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4章 呪詛、虚ろ花(前)
2.櫻春宮の黒百合(1)
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翌日。華紅妍は春燕宮に向かった。永貴妃に頼んだ瓊花近くの花を詠むためである。永貴妃に挨拶をした後、庭に出る。庭を任されているらしい宮女が紅妍を案内した。
「杜鵑花が植えてある」
庭の奥に杜鵑花が植えてあった。先日祓った周小鈴が好んだ花である。すると宮女は言った。
「永貴妃様に命じられて持ってきたのです。大都の外れで侘しく咲いていましたから、それならばこの庭に植えた方がいいだろうと仰って」
「……良いと思う。この庭によく似合ってる」
「ありがとうございます」
ここで杜鵑花が咲くのは来季だと思っていた。それがまさか、あの庭から移してくるとは。小鈴が愛でた杜鵑花をすぐにでもここに植えたかったのだろう。永貴妃は温かな心を持っているが豪胆な一面もあるようだ。
ついで紅妍の瞳は瓊花を捉える。永貴妃が話していた通り花の季は終えている。
(瓊花の鬼霊に関するかもしれない。本当は瓊花を花詠みしたかったけれど)
その近くに石楠花が咲いていた。桃紅色をした花が緑の葉によく映える。宮女にひと言告げて、一輪手折る。それを手に乗せ、花の記憶を見る。
花は雄弁に語る。詠みたがっているのだ。けれど聞く力を持っていなければ花がどれだけ詠みあげようと聞こえない。手中に乗せた石楠花に意識を傾ける。この花はのびのびと穏やかに育っているようだ。
(あなたが視てきたものを、教えてほしい)
ゆっくりとほぐれていく。意識は溶け、石楠花と混ざり合う。そこからは数多にある花の記憶から、探しているものをつかみ取らなければならない。花の記憶は膨大だ。ひとつひとつの記憶は絹糸のように細い。
(瓊花の鬼霊に関するもの。あなたは、瓊花の鬼霊を知らない?)
花に問いかける。探している記憶がある時、花が心を開いていればそれは自ずと寄ってくる。紅妍はその記憶をつかみ取るだけだ。しかし、今回は何も来ない。探しているものがないというより、この石楠花が知らないようである。
紅妍は瞳を開いた。
「……ここにある瓊花ではない」
ぽつりと呟き、ゆっくりと枯れていく石楠花を木の根元に戻す。完全な花詠みとならなかったので枯れていくのに時間がかかる。
「ごめんね。違うのに、あなたを手に取ってしまった」
石楠花が可哀想に見えたので詫びる。石楠花は微笑むように桃紅色を濃くした後、一瞬で褐色になる。風が吹けば枯花は朽ちて、土と混ざるのだろう。
瓊花はここではない。内廷に植えられた瓊花はさほど多くないはずだ。秀礼が調べると言っていたので結果を待つしかないだろう。
(次は、黒百合があるという櫻春宮)
紅妍は宮女に礼を告げ、春燕宮を後にした。
春燕宮から櫻春宮までは近い。どちらも春の名を冠しているので近くに建てられている。
高塀に囲まれた通路を歩いていく。供に連れてきた藍玉や冬花宮宮女が数名。みなを引き連れて歩いていくのだが。
(誰かついてきている?)
紅妍らの後から少し遅れて、何者かがついてきている気がする。何度か振り返って確かめたがその姿は確認できない。血のにおいはないので鬼霊の類いではないだろう。
(気のせいかもしれない。鬼霊じゃないなら放っておいた方がいいか)
下手な面倒ごとに関わるまいと紅妍は前を向いた。
そうして櫻春宮に着いた。璋貴妃が使っていたという宮である。現在は誰も使っていないので手入れはそこまでされていない。今回の目的は櫻春宮の庭にあった。
見渡すと、黒百合は簡単に見つかった。庭の奥、雑草の茂みからひょこりと伸びた花がある。周りに百合は植えられていない。そこだけ不自然に黒百合が咲いていた。
百合の季は合っている。だが黒というのがどうにもおかしい。そこは塀の近くで陽がささず湿度に満ちているというのに、黒百合は陽が当たっているかのように花を開いている。違和感があった。
(なるほど。これは、いやな花だ)
しかし櫻春宮に、呪詛が持つ独特の気は流れていない。あれはその場所を身が重たくなるような陰鬱とした気に満たすものだが、ここはそれが感じられなかった。
紅妍は藍玉たちに離れるよう命じた。もしも何か起きては困るからと遠ざけたのである。藍玉は華妃が見える位置の、少し離れた場所で見守ると決めたようだ。
宮女を遠ざけたところでいよいよ黒百合に近づく。花の近くで身を屈め、まずはじいと黒百合を眺めた。
(生気がない花)
あらためてそう感じた。花は生き物だ。同じ木から咲いたものであっても形や色など個性を持ち生きている。同じ種類の花だからといってすべて同じではない。それぞれが見る記憶は異なる。花や草に近づくとみずみずしい気を感じるのはそれらが生気を持っているからだ。
しかしこの黒百合から生気をまったく感じない。紅妍は黒百合にそっと触れる。花詠みをする時のように意識を傾けて、花に語りかける。
花に触れても反応はない。空っぽの場所に手を伸ばしているようだ。
(虚ろ花。これは空っぽで、何もない花だ)
虚ろ花は、人の手によって作られたもの。自然の理に背いて存在するのだから生気は持たず、人の世を見ることもない。摘んで花詠みをしたところで得られるものは何もない。花の形をして、けれど花ではないものだ。
ではなぜ、理に背いた花がここにあるのか。それも忌み色である黒の百合が。
(……呪詛)
この花は呪詛があったことを証明している。櫻春宮のあたりに呪詛の気はないことから、この黒百合は既に役目を終えているのだろう。
虚ろ花として存在する黒百合は摘んだとしても、数刻ほど経てばここに戻り、夜も花を閉じることはない。役目を終えた虚ろ花だとしても祓わなければ残り続ける。
こういう時にも花渡しは使える。魂を乗せずとも花を覆う負の感情ごと浄土に渡すのである。この百合にとってもそれが救いになるはずだ。
意を決して黒百合を摘む。茎は簡単にぽきりと折れた。みずみずしさは感じられない。
(可哀想だ……こんな風に使われてしまうなんて)
元は美しい百合を咲かせていたのだろう。それが呪詛の元として使われ、ねじ曲げられてしまった。それを思うだけで胸が痛む。
花は多くを語る。詠みたがっているのだ。人がそれを聞く術を持たないだけである。きっとこの花も語りたいことがあっただろう。それもできず、虚ろになってしまった花。
(わたしは、この花を救いたい)
両の手に花を乗せて、瞳を閉じる。集中する。自分自身は細い糸のようになり、花の中に溶けていく。虚ろ花に語りかけるのだ。
(これからあなたを浄土に送る。もう誰かを呪わなくてもいい)
空っぽの花は答えない。そしていつもの花渡しよりも難しい。花はゆっくりと煙となって溶けていき、それまでに聞こえるのはこれまで花が背負ってきた苦しみだ。込められていた負の感情が紅妍の身を襲う。鋭く、針のようなものが身に刺さっていくようである。
(百合が抱えていた痛み……これほど辛い思いをしてきた)
理を捻じまげられ存在しているうちに蓄えた負の感情。それを受け止めながら少しずつ煙に溶かしていく。
「花よ、渡れ」
額が汗が浮かんだ。いやな汗である。べったりと張り付くようなそれは紅妍の体が痛むことを示しているようでもあった。噛みしめた奥歯が鳴る。痛くてたまらない。花を乗せた手は痛みに震えているので花が煙と溶けていくそれが揺れている。
(虚ろ花を祓うのは……こんなにも苦しいなんて……)
この花にどれほどの恨みが込められていたのだろう。ぐ、と唇を噛んで痛みに耐える。
(この花が背負った苦しみはこれ以上だった。鬼霊が背負う紅花の苦しみだって、わたしがいま味わっているものよりつらいはず)
だから屈してはならないと自らを奮い立たせる。
ようやくすべてが煙になった。黒百合は白煙になり、風に流され宙にのぼっていく。
それを見上げた後、紅妍は長く息を吐いた。額は汗ばみ、体までべったりと汗をかいている。疲れ果て、その場に座りこんでしまいたいほどだ。
その時である。
「華妃様! 鬼霊、鬼霊です!」
「杜鵑花が植えてある」
庭の奥に杜鵑花が植えてあった。先日祓った周小鈴が好んだ花である。すると宮女は言った。
「永貴妃様に命じられて持ってきたのです。大都の外れで侘しく咲いていましたから、それならばこの庭に植えた方がいいだろうと仰って」
「……良いと思う。この庭によく似合ってる」
「ありがとうございます」
ここで杜鵑花が咲くのは来季だと思っていた。それがまさか、あの庭から移してくるとは。小鈴が愛でた杜鵑花をすぐにでもここに植えたかったのだろう。永貴妃は温かな心を持っているが豪胆な一面もあるようだ。
ついで紅妍の瞳は瓊花を捉える。永貴妃が話していた通り花の季は終えている。
(瓊花の鬼霊に関するかもしれない。本当は瓊花を花詠みしたかったけれど)
その近くに石楠花が咲いていた。桃紅色をした花が緑の葉によく映える。宮女にひと言告げて、一輪手折る。それを手に乗せ、花の記憶を見る。
花は雄弁に語る。詠みたがっているのだ。けれど聞く力を持っていなければ花がどれだけ詠みあげようと聞こえない。手中に乗せた石楠花に意識を傾ける。この花はのびのびと穏やかに育っているようだ。
(あなたが視てきたものを、教えてほしい)
ゆっくりとほぐれていく。意識は溶け、石楠花と混ざり合う。そこからは数多にある花の記憶から、探しているものをつかみ取らなければならない。花の記憶は膨大だ。ひとつひとつの記憶は絹糸のように細い。
(瓊花の鬼霊に関するもの。あなたは、瓊花の鬼霊を知らない?)
花に問いかける。探している記憶がある時、花が心を開いていればそれは自ずと寄ってくる。紅妍はその記憶をつかみ取るだけだ。しかし、今回は何も来ない。探しているものがないというより、この石楠花が知らないようである。
紅妍は瞳を開いた。
「……ここにある瓊花ではない」
ぽつりと呟き、ゆっくりと枯れていく石楠花を木の根元に戻す。完全な花詠みとならなかったので枯れていくのに時間がかかる。
「ごめんね。違うのに、あなたを手に取ってしまった」
石楠花が可哀想に見えたので詫びる。石楠花は微笑むように桃紅色を濃くした後、一瞬で褐色になる。風が吹けば枯花は朽ちて、土と混ざるのだろう。
瓊花はここではない。内廷に植えられた瓊花はさほど多くないはずだ。秀礼が調べると言っていたので結果を待つしかないだろう。
(次は、黒百合があるという櫻春宮)
紅妍は宮女に礼を告げ、春燕宮を後にした。
春燕宮から櫻春宮までは近い。どちらも春の名を冠しているので近くに建てられている。
高塀に囲まれた通路を歩いていく。供に連れてきた藍玉や冬花宮宮女が数名。みなを引き連れて歩いていくのだが。
(誰かついてきている?)
紅妍らの後から少し遅れて、何者かがついてきている気がする。何度か振り返って確かめたがその姿は確認できない。血のにおいはないので鬼霊の類いではないだろう。
(気のせいかもしれない。鬼霊じゃないなら放っておいた方がいいか)
下手な面倒ごとに関わるまいと紅妍は前を向いた。
そうして櫻春宮に着いた。璋貴妃が使っていたという宮である。現在は誰も使っていないので手入れはそこまでされていない。今回の目的は櫻春宮の庭にあった。
見渡すと、黒百合は簡単に見つかった。庭の奥、雑草の茂みからひょこりと伸びた花がある。周りに百合は植えられていない。そこだけ不自然に黒百合が咲いていた。
百合の季は合っている。だが黒というのがどうにもおかしい。そこは塀の近くで陽がささず湿度に満ちているというのに、黒百合は陽が当たっているかのように花を開いている。違和感があった。
(なるほど。これは、いやな花だ)
しかし櫻春宮に、呪詛が持つ独特の気は流れていない。あれはその場所を身が重たくなるような陰鬱とした気に満たすものだが、ここはそれが感じられなかった。
紅妍は藍玉たちに離れるよう命じた。もしも何か起きては困るからと遠ざけたのである。藍玉は華妃が見える位置の、少し離れた場所で見守ると決めたようだ。
宮女を遠ざけたところでいよいよ黒百合に近づく。花の近くで身を屈め、まずはじいと黒百合を眺めた。
(生気がない花)
あらためてそう感じた。花は生き物だ。同じ木から咲いたものであっても形や色など個性を持ち生きている。同じ種類の花だからといってすべて同じではない。それぞれが見る記憶は異なる。花や草に近づくとみずみずしい気を感じるのはそれらが生気を持っているからだ。
しかしこの黒百合から生気をまったく感じない。紅妍は黒百合にそっと触れる。花詠みをする時のように意識を傾けて、花に語りかける。
花に触れても反応はない。空っぽの場所に手を伸ばしているようだ。
(虚ろ花。これは空っぽで、何もない花だ)
虚ろ花は、人の手によって作られたもの。自然の理に背いて存在するのだから生気は持たず、人の世を見ることもない。摘んで花詠みをしたところで得られるものは何もない。花の形をして、けれど花ではないものだ。
ではなぜ、理に背いた花がここにあるのか。それも忌み色である黒の百合が。
(……呪詛)
この花は呪詛があったことを証明している。櫻春宮のあたりに呪詛の気はないことから、この黒百合は既に役目を終えているのだろう。
虚ろ花として存在する黒百合は摘んだとしても、数刻ほど経てばここに戻り、夜も花を閉じることはない。役目を終えた虚ろ花だとしても祓わなければ残り続ける。
こういう時にも花渡しは使える。魂を乗せずとも花を覆う負の感情ごと浄土に渡すのである。この百合にとってもそれが救いになるはずだ。
意を決して黒百合を摘む。茎は簡単にぽきりと折れた。みずみずしさは感じられない。
(可哀想だ……こんな風に使われてしまうなんて)
元は美しい百合を咲かせていたのだろう。それが呪詛の元として使われ、ねじ曲げられてしまった。それを思うだけで胸が痛む。
花は多くを語る。詠みたがっているのだ。人がそれを聞く術を持たないだけである。きっとこの花も語りたいことがあっただろう。それもできず、虚ろになってしまった花。
(わたしは、この花を救いたい)
両の手に花を乗せて、瞳を閉じる。集中する。自分自身は細い糸のようになり、花の中に溶けていく。虚ろ花に語りかけるのだ。
(これからあなたを浄土に送る。もう誰かを呪わなくてもいい)
空っぽの花は答えない。そしていつもの花渡しよりも難しい。花はゆっくりと煙となって溶けていき、それまでに聞こえるのはこれまで花が背負ってきた苦しみだ。込められていた負の感情が紅妍の身を襲う。鋭く、針のようなものが身に刺さっていくようである。
(百合が抱えていた痛み……これほど辛い思いをしてきた)
理を捻じまげられ存在しているうちに蓄えた負の感情。それを受け止めながら少しずつ煙に溶かしていく。
「花よ、渡れ」
額が汗が浮かんだ。いやな汗である。べったりと張り付くようなそれは紅妍の体が痛むことを示しているようでもあった。噛みしめた奥歯が鳴る。痛くてたまらない。花を乗せた手は痛みに震えているので花が煙と溶けていくそれが揺れている。
(虚ろ花を祓うのは……こんなにも苦しいなんて……)
この花にどれほどの恨みが込められていたのだろう。ぐ、と唇を噛んで痛みに耐える。
(この花が背負った苦しみはこれ以上だった。鬼霊が背負う紅花の苦しみだって、わたしがいま味わっているものよりつらいはず)
だから屈してはならないと自らを奮い立たせる。
ようやくすべてが煙になった。黒百合は白煙になり、風に流され宙にのぼっていく。
それを見上げた後、紅妍は長く息を吐いた。額は汗ばみ、体までべったりと汗をかいている。疲れ果て、その場に座りこんでしまいたいほどだ。
その時である。
「華妃様! 鬼霊、鬼霊です!」
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