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怒り

1.

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 センセーが家に来てから、家の中の空気が少しずつ変わってきていたのが分かる。
 だって、あの母が私にあまり辛く当たらなくなった。
 ご飯の差別も、少しだけ変わってきたような気がする。
 少しずつ平等に、なってきている気がする。

 希望的観測でなければ――
 でも、だからこそ、私は油断していたのかもしれない。

「勉強で聞きたいことがあるから部屋に行くよ」
「うん」

「……海木くんと真乃花、随分仲が良いのねぇ」
「おばさん、それ、遠回しに俺の事をけなしてる?どうせ真乃花に教えてもらわなきゃ、赤点を回避出来ない頭だよ」

「そんなこと言ってないわよ~。真乃花が役に立つなら良かったわ。しっかり教えてあげてよね、真乃花。あなたに出来る唯一の事なんだから」
「そ、そうだね……」

「おばさん、言い方」
「あら、ごめんなさーい。
 じゃあ――しっかりね……?」
「……うん」

 私は母の恐ろしさを、見くびっていた。
 その一言に、尽きる――



「できた!」
「色々ありましたね」

「センセーがたくさん教えてくれたからだろ」
「あなたが世間の事を知らなさ過ぎたので、つい口出ししてしまいました」

 二人して、私の部屋でテーブルに置かれた紙を覗き込んでいる。
 紙には、文字がずらりと並んでいた。
 一番上には「私のやりたいこと」と言う文字が書かれている。

「この家を出て、自由になって、私がやりたいこと……こんなにあるんだな」
「服を買う、好きな漫画を買う、映画を見に行く。そしてゲームをする――うーん」

「!?」

 さっきは褒めてくれたのに、なんでため息!?
「不満でもあんのかよ」と言うと、センセーは困った顔で尚も画面を見続ける。

「いやね、だって、あなた女子高生でしょう?もっと、こう……
 恋がしたい――とか、ないんですか?」
「え」

 言われてみれば……確かに。

「でも、服買いたいとか、こういうのは女子っぽいだろッ?」
「そうですけど……あなたの場合、メンズの服を買いそうな気がします」
「さすがにそれはねーよ!」

 バシッとセンセーを叩く。
 すると、やっぱりセンセーは柔らかくて……。
 私は、人の感触に、少しだけ安心する。

「なあセンセー。人って、柔らかいんだな」
「え……」

「え?」
「……いや、何でも」

「?」

 目を開いて驚くセンセー。
 な、なんだよ。私そんなに変なこと言ったかよ。

「なに?」
「だから、何でもないですって」

 していないメガネをスチャとかけ直すしぐさをした後、センセーは再び画面を見る。
 センセーは海木の姿に少しずつ慣れてきてるらしいが、メガネの癖だけは抜けないらしい。

「で、あなたの恋の話でしたっけ?」
「(話をはぐらかした?)」

 不自然なセンセーの態度……違和感を覚える私を置き去りにして、センセーは勝手に話を進める。

「大樹くんに恋をしているから、したいことリストに”恋がしたい”と書かないのですか?あなたも一途ですね」
「い、一途っていうか……!
 いや、だから……こんな私と結婚しよなんて言ってくれる奴は、大樹しかいねーよ」

「なるほど。となると、大樹くんを選んでいるのは消去法ですか?」
「は?」

 瞬間、耳を疑った。

「自分と結婚してくれるって言ってくれたから、大樹くんに恋をしているのですか?」
「え、ちょ、」

「恋をしている――という言い方ではやや曖昧ですね。
 では、単刀直入に聞きます。
 あなたは大樹くんの事を好いていますか?」
「!」

 なんか、恋バナみたいな感じになってきた。
 いや実際は恋バナなんだけど……なんだろ。
 センセーからの圧が、重い気がする。

「わ、分かんねーって言ったら?」
「自分が大樹くんの事を好きか分からない、という事ですか?」

「いや結婚はしてーよ。恋もしてるって……思ってたよ」

 さっきまではな。

「でも、そんなに掘り下げて話されると、混乱するだろ。もう六年も会ってねーんだ。
 前も言ったろ、大樹との思い出を忘れかけてんだよ、私は!」

 その言葉に、センセーは首を傾げた。

「あなたと大樹くんほどの関係がありながら、その思い出を忘れるなんてこと、ありえますかねぇ?」
「な、なにが言いたいんだよ?」

「いえ、私はただ……」
「ただ?」

「……いえ、今はよしておきましょう」

 その言葉に、私の体がガクッとズレた。
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