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5章 呪詛、虚ろ花(後)
2.黄金の剣と華仙女(2)
しおりを挟む禍々しい気が満ちている。前に来た時よりも、坤母宮は邪気に淀んでいた。
紅妍は脇目もふらず、庭に向かう。呪詛の元となる虚ろ花の場所は見当がついていた。
(百合の茂みの奥に、木香茨があるはず)
百合の花詠みをして意識を失ったとき、黒の木香茨が咲いているのを見た。木香茨の木はないというのに、地面から小枝が伸びて花を咲かせていたのだ。間違いなく虚ろ花だろう。
紅妍は庭奥にある百合の茂みを見やる。塀の影、日の当たらないじめついた場所――百合の花をかきわけると、やはりそこに黒の木香茨があった。季は終わっているというのに、咲き誇っている。
(ここに咲くということは、木香茨は坤母宮を呪った――つまり辛皇后が呪われた)
辛皇后は呪詛をかけられて殺されたのだ。木香茨の呪詛は辛皇后を苦しめるものだったのである。
だが櫻春宮で見つけた百合の虚ろ花と違って、この木香茨はいまだに鬱々とした負の気を放っている。周囲に満ちる草木の生気を吸っては、それに負の感情を混ぜてどこかへ送っているようである。
(この木香茨の呪詛は終わっていない)
木香茨の呪いが辛皇后に向けられたもので、呪詛によって辛皇后が死んだのなら――呪詛は代償を求める。呪詛を行ったものを呪うのだ。その方角はおそらく、光乾殿。
坤母宮に流れる邪気が変わる。禍々しいだけではなく、むせかえるような血のにおいが漂った。鬼霊だ。そしてその鬼霊がどこにいるかも、わかる。紅妍は振り返らずに告げた。
「瓊花の鬼霊、いえ、辛皇后」
この鬼霊は声を聞くはずだ。だからこそ紅妍は声に出して告げる。
「あなたは帝に呪詛をかけられて死んだのね」
木香茨の呪詛をかけたのは間違いない、帝だ。
呪詛は成り、呪詛をかけられた辛皇后は死んだ。だからこそ呪詛は代償を求める。帝の身を襲ったのはそのためだろう。辛皇后は代償として指を失うだけで済んだが、帝の場合は代償として失うものが指よりも大きい。それほどまで辛皇后を恨み、確実に殺したかったのだと考えられる。
紅妍は虚ろ花となった木香茨を摘み、振り返る。そこにいたのはやはり瓊花の鬼霊となった辛皇后だった。
「……華妃、疎ましい存在よ」
「鬼霊となり痛みに耐えてでも自我を保つ。あなたがそれほどにこの世に未練を残していることは知っている。でも、どうして」
辛皇后は紅妍を指で示す。小さな黒百合が覆う指がしめしたのは、手中にある虚ろ花だ。
「我は、帝に呪われた。許すまじ、許すまじ」
「あなただって璋貴妃を呪ったのだから、呪われたとして仕方ないでしょう」
「そうだとも。帝は我を皇后にしておきながら、璋貴妃を選んだ。だから妬ましい、腹立たしい、憎くて憎くてたまらない」
ぐう、と憎悪に満ちた呻きが漏れる。辛皇后の胸に咲いた黒塗りの瓊花が揺れた。そこから黒い液体がたれる。花びらではなく泥のようで粘ついたものだ。花では覆いきれないほど怨念を腹にため込んでいるのだろう。
紅妍は後ろ手に花を摘む。白百合だ。ちょうど鬼霊が呻き声をあげていたので気づかれずに済んだ。
(花があれば、とりあえずは難を逃れられる)
完全な花渡しとならず浄土に送れなくとも、一時の難は逃れられるだろう。手に花があるだけで安心する。
「秋芳宮の宮女長を殺したのも、あなたね。どうして楊妃を陥れようとしたの」
「帝に関わるすべての者が妬ましい。楊妃も甄妃も、そして鬼霊を祓う華妃も。できることなら直接帝を斬り殺してやりたい。それができぬのは――ああ、あやつが」
これに紅妍は首を傾げた。これほど強く自我を保っている辛皇后なら帝を襲えただろうに、それができなかった理由がわからない。
(『あやつ』とは誰だろう)
鬼霊に立ち向かえる者がいるとしたら紅妍か秀礼だ。その二人でないとするなら一体誰が。
しかし逡巡の間は与えられなかった。辛皇后が手を振り上げる。ぼとぼとと黒の液体が地に落ち、血のにおいが濃くなった。
「――っ!」
咄嗟に身を翻す。少しでも判断が遅れていたら腕もしくは脚が斬られていたかもしれない。
辛皇后は紅妍を殺める気なのだ。紅妍は唇を噛み、じりと後ずさる。
「華妃、厄介な存在、消えてしまえ」
その言葉と共にもう一度、辛皇后が動いた。今度は横に凪ぐような動きである。
紅妍は斜め前方の地面へと飛びこんだ。間一髪、それも避けることができた。もしも逆の手でなぎ払われていたらどうなっていたかわからない。
(いまは少し、宝剣が羨ましい)
宝剣であれば防戦一方にはならないだろう。あれならば斬り祓うとまでいかずとも厄介な長い爪は抑えられたはずだ。
(せめて黒百合が咲く指だけでも落とせれば)
ぎり、と奥歯を噛む。華仙術にそのような術はない。あれは宝剣に比べると柔らかなものである。花は詠みたがりの優しい存在だ。華仙術はその力を借りるだけである。
再び辛皇后がこちらを向く。これならば白百合で花渡りをして一時の難を逃れた方がいい。いずれ復活するだろうがこの状況よりは――覚悟を決め、白百合をてのひらに乗せた時である。
「……お、叔母上、ですの?」
門の方から声がした。鬼霊の意識がそちらに向く。紅妍も門の方を見た。
「琳琳!」
慌てて叫ぶ。そこにいるのは辛皇后の姪である、辛琳琳だった。
秀礼と共に光乾殿に向かったと思い、尾行する者はいないと気を緩めていた。まさかここまでついてくるとは。
琳琳にとって辛皇后は見知った人物だろう。瓊花を縫い付けた面布で顔を隠していてもわかってしまう。青ざめ、震えた声でもう一度名を紡いだ。
「叔母上、どうして、鬼霊なんて――」
この声を辛皇后は聞いているだろう。しかしその程度で、憎悪が晴れることはない。むしろ格好の的である。辛皇后は紅妍から琳琳へと狙いを移した。
「だめ、逃げて!」
「お、叔母上……そんな……」
迫りくる辛皇后に怯え、琳琳は座りこんでいる。これでは逃げるどころかあの爪を避けることさえ出来ない。
そしてこれでは花渡しをする間もないだろう。紅妍は駆けた。
(間に合え!)
幸いにも鬼霊の動きは遅い。胸から垂れる粘ついた液体が辛皇后の動きを鈍くしているのだろう。その隙に紅妍は琳琳の前に回り込む。両手を広げて、琳琳を庇うように立ち塞がった。
「か、華妃……様……」
「立て、逃げろ! あれはもう辛皇后じゃない。妄執に囚われた鬼霊だ!」
それでも琳琳は動けない。腰を抜かしているのだろう。その身に触れていないのに琳琳ががたがたと震えていることが伝わってくる。
(だめだ。琳琳は動けない。こうなれば身を挺して守るしか――)
紅妍の前に鬼霊が立つ。ついに辛皇后が手を振り上げた。
(――っ、秀礼様!)
ぎゅっと固く目を閉じる。頭に浮かぶのはなぜか秀礼のことだった。
今頃、光乾殿にいるだろう。紅妍のことを待っているかもしれない。
(もっとおそばにいたかった。お役に立ちたかった)
別れる前、ひどく寂しそうな目をしていた。紅妍のことを案じ、このまま光乾殿に向かってよいのかと揺らいでいたことだろう。
(大都を歩いた時も、みなで蜜瓜を食べた時も、すべてが楽しかった。わたしの一生で最大の幸福があるとすれば秀礼様がいた時だ)
笑顔が、浮かぶ。頭を撫でられた時の、あの大きな手が愛おしい。危機は目前まで迫っているというのに、どうかもう一度と欲深いことを願ってしまう。
(遠くからでもいい。あなたが宝座に座る瞬間を見たかった)
たとえ妃になれぬとしても。愛されぬとしても。死期を前にして思うことは、そばにいたかったという純粋な願い。
その紅妍に、風が吹く。鬼霊が手を振り下ろしたのだ。長い爪が紅妍に向かって落ちる。
終わりの瞬間がきたのだと、思っていた。
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