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4章 呪詛、虚ろ花(前)
2.櫻春宮の黒百合(2)
しおりを挟む後ろの方から悲鳴が聞こえた。藍玉のものだ。
花渡しに集中していたので気づいていなかった。意識すれば確かに、ひどく濃い血のにおいが漂っている。
紅妍は振り返った。鬼霊は藍玉たちを無視してこちらに歩き、紅妍のすぐそばまで迫っていた。
「藍玉! 逃げて!」
「ですが華妃様が――」
「わたしは大丈夫だから」
鬼霊は紅妍を見ている。藍玉たちには目もくれていないが、その気がいつ変わるかはわからない。逃げるならば今のうちだ。
宮女たちの一部は櫻春宮から逃げたようだが藍玉はまだ残っていた。もう一度、紅妍は叫ぶ。
「逃げて!」
紅妍の剣幕に気圧されたのか、ついに藍玉も足を動かした。腰を抜かして座りこんでいる宮女の手を取って離れていく。
それが去ったのを確かめた後、紅妍は鬼霊と対峙する。まだ少しばかり距離がある。その長い爪を振り上げたところでこちらには届かない。
(女人の鬼霊。そして――)
面布で隠しているため顔はわからない。しかしその面布には瓊花が咲いていた。その瓊花は秋芳宮宮女の最期を思い出す。
(まさか、これが瓊花の鬼霊)
面布の瓊花は白い。となれば別に紅花が咲いているはずだ。鬼霊は死の原因となった箇所に紅花を咲かせる。見れば鬼霊の左胸に黒い瓊花が咲いていた。
(鬼霊に黒花なんて聞いたことがない。どうして)
それは不自然なほどに黒い。黒百合と同じ、重たく沈むような黒色だ。
おかしなことはそれだけではなかった。鬼霊の指である。両の手指に黒い百合が咲いている。百合にしては小さすぎるのだが、形にまちがいはない。その百合もまた黒かった。いくつもの小さな黒百合が咲く隙間から、伸びた鋭い爪がある。
これまでに紅妍が見たことのない鬼霊だった。
その異様な姿に気を取られてしまったがため、鬼霊との距離が詰まっていることに気づいた時には遅かった。
(まずい。これではもう……)
庭は塀に囲まれていて、紅妍がいるのは庭の奥である。これ以上の逃げ場はない。そして目の前には瓊花の鬼霊。花を摘む時間はない。もし花があったとしても、先ほどの黒百合を花渡しするのに体力を消耗しすぎてしまった。一時の難を逃れるための花渡しさえ、難しいだろう。
絶体絶命という言葉があるのならこの時かもしれない。何とか時間を稼げればいいのだが――じり、と後退りをした瞬間、瓊花の鬼霊が手を振り上げた。
「紅妍!」
終わりかと目を伏せようとした時、誰かが紅妍の名を呼んだ。その声に瓊花の鬼霊が動きを止める。
おそるおそる瞳を開いて覗き見れば、こちらへと駆けてくる者がいた。光を浴びて光るは宝剣。鞘から抜かれて黄金色の刀が光っている。
「秀礼様!」
こちらに駆け寄るその姿の名を呼ぶ。彼は鬼霊の後ろに立つと宝剣を構えた。
「……私の宝剣は鬼霊を斬り祓う。覚悟しろ」
鬼霊は振り返り秀礼を見やる。先ほどまで紅妍を追い詰めていたのが形勢は逆転し、秀礼と紅妍に挟まれている。しかも秀礼が持つは鬼霊を斬り祓う宝剣だ。
瓊花の鬼霊はしばし動きを止めていたが、足先からするすると黒煙があがる。少しずつ姿が薄くなっていく。
「待て! 逃げる気か!」
秀礼が叫び、宝剣を振るった。
しかしそれよりも瓊花の鬼霊が消える方が早かった。宝剣が切り裂くは消えた後の黒煙であり、鬼霊の姿は消えていた。
「……くそ、逃げ足の速い鬼霊だ」
手応えから瓊花の鬼霊を斬れなかったとわかったのだろう。秀礼は眉間に皺を寄せて鬼霊がいた場所を睨めつけている。
あたりから血のにおいが消えていく。瓊花の鬼霊は身を隠してしまった。どこかに潜んでいるのだろう。気配がないので追うこともできない。
秀礼は宝剣を鞘に戻した後、紅妍に寄った。
「無事か?」
「……はい。助けていただきありがとうございます」
秀礼の元へ一歩寄ろうとしたが、うまく足が動かない。花渡しの疲労だけでなく、瓊花の鬼霊と対峙して竦み上がっていたのだ。よたよたとした紅妍の動きから察したらしい秀礼が手を差し伸べる。紅妍はその手を借りてようやく、一歩を踏み出す。
「秀礼様はどうしてこちらへ?」
「近くを通りかかった時に、冬花宮の宮女と会ってな。櫻春宮で鬼霊に襲われ逃げてきたと聞いた。途中で藍玉ともすれ違った。あれも無事だから安心するといい」
藍玉らも無事と聞いて安堵する。何事もなくてよかった。
しかし秀礼はまだ納得ができていないらしい。ふらふらと歩く紅妍を訝しんでいる。
「何かあったのか? あの鬼霊も花渡しで立ち向かえばよかっただろう。ひどく疲れた顔をしている」
「先ほど、ここに咲いた虚ろ花を花渡ししていました」
「虚ろ花?」
「おそらく呪詛に使われた花だと思います。役目は終えていて空っぽでしたが祓わなければ理に背いて咲き続けます。それを祓うのに……少し、疲れました」
足がもつれる。紅妍が転ぶ前に秀礼がそれを支えた。
櫻春宮の門には人影がある。誰かがこちらを見ているらしい。藍玉らが戻ってきたのかと思ったが、その人影はすぐに消えたので藍玉ではないのだろう。
(また、誰かが見ている)
確かめるにもそのような力がない。少し経つと藍玉や冬花宮宮女らが戻ってきた。鬼霊がいないことや秀礼の姿を確かめるなり、こちらに駆けてくる。
「華妃様!」
青ざめた藍玉が駆けてくる。紅妍はすぐに声をかけた。
「わたしは無事だから安心してほしい。怪我もしていない」
「でも顔色よくありません。まさか先ほどの鬼霊に……」
「花渡しで少し疲れただけだから、大丈夫」
声をあげるのも億劫だ。人の声を聞くことさえ頭の奥が痛い。
(虚ろ花を祓う代償は、こんなにも重いなんて)
ため息を吐く。眠気がひどい。歩くのもままならずふらふらとしてしまう。
その姿を見かねて秀礼が動いた。「静かにしていろ」と小さく告げたと思いきや身を屈める。何事かと思いきや、体がふわりと浮いた。紅妍の足は地から離れ、しかし足などに妙なぬくもりを感じる。視点も高い。見上げれば間近に秀礼の顔があった。
「こ、これは――」
「黙っていろ。その様子では冬花宮まで歩くのもままならぬだろう」
軽々と、抱きかかえてしまったのである。あまりの近さに紅妍は唇を引き結ぶ。鬼霊と対峙した時とは異なる意味で顔が強ばった。頬が熱い、気がする。
「冬花宮へ行くぞ。華妃を休ませる」
秀礼は藍玉らに告げた。どうやら紅妍の意志を無視して、このまま冬花宮まで向かうつもりらしい。
秀礼が歩くたび、紅妍の体も揺れる。自ら歩かずに景色が進んでいく。それもいつもと違う視点の高さで。
(これは……少し恥ずかしいな)
不安定さから逃れるために何かを掴みたいがうまくできず、手を泳がせていると秀礼が笑った。
「腕でも首でも好きなところを掴んでおけ」
「い、いや……それはさすがに……」
「では落ちても文句を言わぬことだ」
少し迷って、秀礼の襟を軽く掴む。こうして紅妍を抱きかかえて歩くのだから、想像しているよりもたくましいのだろう。確かに時折触れる胸元は厚い。女人とは違うのだとあらためて認識した。
(熱が出そうだ)
それは疲れからか、はたまた違うものか。ともかく紅妍は瞳を閉じた。いまは、この揺れが心地よい。
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