも……あの人は指一本触れなかった」

 この屋敷に来たばかりの頃は、使用人達もそういう目的の為に連れてきたのかと、勘ぐって噂していたらしい。それが御坊ちゃまの耳にも入っていた。

「その後……あの人が吸血鬼だと知った。自分は餌で、血を吸われて死ぬのかと思った。殺されるのが怖くて、少しでも気に入られれば、生かしてくれるだろうかと、媚びるようにすり寄った。でもあの人は一度たりとも血を吸わなかった」

 御坊ちゃまがそんな想像をするのも無理はない。化物に血を吸われるかもしれないと、どれだけ怯えた日々を過ごしたことだろう。

「跡継ぎとしての子供が欲しかったのか。優秀な子供として振る舞えば、恐ろしい想いをせずにすむかと思って、必死に勉強を頑張って、良家の子息らしい振る舞いも身につけて……。そうして十年」

 御坊ちゃまは、生気の乏しい、黒々とした深い闇のような瞳でぼんやりと虚空を眺める。

「僕を買ったのはただの気まぐれで、いつ捨てられて放り出されるのだろうとびくびくしてた。でも僕に何も期待をしていないなら、なぜ買ったのか? あの人が理解できない。……それが怖い」

 私にも旦那様の気持ちがまったくわからなかった。
 御坊ちゃまが言うには、この十年、旦那様の外見も生活も、何一つ変わらないそうだ。
 何にも興味を示さず、自分の世界に閉じこもり、孤高の世界で、ひっそりと息をしている。


 春が終わってうだるような暑い夏が訪れても、二人の冷えきった関係が治ることはなかった。
 旦那様は夏でも、暑さなど感じていないかのように、長袖のシャツを着ている。汗一つ流さず、涼しい顔をして、飲み物もいつも熱い紅茶を好まれた。

 夜の仕事中、お茶をいれながら、旦那様の様子を観察し、ふと気になることがあった。
 本に眼を通す時、眼をすがめ、何度も眼鏡のずれを直したり、灯りのほうに本を向けたりしている。老眼で眼が見えなくなってきたのだろうか? 前からそうだっただろうか?

 旦那様に気をとられていたのがいけなかった。うっかり手を滑らせ、大きな音を立ててカップを落としてしまった。

「も、申し訳ございません」

 自分の不調法に真っ青になって、大きな声で謝罪をしたのに、旦那様はまったく気にもとめずに本を見ている。酷く違和感を感じたが、ひとまず割れたカップを片付けなければと床に手を伸ばす。

「いたっ……」

 慌ててカップの欠片で右手の人差し指を切ってしまった。白い指にぷくりと赤い液体が滲み出す。このまま滴り落ちたら、絨毯に染みを作ってしまう。それは不味いと思って、左手で指先を包み込む。
 その時いきなり手首を掴まれた。旦那様が私の指先に口をつけて血を舐める。

 その瞬間、全身の産毛がぞわりと浮きたち、下腹がうずくような不思議な高揚感が全身をかけめぐった。初めての感覚にわけもわからず、がくんがくんと身体が戦慄き力が抜けて行く。不思議と心地良かった。

 気づいた時には私の血は全て舐めとられ、傷口も塞がっていた。はっと気づいて旦那様を見ると、とても恥ずかし気に顔をそらした。

「すまなかった。……つい、甘い匂いに誘われて。こんなことをするつもりはなかったのだが……」

 自分の行為に恥じいるように、肩を振るわせる。その時確信した。この人は吸血鬼なのだと。私の血の匂いに本能的に逆らえないくらいにけだものなのだと。

 恐ろしくてぞっとした。でも同時に不思議でもあった。

 そんな本能を身の内に潜ませながら、どうして毎日あれだけ静かな日々を過ごせるのか。御坊ちゃまに手をつけず、血を混ぜたデザートだけで生きるのか。

 ーー旦那様は何かを隠している。そう私が想いはじめたのもこの頃だ。
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