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5章 呪詛、虚ろ花(後)
2.黄金の剣と華仙女(1)
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震礼宮を出て坤母宮へと向かう――はずだった。
道中は中ほどまで進んだところである。後ろから誰かが駆けてきたと思えば、それは光乾殿付きの韓辰だった。
「秀礼様、申し上げます!」
手を組んだり膝をついたりとする余裕はない。火急の案件らしい。宦官の焦りは秀礼や清益にも伝わる。
「なんだ。申せ」
「帝の容態が芳しくありません。急ぎ光乾殿までお越しください」
「なに――」
帝の御身が急変した。秀礼そして清益が青ざめる。
「いまはわずかながら意識を取り戻しております。貴妃、そして皇子らを集めるよう申しつけられています」
「……っ」
どうやら華妃は対象に含まれていないらしい。だが秀礼は光乾殿に向かわなければならない。秀礼は迷っているようだった。それを見かねた清益が言う。
「秀礼様、光乾殿に参りましょう」
「だが……」
「ここでもし第二皇子の融勒様が先に着いたとなれば、宝剣を持つ秀礼様であっても選ばれるかはわかりません」
次の天子を定めるのは帝である。秀礼が宝剣に選ばれたからといって必ず帝になるとは限らない。もしも秀礼が間に合わなければ、最期に立ち会えなかったという不名誉が与えられてしまう。
清益、そして韓辰は秀礼が動くのを待っている。
しかし秀礼はというと――逡巡の後、答えを呟く。
「光乾殿は……行かぬ」
その言葉に清益、韓辰が表情を変えた。
「華妃ひとりを坤母宮に行かせれば何が起きるかわからぬ」
「帝がこのような状況だというのにそれは!」
「わかっている! だが、坤母宮に行けば帝を苦しめる呪詛を祓えるかもしれんのだ。この機を見逃すわけにはいかない」
「しかし帝はいまにも……」
「私は、華妃と共に坤母宮に行く」
秀礼が言っていることは確かだ。紅妍の予想が合っているのなら、坤母宮に行けば光乾殿の気を和らげるだろう。
秀礼は清益らが引き止めるのも聞かずに歩き出す。そこで、さらなる人物が現れた。
「秀礼様!」
清益や韓辰とは違う、甲高い女の声。振り返ればそこにいたのは辛琳琳だった。おそらく、紅妍の後をつけていたのだろう。
(後をつけていたのは琳琳か)
これが武官の類いならば、上手に尾行をするはずだと思った。妃が誰かに依頼をするのだとしても密偵に向く者を選ぶだろう。ここ数日、後をつけてきた者は気を隠すのが下手だった。尾行していますと言わんばかりの動きから、そういった行動になれていない者だと判断していた。
(そして尾行してでも、わたしの不利益となる情報を得たい人物となれば、数は絞られる)
だから辛琳琳だろうと思っていた。その琳琳は後をつけて、この話を聞いてしまったのだろう。彼女もまた青ざめていた。次の天子になるだろうと慕っている秀礼が、帝ではなく紅妍を選ぼうとしているのだ。紅妍のせいで宝座を逃すかもしれない。
「その者は帝の妃ですよ! どうして帝よりも華妃を優先するんです?」
感情的な叫びが後宮に響く。秀礼は嫌気たっぷりに琳琳を眺めた後、わざとらしく息を吐いた。
「お前には関係ない。これは私の問題だ」
「秀礼様の妃になるべくはわたしです。目をおさましください秀礼様、その華妃は怪しげな術で秀礼様を惑わせているだけです! だからどうか華妃を捨て置いて光乾殿へ。あなたは帝になるべき方なのですから」
とにかく琳琳は必死だった。紅妍が嫌いだからというより、秀礼のことをよく思って引き止めているのだろう。清益や韓辰よりもまっすぐに思いをぶつけている。
(清益、韓辰、琳琳――様々な人が秀礼様の即位を望んでいる)
そして、大都の人も。ああして宮を抜け出し、民のふりをして大都を知ろうとする男だ。髙をよくするのは秀礼だろうと、紅妍も思う。
(宝座に座るのは、秀礼様がいい)
紅妍は改めて秀礼を向く。
「秀礼様。坤母宮はわたし一人で参ります。わたしは華仙術師。この先に呪詛があろうが鬼霊があろうが、花さえあれば祓ってみせましょう」
「……また、鬼霊に襲われるかもしれないぞ」
「大丈夫です。わたしは帝をお救いするため宮城にやって参りました。ですからわたしは坤母宮で呪詛を祓いましょう。秀礼様はどうか光乾殿へ」
それでもまだ秀礼は決めかねているようだった。もしかすると、先の一件で紅妍が寝込んだことを気にしているのかもしれない。思い違いかもしれないが、紅妍はにっこりと微笑んだ。いままででいちばん、上手く笑えたと思う。
「秀礼様が宝剣を振るう苦しみを背負うのなら、わたしが祓います。ここまで秀礼様にたくさん助けていただきましたから、今度はわたしが秀礼様を助けます」
紅妍のためにと宝座を捨てるようなことはしてほしくない。力強く秀礼を見つめた。
その瞳に晒され秀礼はしばし俯いていたが、紅妍に背を向けた。そして叫ぶ。
「光乾殿へ向かう!」
清益や韓辰らが膝をついて揖する。琳琳もまた安堵しているようだった。
みなの姿を眺めながらも、紅妍は歩き出す。見送るような暇はない。紅妍は急ぎ坤母宮に向かわなければ。
「華妃様。坤母宮に参りましょう」
さも当然といった顔をして藍玉がついてくる。これにも紅妍は首を横にふった。
「藍玉。宮女たちを連れて、冬花宮で待っていてほしい」
「どうしてです。危険なところであればわたしたちも――」
「だからこそ安全な場所にいてほしい。もしも瓊花の鬼霊がでたら、わたしはみなのことを守り切れないかもしれないから」
藍玉は目を潤ませ、じいと紅妍を見る。紅妍もまた強い意志を瞳に湛えていた。
「……わかりました」
「助かる。必ず戻るから待っていてほしい」
「ではそのように致します。華妃様のお戻りを……お待ちしております」
紅妍は頷いた。そして坤母宮へと駆け出す。歩くような時間はなかった。
(帝の危機が迫っているいま、急いで呪詛を解かなければ)
目指すは坤母宮。深く暗い蒼緑色をした、辛皇后の宮だ。
道中は中ほどまで進んだところである。後ろから誰かが駆けてきたと思えば、それは光乾殿付きの韓辰だった。
「秀礼様、申し上げます!」
手を組んだり膝をついたりとする余裕はない。火急の案件らしい。宦官の焦りは秀礼や清益にも伝わる。
「なんだ。申せ」
「帝の容態が芳しくありません。急ぎ光乾殿までお越しください」
「なに――」
帝の御身が急変した。秀礼そして清益が青ざめる。
「いまはわずかながら意識を取り戻しております。貴妃、そして皇子らを集めるよう申しつけられています」
「……っ」
どうやら華妃は対象に含まれていないらしい。だが秀礼は光乾殿に向かわなければならない。秀礼は迷っているようだった。それを見かねた清益が言う。
「秀礼様、光乾殿に参りましょう」
「だが……」
「ここでもし第二皇子の融勒様が先に着いたとなれば、宝剣を持つ秀礼様であっても選ばれるかはわかりません」
次の天子を定めるのは帝である。秀礼が宝剣に選ばれたからといって必ず帝になるとは限らない。もしも秀礼が間に合わなければ、最期に立ち会えなかったという不名誉が与えられてしまう。
清益、そして韓辰は秀礼が動くのを待っている。
しかし秀礼はというと――逡巡の後、答えを呟く。
「光乾殿は……行かぬ」
その言葉に清益、韓辰が表情を変えた。
「華妃ひとりを坤母宮に行かせれば何が起きるかわからぬ」
「帝がこのような状況だというのにそれは!」
「わかっている! だが、坤母宮に行けば帝を苦しめる呪詛を祓えるかもしれんのだ。この機を見逃すわけにはいかない」
「しかし帝はいまにも……」
「私は、華妃と共に坤母宮に行く」
秀礼が言っていることは確かだ。紅妍の予想が合っているのなら、坤母宮に行けば光乾殿の気を和らげるだろう。
秀礼は清益らが引き止めるのも聞かずに歩き出す。そこで、さらなる人物が現れた。
「秀礼様!」
清益や韓辰とは違う、甲高い女の声。振り返ればそこにいたのは辛琳琳だった。おそらく、紅妍の後をつけていたのだろう。
(後をつけていたのは琳琳か)
これが武官の類いならば、上手に尾行をするはずだと思った。妃が誰かに依頼をするのだとしても密偵に向く者を選ぶだろう。ここ数日、後をつけてきた者は気を隠すのが下手だった。尾行していますと言わんばかりの動きから、そういった行動になれていない者だと判断していた。
(そして尾行してでも、わたしの不利益となる情報を得たい人物となれば、数は絞られる)
だから辛琳琳だろうと思っていた。その琳琳は後をつけて、この話を聞いてしまったのだろう。彼女もまた青ざめていた。次の天子になるだろうと慕っている秀礼が、帝ではなく紅妍を選ぼうとしているのだ。紅妍のせいで宝座を逃すかもしれない。
「その者は帝の妃ですよ! どうして帝よりも華妃を優先するんです?」
感情的な叫びが後宮に響く。秀礼は嫌気たっぷりに琳琳を眺めた後、わざとらしく息を吐いた。
「お前には関係ない。これは私の問題だ」
「秀礼様の妃になるべくはわたしです。目をおさましください秀礼様、その華妃は怪しげな術で秀礼様を惑わせているだけです! だからどうか華妃を捨て置いて光乾殿へ。あなたは帝になるべき方なのですから」
とにかく琳琳は必死だった。紅妍が嫌いだからというより、秀礼のことをよく思って引き止めているのだろう。清益や韓辰よりもまっすぐに思いをぶつけている。
(清益、韓辰、琳琳――様々な人が秀礼様の即位を望んでいる)
そして、大都の人も。ああして宮を抜け出し、民のふりをして大都を知ろうとする男だ。髙をよくするのは秀礼だろうと、紅妍も思う。
(宝座に座るのは、秀礼様がいい)
紅妍は改めて秀礼を向く。
「秀礼様。坤母宮はわたし一人で参ります。わたしは華仙術師。この先に呪詛があろうが鬼霊があろうが、花さえあれば祓ってみせましょう」
「……また、鬼霊に襲われるかもしれないぞ」
「大丈夫です。わたしは帝をお救いするため宮城にやって参りました。ですからわたしは坤母宮で呪詛を祓いましょう。秀礼様はどうか光乾殿へ」
それでもまだ秀礼は決めかねているようだった。もしかすると、先の一件で紅妍が寝込んだことを気にしているのかもしれない。思い違いかもしれないが、紅妍はにっこりと微笑んだ。いままででいちばん、上手く笑えたと思う。
「秀礼様が宝剣を振るう苦しみを背負うのなら、わたしが祓います。ここまで秀礼様にたくさん助けていただきましたから、今度はわたしが秀礼様を助けます」
紅妍のためにと宝座を捨てるようなことはしてほしくない。力強く秀礼を見つめた。
その瞳に晒され秀礼はしばし俯いていたが、紅妍に背を向けた。そして叫ぶ。
「光乾殿へ向かう!」
清益や韓辰らが膝をついて揖する。琳琳もまた安堵しているようだった。
みなの姿を眺めながらも、紅妍は歩き出す。見送るような暇はない。紅妍は急ぎ坤母宮に向かわなければ。
「華妃様。坤母宮に参りましょう」
さも当然といった顔をして藍玉がついてくる。これにも紅妍は首を横にふった。
「藍玉。宮女たちを連れて、冬花宮で待っていてほしい」
「どうしてです。危険なところであればわたしたちも――」
「だからこそ安全な場所にいてほしい。もしも瓊花の鬼霊がでたら、わたしはみなのことを守り切れないかもしれないから」
藍玉は目を潤ませ、じいと紅妍を見る。紅妍もまた強い意志を瞳に湛えていた。
「……わかりました」
「助かる。必ず戻るから待っていてほしい」
「ではそのように致します。華妃様のお戻りを……お待ちしております」
紅妍は頷いた。そして坤母宮へと駆け出す。歩くような時間はなかった。
(帝の危機が迫っているいま、急いで呪詛を解かなければ)
目指すは坤母宮。深く暗い蒼緑色をした、辛皇后の宮だ。
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