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5章 呪詛、虚ろ花(後)
2.黄金の剣と華仙女(3)
しおりを挟む痛みが届くよりも先に、鼓膜が揺れる。何かを弾くような、金属の甲高い音が響いた。紅妍はそのようなものを身につけていない。体に痛みはなく、何かが触れたあともない。
これはどういうことだろうかと、おそるおそる瞼を開く。
そこにいたのは鬼霊ではない。影だ。大きな影が、紅妍の姿を覆っている。たくましいその背をゆっくりと見上げる。風に揺れる長い髪。その手が握りしめるは、光を浴びて黄金色に輝く宝剣だった。
「……間に合ったか」
宝剣の主が呟く。そこにいるのは秀礼だった。幻ではなく本物の、英秀礼である。
彼は宝剣で爪を受け止めていた。ぎりぎりと歯を噛みしめて耐えているようだったが、ついに爪を振り払う。そのはずみで辛皇后がたじろいだ。
「秀礼様、なぜここに――」
「話は後だ! 辛皇后を抑える。その間に琳琳を逃がせ」
秀礼の怒声で紅妍も我にかえる。そうだ。辛皇后をどうにかしなければ。
紅妍は琳琳の手を掴んで引きずるようにし、坤母宮を出る。門から少し離れたところならば大丈夫だろう。そこで琳琳の手を離そうとすると、涙で潤んだ瞳が紅妍を見上げた。
「わ、わたし……華妃様にひどいことばかりしてきたのに、どうして庇うなんて……」
「誰であろうと守るだけ」
「でもわたしは……華妃様に守ってもらう資格なんて……」
琳琳としては忌み嫌ってきた華妃に守られたことに衝撃を受けているのだろう。彼女の矜持は崩れ去り、涙としてこぼれているような気がした。
「大丈夫だから。立ち上がって、ここから離れて」
紅妍は琳琳の肩を優しく叩く。それからもう一度、坤母宮を見やる。
再び駆け出す。琳琳の泣き声はしばらく聞こえていたが、紅妍が坤母宮に入るとそれも聞こえなくなった。
坤母宮の門をくぐると秀礼が宝剣を構えて、辛皇后を睨めつけていた。
宝剣の所持者である秀礼が来たことは心強い。これならば厄介な指を斬り落とすことができるだろう。それに指は黒百合で覆われている。百合の呪詛を仕掛けた反動として失った箇所だ。宝剣で切り落とせば、辛皇后を蝕む痛みは減るかもしれない。
「秀礼様、あの指を斬り落とせますか」
「わかった」
頷くと同時に秀礼が駆ける。その勢いに気圧された辛皇后が後退りをしたが、秀礼の方が早い。
すかさず懐へと入り込み、剣で斬り払う。うまく、片手の指を落とすことができた。ぼたぼたと地に落ちる。
次いで、くるりと回転するように身を翻す。鬼霊は指を失ったことで動じているのか動きが鈍い。今度はあっさりと対の手も落とすことができた。指は黒い液体をこぼし、無数に咲いた小さな黒百合に覆われたまま落ちていく。
「よし。斬り落としたぞ」
秀礼の合図と共に紅妍も辛皇后のそばに寄る。長い爪を失ったことで攻撃手段は防いだ。あとは浄土に送るだけである。
(想いが詰まった品はない。うまく浄土に送れるかはわからないけれど――)
手中にのせた白百合に力を託す。そこで、辛皇后の面布が落ちた。はらりと地に落ち、その顔が顕わになる。
「……我は、」
何かを言おうとしている。花渡しのために集中していた気は途切れ、紅妍は皇后を見上げた。
「呪詛など、かけなければよかった」
その声は先ほどと違い、正気を感じるものだった。
指に巣くった黒花が辛皇后を苦しめていたのだろう。しかしそれは宝剣によって斬り捨てられた。百合の呪詛の代償から解き放たれているのである。そのため一時でも我に返ったのかもしれない。
「璋貴妃が、宝剣を扱う子を産んだ璋貴妃が、妬ましかった」
これに秀礼が険しい顔をして問う。
「母に呪詛を仕掛けたのは、辛皇后か?」
「そうだ。けれど、知らなかった。呪詛の痛みがこれほどにひどいことを」
「当たり前だ。人を殺すような道具だ。代償はあるに決まっている」
皇后の悔恨はそれだけではない。璋貴妃を呪った代償として失ったのは指だけではないのだ。帝の信も、そのときに損なわれた。
「あれほどに、帝が璋貴妃を愛していると、知らなかった」
「じゃあ帝が辛皇后に呪詛をかけたのは、復讐のため?」
紅妍が問う。辛皇后は答えなかった。胸に咲いた黒の瓊花は、帝が施した呪詛によるもの。ひとつの呪詛が、次なる呪いを生み出してしまったのだ。
「……我は、もう、よい。この苦しみを、解いてほしい」
辛皇后が呟く。生気を欠いて濁った虚ろな瞳が紅妍を捉える。
紅妍は頷き、辛皇后の前に立った。
「あなたを浄土に送ります」
手には白百合。片手には媒介となるものを乗せるのが慣例だが、今回は何もない。しかし大丈夫と根拠のない自信があった。辛皇后が穏やかな顔をしている気がしたから、そう思っただけだ。
瞳を閉じ、集中する。そして唇を使わず、意識で辛皇后に語りかける。
(わたしは、あなたを浄土に送る)
媒介はない。だからか辛皇后の身が煙となって花の中に溶けていくのには時間がかかる。虚ろ花を祓う時と同じように、体が軋んだ。
(あなたを狂わせた妬みや痛みから、解き放たれますよう)
白百合にも語りかける。力を貸してほしい。その身に辛皇后の魂を宿し、浄土まで連れて行ってほしい。
額に汗が浮かぶ。やはり媒介なく、呪詛が絡んだ祓いは難航する。苦しみに顔を歪めた時、紅妍の肩に温かなものが触れた。
「私がいる。だから、頼む」
秀礼だ。秀礼がそばにいる。
そのことが紅妍に力を与えた。先ほどまで身を襲っていた呪詛の痛みもわからなくなっていく。
辛皇后の体がするすると煙になり、白百合の中に吸いこまれていく。辛皇后は穏やかに微笑むのを最後に、完全な煙となって消えた。
紅妍は瞳を開いた。力がわく。秀礼が共にいるから、この花渡しは成功する。
「花と共に、渡れ」
白百合を天に掲げた。
白百合は煙となって風に巻き上げられる。風は白百合を浄土まで運ぶのだろう。白百合も、辛皇后も苦しんでいない。穏やかな風だ。
煙が完全に消え、その風が止んでも、紅妍は空を見上げていた。秀礼もまた空を見上げている。
「辛皇后は浄土に渡ったのか?」
秀礼が言った。紅妍は頷く。
「はい。鬼霊の苦しみから解き放たれるでしょう」
「そうか……許すことは難しいが、解き放たれたのなら、それでよい」
瓊花の鬼霊となった辛皇后の花渡しは終わった。だがまだもうひとつの呪詛が残っている。
紅妍は黒の木香茨を取り出した。
「これが帝が施した呪詛か?」
「はい。帝が辛皇后にかけた呪詛でしょう。これを解き放てば、呪詛の代償として光乾殿を覆う邪気も消えるかと」
だからもう一度、これを花渡ししなければならない。
櫻春宮で虚ろ花を祓った時を思い出す。その時は役目を終えて空っぽになった黒百合だったが、それでさえ体力をひどく消耗したのだ。いまだ代償を求めて光乾殿を呪う木香茨を祓うのにどれだけの体力を労するだろう。
てのひらに乗せた木香茨を見やる。覚悟を決めて瞳を閉じようとした時、紅妍の手を支えるように秀礼が手を重ねた。
「私も、共にいる。お前が倒れたとしても私が守る」
優しい言葉に顔がほころぶ。紅妍は力強く頷いて、瞳を閉じた。
煙が、のぼる。
それを風が運んでいく。爽やかで、優しい風である。
光乾殿を覆っていた禍々しい気は消えた。木香茨の呪詛から解き放たれたのだ。
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