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1巻
1-3
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「わたし、宇都木華って言います。あなたのお名前は? 千歳さんよね?」
「……嘉川千歳」
「うんっ。やっぱり千歳さんだった! よろしくね」
私がそっけない返答をしたにもかかわらず、華さんはぐいぐいと迫ってくる。
「千歳さんもひろくんと同じコンビニで働いているのよね? 三人は幼馴染でしょう? たっくんの中学時代のお話とか聞かせてほしいの」
間を置かず飛んでくる質問。この子はあれだ、天真爛漫というか天然というか、とにかく私と合わないタイプの子。私がうんざりしているのにも気づいていない。
彼女の両親がこちらへやってきた。一礼したあと、娘に声をかける。何やらぼそぼそと喋っていて「外に長居すると体に悪い」とか「無理しないで」と言っているのが聞こえた。そのうちに両親は先を歩いていってしまった。
みんなで病院から出てくるってどういう状況だろう。横断歩道を渡って遠ざかっていく彼女の両親を眺めて、首を傾げた。
病院に通う理由が拓海にあるとしたら、大海もしくは鹿島家の母親経由で私の耳にも話が入るはず。でも聞いたことはない。だとすれば、華さんの両親どちらかが通っているのだろうか。
「ご両親がここに通っているの?」
「あ、驚かせちゃってごめんね。通ってるのは親じゃないの」
細い指はくるりとしなって、華さん自身に向けられる。マスクをつけた華さんは、穏やかに目を細めて続けた。
「わたし、悪性リンパ腫なんです」
あくせいりんぱしゅ、あくせいりんぱしゅ。
頭の中にある辞書を開いてみるけれど、あまりピンと来ない。どういう病気なのか見当がつかなかった。そんな私のために拓海が口を開く。理解していないのを察して、フォローを入れたのだろう。
「白血球の中にあるリンパ球ががん化する病気。血液のがんだ」
がんならば聞き覚えがある。肺がんとか大腸がんとか。完治した人の体験談をテレビで見た程度で、あまり身近にないものだから『怖い病気』という漠然としたイメージだ。
がんは年老いた人が患うものだと思っていたから、若い子が発症することに驚いた。でも目の前にその患者がいる。
この話が嘘でないことは、彼女が出てきた建物が物語っている。近くで見ると不気味なほど白くきれいな病院だった。
若くしてがんと闘う華さん。彼女の存在は、閉塞した私の世界を無理矢理にこじあけ、価値観を塗り替えていくようだった。私が知らないだけで、この世界には年齢問わずたくさんの人がその病と闘っているのかもしれない。私の知らないものを知る華さんが、こちらをじっと見て微笑んでいることがなぜか恐ろしく感じた。
「あ、そんな顔しないで。笑って」
私はどんな顔をしていたのだろう。華さんの一言で我に返るも、彼女にかける言葉が見つからず唇は閉ざしたまま。華さんは手を柔らかく振って、言った。
「わたし、病気のことは気にしていないの」
「手術が終わったとか治療が終わったとか、そういう意味?」
拓海も大海も、何も言わない。特に拓海は俯いていて、私だけが理解できていないようだった。疎外感を抱く私に、彼女は「少し違うかな」と口を開く。
「治療はしたのよ。一時はよくなったけど再発しちゃったから」
「再発……ってことは今も、その病気を患っているの……?」
「そうね。だけど気にしないことにしたの。病気なんてもういい。治療したって無駄。再発を繰り返すぐらいなら好きなことをして、幸せに終わりたい」
終わるってどういう意味だろう。死を連想するも、その言葉が持つ物悲しさとは逆に、華さんが嬉しそうにしていたから判断が難しい。戸惑う私に、華さんは笑顔を崩さず残酷な言葉を紡いだ。
「これ以上つらい思いはしたくない。最後は好きな人に看取られて終わりたいんです」
好きな人というのは――その対象であろう拓海に視線を移すと同時に、彼が動いた。
「ばかなこと言うな。お前はもっと前向きになれ」
「ふふ、たっくんまでお母さんと同じこと言うのね。わたしはじゅうぶん前向きよ」
「そうじゃない。生きろって話をしてるんだ」
ここにいる拓海は華さんの彼氏なんだ、と再認識してしまうほどにふたりの世界だ。
病を患った女の子が彼氏に支えられて生きる話なんて、まるでテレビや映画の物語みたいで、病と闘う華さんには申し訳ないけれど、ふたりが輝いているように見えてしまった。
去年の夏に読もうとして挫折した、読書感想文の本を思いだした。泣ける青春ラブストーリーと銘打つあの話からヒロインとヒーローが飛びだしてきたのかもしれない。汚れのない美しい物語を読んでいる気分だ。その一方で、美しいなどと考えてしまった自分が嫌だった。彼女が語るものは『死』であって、それは美しさと無縁の悲しいものである。華さんをそのように見てしまったことに罪悪感が湧く。そして彼女が重い病を患っていると知ってもなお、拓海の彼女であることに嫉妬し、苛立っている。そんな幼稚な自分が嫌だった。
「千歳さん、あのね」
拓海との会話は終わったらしく、今度は私に話の矛先が向けられる。
「あなたと友達になりたいの」
「……私、友達作らない主義だから」
だって相手は拓海の彼女だ。それに私は病気への理解度が低く、彼女を理解することが難しいだろう。
「千歳さんが嫌でも、わたしが友達になりたいんです。だから今度、コンビニに伺いますね」
「来なくていい。じゃ、私はもう行くから」
拓海の彼女や病気ということを抜きにしても、こういうタイプの子と相性が合わないので友達になれる気がしなかった。無視して自転車に乗る。タイミングよく信号が青に変わったので、力強くペダルを踏んで逃げ出した。
バイトが終わっても家に帰る気になれず、コンビニで買ったアイスキャンディの袋を持って石階段に腰を下ろした。夏が近づいて日が長くなっているため十八時でも明るい。
グレープ味のアイスキャンディを咥えたまま、カバンを探る。取りだしたのは、店長の奥さんに貸していた本だ。ちょうど今日返ってきた。
帯に書かれた『何度読み返しても泣ける青春小説』の文字に、昼間に聞いた華さんと拓海の関係を思い浮かべ、ページをめくる。
去年の夏は結局読み切れず、いい加減な感想文を書いて提出してしまった。奥さんは面白かったと言っていたけど、どんな結末になるのか私は知らない。
物語は、高校生の女の子が体調を崩すところから始まる。病が判明して失意の底に落ちるも、同級生の男の子に励まされ、彼と共に過ごすうちに生きる希望を見出していく――途中まで読んで、視界が滲んだ。
柔らかなクリーム地に印刷された文字が表すのは、まさしく拓海と華さんだ。ひたむきで可愛らしい女の子が華さんで、生きる希望を与えてくれるヒーローが拓海。
何度読み返しても泣けると書いてある帯は正しい。私は結末に至らずともこうして涙をこぼしている。だって、美しすぎるから。この物語も拓海と華さんの関係も。
私と拓海の関係はハッピーエンドになるのだと信じていた。物語の主役は私なのだと信じて疑わなかった。でもそれは違っていた。脇役だ。この本に出てくる、主人公の友達である女の子が私。私は主役じゃなかった。
「あー! 千歳ちゃんみーっけ!」
本を半分まで読んだところで声がした。見れば石階段の下に大海がいて、目が合うなりクワタと共に駆け足で階段を上ってくる。きっとクワタの散歩をしていたのだろう。
「何してんの、寄り道?」
「そんなとこ。あんたはクワタに散歩してもらってたんでしょ」
「そうだワン! ってちげーし、オレが飼い主! ご主人様!」
大海は隣に座ってぎゃいぎゃいと騒ぐ。その間クワタは大人しくしていたから、これでは大海よりクワタのほうが賢く見える。
「で、何してんの?」
「読書」
「千歳ちゃんが夏休みの宿題以外で本を読むなんてめっずらしー。でもさ、家で読めばいいじゃん。暗くなってきてるよ? 文字見えてる?」
「そういう気分じゃなかったの。今日は考え事したくて」
すると大海は何かを察したらしく、真剣な、でも少し悲しそうな顔をしていた。
「もしかして華さんのこと考えてた?」
「そう。大海は知ってたんでしょ?」
「……まあね。兄貴が帰ってきたあとで、華さんのことを聞いたよ」
それから観念したように「オレは、千歳ちゃんに言わないほうがいいって思ってたけど」とため息を吐いた。
ここ最近の私は勤務中にミスばかりするほど集中力を欠いていた。その理由が拓海に関わることと判断し、話さないほうがいいと配慮してくれたのだろう。心配しての行動だとわかっているけれど、置いてけぼりのような気持ちは消えず、なんとも複雑だ。
「華さんの病気って、治る見込みがないの?」
「骨髄移植って手段があるけど……あの通り、華さんが嫌がっているから」
すべてを拒否して死を選ぶほど、つらい治療だったのだろうか。がんという病を遠く感じている、知識のない私には、そのつらさが想像し難い。しかし生半可な想像でわかった風に語るのも嫌だ。だから、ふうんと短く相づちを打つだけにした。
「兄貴と華さんの話をして、千歳ちゃんは平気?」
「別に。拓海と私は何も関係ないし」
「……それならいいんだけど」
大人しく座っているクワタの頭を撫でる。短い毛はさらさらで気持ちよくて、頬を埋めたくなる。泣いていると誤解されそうだからしないけど。
「華さんが島に来たのは、病と闘う決意をしてもらうためなんだ」
「つまりは、拓海が生きる希望みたいな?」
「兄貴と一緒にいたら華さんが生きたいって思うかもしれない。環境を変えて島に住むこともいい影響になればって話でさ。あの病院の先生が華さんの知りあいらしくて」
「なんだっけ。美岸利島のブラックジャック?」
「そうそう。本州にいた頃に知りあったらしいよ。ここでは痛みの緩和しかできないけど、心を許せる先生と恋人がいる島で治療する元気を取り戻そうねってことで、ご両親と華さんは美岸利島に移ってきたんだよ」
聞けば聞くほど、あの本が浮かんでくる。ヒロインの華さんに生きる希望を与えるヒーローなんて、拓海らしい。ふたりは本に出てくるような青春に溶けこんでいる。スポットライトが当たっている。
それに比べて、私がいる場所のなんと暗いことか。華さんが重い病を背負っているとわかっていても、スポットライトの当たらぬ脇役の立ち場を寒々しく感じてしまう。素直に華さんのことを考えられず、ひねくれた自分が情けない。
「華さんは死にたいって言ってるけど、兄貴が生きろって言ってる。今のふたりはそんな感じだなあ」
「……なんだか、拓海らしい」
「野球は敵わないし格好いいことばかりするし、おいしいところもオレが欲しいものも、ぜんぶ持っていって、オレの担当はクワタの散歩だけ。何やっても兄貴に敵わないや」
言い終えたあと、大海は頬杖をついた。その視線は石階段を下りた遠く、夜の闇に呑みこまれて見えなくなりそうな野球場に向けられていた。
「でもオレは、兄貴と千歳ちゃんがくっつくと思ってた。ふたりが付きあえばよかったのにって思ってる」
「それは無理な話だねぇ」
そう。無理だ。この舞台の主役は華さんと拓海で、私のような脇役に出番はない。いつか夢見た未来は叶わないのだ。
「拓海と華さん、お似あいでしょ。女の子らしさ満点の可愛い子が拓海には合う」
「……それ、本気で言ってる?」
私は頷く。結果的に拓海が選んだのは可愛らしい華さんなのだ。それはどうあっても変わらないのに、大海は怪訝な顔をして言う。
「千歳ちゃん、泣いてたじゃん」
「私が? いつ?」
「さっき。本読みながら」
見られていないと侮っていた。声をかける前から見ていたのかもしれない。
けれど拓海のせいで泣いているとは、意地でも認めたくなかった。周りにもそう思われたくない。言い訳をするように、カバンにしまった本を取りだす。
「それは違う。これ読んで感動してただけ」
「この本って去年の夏にも読んでなかった? どう、面白い?」
「知らない。最後まで読んでないから」
「うわあ、さっすが千歳ちゃん。読み終わったら、オレにも貸してよ。千歳ちゃんを泣かせる話って気になる」
「いいよ。貸してあげる」
「読み終わってからでいいよ?」
「もう読めないから、いいの」
本を開くたびに自分が脇役だと気づいてしまうから、結末を読む気にはなれなかった。今はハッピーエンドの物語も摂取したくない。
風が冷えてきて、辺りも暗くなっていく。クワタもつまらなさそうにしているし、私が帰らないと大海も帰ろうとしないだろう。「そろそろ帰る」と言って立ち上がり、ショートパンツについた汚れを払っていると大海が呟いた。
「オレでよかったら話を聞くからさ。思ってること溜めないで、話してよ」
「……気が向いたらね」
「そうやってひねくれないでさー。素直になれば楽だって」
素直になったところで、何が変わるのだろう。欲しかった未来だって手に入らないのに。
けれど心配してくれたことは嬉しいから、大海の頭をぽんぽんと撫でた。
「気遣ってくれてありがと」
「うわ。なんか子ども扱いされてるみたい」
「子どもっていうか弟ね」
「えー。勘弁してよー」
ここが石階段という思い出の場所だからかもしれないけれど、大海の頭を撫でているとどうしても比較してしまう。拓海に比べて髪は長く、触り心地が違う――ああ、だめだ。拓海のことなんて忘れなきゃいけないのに。
拓海には彼女がいる。だから、この感情は消さなきゃいけない。
* * *
海は、凪いでいると思えばあっという間に荒れたりする。ならばいっそ船を出さなければいいのだ。陸に引きこもっていれば海がどうなろうと関係ない。だから私の心だって、拓海と華さんを遠ざけた場所に引きこもっていればいつか落ち着くのだろう。
そう思っていた矢先、陸で引きこもる私を無理矢理海に引きずり出すみたいに、華さんは突然やってきた。
「千歳さん、こんにちは」
勤務中を狙っての襲撃だ。白のふわりとしたワンピースを着て、マスクと帽子は欠かさない。コンビニに入ってまっすぐカウンターにやってきたので、私目当てらしい。
「冷やかしは他のお客様のご迷惑になりますのでお帰りください」
「ふふ。他のお客様はいないと思うけど」
来店時間が平日昼すぎというのもまた憎いところ。学生は学校に行っているし、おばあちゃんおじいちゃんがたまに寄るぐらいの暇な時間だ。
華さんは、無愛想な態度を取る私に怯むことなく、カウンターに手をついてこちらを見ている。マスクをつけていてもにこにこ笑っているのが伝わってきた。
聞き慣れない来店客の声に反応して、奥で調理作業に当たっていた店長が顔を出した。夕方に向けてポテトやナゲットを用意していたので、トングを持ったままだ。
「いらっしゃいませー……って、噂の彼女ちゃんか。話は聞いてるよ」
「はじめまして。宇都木華です」
店長まで拓海の彼女を知っていたとは。島の情報網おそるべし。
店長は私と華さんの顔を交互に眺めて「お前ら仲よくなったのか?」と聞いた。首を横に振って否定しようとしたけれど、華さんのほうが早く答えた。
「友達なんです」
「私友達作らない主義って言ったでしょ」
すると店長が笑った。
「いいじゃねぇか。仲よくしてやんなよ千歳ちゃん」
「嫌です。私勤務中なんで雑談とかできません」
「よく言うよ。こないだ本町の野原さんと十五分長話してたのにな」
都会のコンビニならそういうのは許されないのだろうけど、ここは田舎な上に、コンビニの前身は個人商店。改装する前はレジの隣に小あがりがあって、近所の人が来ると奥さんがお茶を持ってきて世間話を始める。店の外にあるベンチは、子ども達の溜まり場で、買ったばかりの駄菓子を食べるのに最適だった。コンビニの看板をつけると共に小あがりやベンチは撤去されたものの、独特のゆるさは健在だ。
観光シーズン以外にやってくるお客様のほとんどは顔見知りという、売り上げが心配されそうな店だけれど、ここはお店以外の大事な役目も担っていた。例えば店のガラス越しに、海岸線を歩いていくおじいちゃんが見えたときのこと。様子がおかしいので家に連絡を入れると、認知症のため徘徊していた。あと、来店した顔見知りの客とは必ず言葉を交わすようにもしている。ひとり暮らしをしているおばあちゃんが、いつもは饒舌なのに片言しか喋れなかったことがあった。店長が異変に気づいて救急車を呼んだところ、脳卒中だったらしい。気づくのが早かったのでこのおばあちゃんは助かった。つまり、このコンビニは深く町に根づいている。商品とお金のやりとりだけでなく、個人の付きあいもあった。
私は、このゆるさが好きだ。いろいろな人達の、いろいろな日常を見ているようで、雑談も楽しい。けれど相手が華さんとなれば話は別。憂鬱になる。
「わたし、また来ますね。このお店、気に入っちゃった」
「勘弁してよ……」
華さんにも聞こえるようにぼやいたけれど、彼女はまったく動じない。やっぱり、このタイプの人は苦手だ。
* * *
華さんがコンビニに来るようになって何日も経った。追い返したりそっけない態度をとったりしたけれど、彼女は諦めない。
「こんにちは。お邪魔します」
その日も華さんがやってきた。相手が華さんだとわかれば、私の接客スマイルも失われる。露骨にため息を吐いて、はっきりと不快感を示す。
「いらっしゃいませー。どうぞお帰りください」
「千歳さんのいじわる――店長さん、お邪魔しますね」
華さんは来るたびに控え室や調理室に向けて挨拶をしていた。姿が見えなくても声をかける。その気遣いは店長の心をがっしりと掴んで、今や華さんが来るたび鼻の下を伸ばしてデレデレしている。それに加えて「女の子は愛嬌だよ。千歳ちゃんにはそれが足りてない」などと言ってくるので、私は複雑なところだ。
そんな店長は今日も華さんの来訪を嬉しそうにしていた。目元口元ゆるゆるで、店の奥に飾っている恵比須様みたいな顔をして言う。
「やあ華ちゃん、体調は大丈夫かい?」
「ええ。最近落ち着いているので」
「そりゃよかった――ほら千歳ちゃん、パイプいす出してあげて」
「なんで私が……店長が持ってきてくださいよ……」
ぼやきながら見ると、今日の華さんはいつもと違う気がした。相変わらずマスクに帽子の厳重装備だけれど、どうも顔色がよくない。
「具合悪いなら帰りなよ」
私がそう言うも、華さんは「だいじょうぶ」と言ってパイプいすに座った。ただでさえ白い肌が今日は一段と白く、むしろ青に近い気さえする。
「今は島のアパートに住んでいるんだっけ。病院に入院しないの?」
「通っているだけよ。わたし、もう入院なんてしたくないから」
一度も入院したことのない私には、それがどういうものか想像がつかない。「ふうん」とそっけなく相づちを打って、カウンター下の、華さんから見えない位置でスマートフォンを操作する。一言の短いメッセージを送り終えたとき、華さんがしんみりと告げた。
「わたしね、高校一年生の秋に病気がわかったの。それから抗がん剤治療を受けることになって、しばらく入院していたのよ」
「その間って学校はお休み?」
「うん。早く治して学校に行こうって思ってた。わたし、野球部のマネージャーだったから部活のことが気になっていたの。早く治して、甲子園を目指すみんなを手伝わなきゃって」
今の華さんしか知らない私には、野球部のマネージャーだった彼女が想像できない。
私は部活と無縁の生活だったけれど、マネージャーをしていた同級生が肉体労働だと嘆いていた。中身たっぷりのウォータージャグを両手にひとつずつぶらさげて歩く姿は逞しく、これは鍛えられるだろうなと思ったぐらいに。体も腕も細くて白い華さんに、あのウォータージャグは不似あいだ。
もしかしたら、と気づいた。病気になる前の彼女はもっと健康的で、重たいものを持ってもおかしくないような姿をしていたのかもしれない。彼女は明日の天気でも話すような軽さで自分の病を語るから、感覚がわからなくなる。
「……嘉川千歳」
「うんっ。やっぱり千歳さんだった! よろしくね」
私がそっけない返答をしたにもかかわらず、華さんはぐいぐいと迫ってくる。
「千歳さんもひろくんと同じコンビニで働いているのよね? 三人は幼馴染でしょう? たっくんの中学時代のお話とか聞かせてほしいの」
間を置かず飛んでくる質問。この子はあれだ、天真爛漫というか天然というか、とにかく私と合わないタイプの子。私がうんざりしているのにも気づいていない。
彼女の両親がこちらへやってきた。一礼したあと、娘に声をかける。何やらぼそぼそと喋っていて「外に長居すると体に悪い」とか「無理しないで」と言っているのが聞こえた。そのうちに両親は先を歩いていってしまった。
みんなで病院から出てくるってどういう状況だろう。横断歩道を渡って遠ざかっていく彼女の両親を眺めて、首を傾げた。
病院に通う理由が拓海にあるとしたら、大海もしくは鹿島家の母親経由で私の耳にも話が入るはず。でも聞いたことはない。だとすれば、華さんの両親どちらかが通っているのだろうか。
「ご両親がここに通っているの?」
「あ、驚かせちゃってごめんね。通ってるのは親じゃないの」
細い指はくるりとしなって、華さん自身に向けられる。マスクをつけた華さんは、穏やかに目を細めて続けた。
「わたし、悪性リンパ腫なんです」
あくせいりんぱしゅ、あくせいりんぱしゅ。
頭の中にある辞書を開いてみるけれど、あまりピンと来ない。どういう病気なのか見当がつかなかった。そんな私のために拓海が口を開く。理解していないのを察して、フォローを入れたのだろう。
「白血球の中にあるリンパ球ががん化する病気。血液のがんだ」
がんならば聞き覚えがある。肺がんとか大腸がんとか。完治した人の体験談をテレビで見た程度で、あまり身近にないものだから『怖い病気』という漠然としたイメージだ。
がんは年老いた人が患うものだと思っていたから、若い子が発症することに驚いた。でも目の前にその患者がいる。
この話が嘘でないことは、彼女が出てきた建物が物語っている。近くで見ると不気味なほど白くきれいな病院だった。
若くしてがんと闘う華さん。彼女の存在は、閉塞した私の世界を無理矢理にこじあけ、価値観を塗り替えていくようだった。私が知らないだけで、この世界には年齢問わずたくさんの人がその病と闘っているのかもしれない。私の知らないものを知る華さんが、こちらをじっと見て微笑んでいることがなぜか恐ろしく感じた。
「あ、そんな顔しないで。笑って」
私はどんな顔をしていたのだろう。華さんの一言で我に返るも、彼女にかける言葉が見つからず唇は閉ざしたまま。華さんは手を柔らかく振って、言った。
「わたし、病気のことは気にしていないの」
「手術が終わったとか治療が終わったとか、そういう意味?」
拓海も大海も、何も言わない。特に拓海は俯いていて、私だけが理解できていないようだった。疎外感を抱く私に、彼女は「少し違うかな」と口を開く。
「治療はしたのよ。一時はよくなったけど再発しちゃったから」
「再発……ってことは今も、その病気を患っているの……?」
「そうね。だけど気にしないことにしたの。病気なんてもういい。治療したって無駄。再発を繰り返すぐらいなら好きなことをして、幸せに終わりたい」
終わるってどういう意味だろう。死を連想するも、その言葉が持つ物悲しさとは逆に、華さんが嬉しそうにしていたから判断が難しい。戸惑う私に、華さんは笑顔を崩さず残酷な言葉を紡いだ。
「これ以上つらい思いはしたくない。最後は好きな人に看取られて終わりたいんです」
好きな人というのは――その対象であろう拓海に視線を移すと同時に、彼が動いた。
「ばかなこと言うな。お前はもっと前向きになれ」
「ふふ、たっくんまでお母さんと同じこと言うのね。わたしはじゅうぶん前向きよ」
「そうじゃない。生きろって話をしてるんだ」
ここにいる拓海は華さんの彼氏なんだ、と再認識してしまうほどにふたりの世界だ。
病を患った女の子が彼氏に支えられて生きる話なんて、まるでテレビや映画の物語みたいで、病と闘う華さんには申し訳ないけれど、ふたりが輝いているように見えてしまった。
去年の夏に読もうとして挫折した、読書感想文の本を思いだした。泣ける青春ラブストーリーと銘打つあの話からヒロインとヒーローが飛びだしてきたのかもしれない。汚れのない美しい物語を読んでいる気分だ。その一方で、美しいなどと考えてしまった自分が嫌だった。彼女が語るものは『死』であって、それは美しさと無縁の悲しいものである。華さんをそのように見てしまったことに罪悪感が湧く。そして彼女が重い病を患っていると知ってもなお、拓海の彼女であることに嫉妬し、苛立っている。そんな幼稚な自分が嫌だった。
「千歳さん、あのね」
拓海との会話は終わったらしく、今度は私に話の矛先が向けられる。
「あなたと友達になりたいの」
「……私、友達作らない主義だから」
だって相手は拓海の彼女だ。それに私は病気への理解度が低く、彼女を理解することが難しいだろう。
「千歳さんが嫌でも、わたしが友達になりたいんです。だから今度、コンビニに伺いますね」
「来なくていい。じゃ、私はもう行くから」
拓海の彼女や病気ということを抜きにしても、こういうタイプの子と相性が合わないので友達になれる気がしなかった。無視して自転車に乗る。タイミングよく信号が青に変わったので、力強くペダルを踏んで逃げ出した。
バイトが終わっても家に帰る気になれず、コンビニで買ったアイスキャンディの袋を持って石階段に腰を下ろした。夏が近づいて日が長くなっているため十八時でも明るい。
グレープ味のアイスキャンディを咥えたまま、カバンを探る。取りだしたのは、店長の奥さんに貸していた本だ。ちょうど今日返ってきた。
帯に書かれた『何度読み返しても泣ける青春小説』の文字に、昼間に聞いた華さんと拓海の関係を思い浮かべ、ページをめくる。
去年の夏は結局読み切れず、いい加減な感想文を書いて提出してしまった。奥さんは面白かったと言っていたけど、どんな結末になるのか私は知らない。
物語は、高校生の女の子が体調を崩すところから始まる。病が判明して失意の底に落ちるも、同級生の男の子に励まされ、彼と共に過ごすうちに生きる希望を見出していく――途中まで読んで、視界が滲んだ。
柔らかなクリーム地に印刷された文字が表すのは、まさしく拓海と華さんだ。ひたむきで可愛らしい女の子が華さんで、生きる希望を与えてくれるヒーローが拓海。
何度読み返しても泣けると書いてある帯は正しい。私は結末に至らずともこうして涙をこぼしている。だって、美しすぎるから。この物語も拓海と華さんの関係も。
私と拓海の関係はハッピーエンドになるのだと信じていた。物語の主役は私なのだと信じて疑わなかった。でもそれは違っていた。脇役だ。この本に出てくる、主人公の友達である女の子が私。私は主役じゃなかった。
「あー! 千歳ちゃんみーっけ!」
本を半分まで読んだところで声がした。見れば石階段の下に大海がいて、目が合うなりクワタと共に駆け足で階段を上ってくる。きっとクワタの散歩をしていたのだろう。
「何してんの、寄り道?」
「そんなとこ。あんたはクワタに散歩してもらってたんでしょ」
「そうだワン! ってちげーし、オレが飼い主! ご主人様!」
大海は隣に座ってぎゃいぎゃいと騒ぐ。その間クワタは大人しくしていたから、これでは大海よりクワタのほうが賢く見える。
「で、何してんの?」
「読書」
「千歳ちゃんが夏休みの宿題以外で本を読むなんてめっずらしー。でもさ、家で読めばいいじゃん。暗くなってきてるよ? 文字見えてる?」
「そういう気分じゃなかったの。今日は考え事したくて」
すると大海は何かを察したらしく、真剣な、でも少し悲しそうな顔をしていた。
「もしかして華さんのこと考えてた?」
「そう。大海は知ってたんでしょ?」
「……まあね。兄貴が帰ってきたあとで、華さんのことを聞いたよ」
それから観念したように「オレは、千歳ちゃんに言わないほうがいいって思ってたけど」とため息を吐いた。
ここ最近の私は勤務中にミスばかりするほど集中力を欠いていた。その理由が拓海に関わることと判断し、話さないほうがいいと配慮してくれたのだろう。心配しての行動だとわかっているけれど、置いてけぼりのような気持ちは消えず、なんとも複雑だ。
「華さんの病気って、治る見込みがないの?」
「骨髄移植って手段があるけど……あの通り、華さんが嫌がっているから」
すべてを拒否して死を選ぶほど、つらい治療だったのだろうか。がんという病を遠く感じている、知識のない私には、そのつらさが想像し難い。しかし生半可な想像でわかった風に語るのも嫌だ。だから、ふうんと短く相づちを打つだけにした。
「兄貴と華さんの話をして、千歳ちゃんは平気?」
「別に。拓海と私は何も関係ないし」
「……それならいいんだけど」
大人しく座っているクワタの頭を撫でる。短い毛はさらさらで気持ちよくて、頬を埋めたくなる。泣いていると誤解されそうだからしないけど。
「華さんが島に来たのは、病と闘う決意をしてもらうためなんだ」
「つまりは、拓海が生きる希望みたいな?」
「兄貴と一緒にいたら華さんが生きたいって思うかもしれない。環境を変えて島に住むこともいい影響になればって話でさ。あの病院の先生が華さんの知りあいらしくて」
「なんだっけ。美岸利島のブラックジャック?」
「そうそう。本州にいた頃に知りあったらしいよ。ここでは痛みの緩和しかできないけど、心を許せる先生と恋人がいる島で治療する元気を取り戻そうねってことで、ご両親と華さんは美岸利島に移ってきたんだよ」
聞けば聞くほど、あの本が浮かんでくる。ヒロインの華さんに生きる希望を与えるヒーローなんて、拓海らしい。ふたりは本に出てくるような青春に溶けこんでいる。スポットライトが当たっている。
それに比べて、私がいる場所のなんと暗いことか。華さんが重い病を背負っているとわかっていても、スポットライトの当たらぬ脇役の立ち場を寒々しく感じてしまう。素直に華さんのことを考えられず、ひねくれた自分が情けない。
「華さんは死にたいって言ってるけど、兄貴が生きろって言ってる。今のふたりはそんな感じだなあ」
「……なんだか、拓海らしい」
「野球は敵わないし格好いいことばかりするし、おいしいところもオレが欲しいものも、ぜんぶ持っていって、オレの担当はクワタの散歩だけ。何やっても兄貴に敵わないや」
言い終えたあと、大海は頬杖をついた。その視線は石階段を下りた遠く、夜の闇に呑みこまれて見えなくなりそうな野球場に向けられていた。
「でもオレは、兄貴と千歳ちゃんがくっつくと思ってた。ふたりが付きあえばよかったのにって思ってる」
「それは無理な話だねぇ」
そう。無理だ。この舞台の主役は華さんと拓海で、私のような脇役に出番はない。いつか夢見た未来は叶わないのだ。
「拓海と華さん、お似あいでしょ。女の子らしさ満点の可愛い子が拓海には合う」
「……それ、本気で言ってる?」
私は頷く。結果的に拓海が選んだのは可愛らしい華さんなのだ。それはどうあっても変わらないのに、大海は怪訝な顔をして言う。
「千歳ちゃん、泣いてたじゃん」
「私が? いつ?」
「さっき。本読みながら」
見られていないと侮っていた。声をかける前から見ていたのかもしれない。
けれど拓海のせいで泣いているとは、意地でも認めたくなかった。周りにもそう思われたくない。言い訳をするように、カバンにしまった本を取りだす。
「それは違う。これ読んで感動してただけ」
「この本って去年の夏にも読んでなかった? どう、面白い?」
「知らない。最後まで読んでないから」
「うわあ、さっすが千歳ちゃん。読み終わったら、オレにも貸してよ。千歳ちゃんを泣かせる話って気になる」
「いいよ。貸してあげる」
「読み終わってからでいいよ?」
「もう読めないから、いいの」
本を開くたびに自分が脇役だと気づいてしまうから、結末を読む気にはなれなかった。今はハッピーエンドの物語も摂取したくない。
風が冷えてきて、辺りも暗くなっていく。クワタもつまらなさそうにしているし、私が帰らないと大海も帰ろうとしないだろう。「そろそろ帰る」と言って立ち上がり、ショートパンツについた汚れを払っていると大海が呟いた。
「オレでよかったら話を聞くからさ。思ってること溜めないで、話してよ」
「……気が向いたらね」
「そうやってひねくれないでさー。素直になれば楽だって」
素直になったところで、何が変わるのだろう。欲しかった未来だって手に入らないのに。
けれど心配してくれたことは嬉しいから、大海の頭をぽんぽんと撫でた。
「気遣ってくれてありがと」
「うわ。なんか子ども扱いされてるみたい」
「子どもっていうか弟ね」
「えー。勘弁してよー」
ここが石階段という思い出の場所だからかもしれないけれど、大海の頭を撫でているとどうしても比較してしまう。拓海に比べて髪は長く、触り心地が違う――ああ、だめだ。拓海のことなんて忘れなきゃいけないのに。
拓海には彼女がいる。だから、この感情は消さなきゃいけない。
* * *
海は、凪いでいると思えばあっという間に荒れたりする。ならばいっそ船を出さなければいいのだ。陸に引きこもっていれば海がどうなろうと関係ない。だから私の心だって、拓海と華さんを遠ざけた場所に引きこもっていればいつか落ち着くのだろう。
そう思っていた矢先、陸で引きこもる私を無理矢理海に引きずり出すみたいに、華さんは突然やってきた。
「千歳さん、こんにちは」
勤務中を狙っての襲撃だ。白のふわりとしたワンピースを着て、マスクと帽子は欠かさない。コンビニに入ってまっすぐカウンターにやってきたので、私目当てらしい。
「冷やかしは他のお客様のご迷惑になりますのでお帰りください」
「ふふ。他のお客様はいないと思うけど」
来店時間が平日昼すぎというのもまた憎いところ。学生は学校に行っているし、おばあちゃんおじいちゃんがたまに寄るぐらいの暇な時間だ。
華さんは、無愛想な態度を取る私に怯むことなく、カウンターに手をついてこちらを見ている。マスクをつけていてもにこにこ笑っているのが伝わってきた。
聞き慣れない来店客の声に反応して、奥で調理作業に当たっていた店長が顔を出した。夕方に向けてポテトやナゲットを用意していたので、トングを持ったままだ。
「いらっしゃいませー……って、噂の彼女ちゃんか。話は聞いてるよ」
「はじめまして。宇都木華です」
店長まで拓海の彼女を知っていたとは。島の情報網おそるべし。
店長は私と華さんの顔を交互に眺めて「お前ら仲よくなったのか?」と聞いた。首を横に振って否定しようとしたけれど、華さんのほうが早く答えた。
「友達なんです」
「私友達作らない主義って言ったでしょ」
すると店長が笑った。
「いいじゃねぇか。仲よくしてやんなよ千歳ちゃん」
「嫌です。私勤務中なんで雑談とかできません」
「よく言うよ。こないだ本町の野原さんと十五分長話してたのにな」
都会のコンビニならそういうのは許されないのだろうけど、ここは田舎な上に、コンビニの前身は個人商店。改装する前はレジの隣に小あがりがあって、近所の人が来ると奥さんがお茶を持ってきて世間話を始める。店の外にあるベンチは、子ども達の溜まり場で、買ったばかりの駄菓子を食べるのに最適だった。コンビニの看板をつけると共に小あがりやベンチは撤去されたものの、独特のゆるさは健在だ。
観光シーズン以外にやってくるお客様のほとんどは顔見知りという、売り上げが心配されそうな店だけれど、ここはお店以外の大事な役目も担っていた。例えば店のガラス越しに、海岸線を歩いていくおじいちゃんが見えたときのこと。様子がおかしいので家に連絡を入れると、認知症のため徘徊していた。あと、来店した顔見知りの客とは必ず言葉を交わすようにもしている。ひとり暮らしをしているおばあちゃんが、いつもは饒舌なのに片言しか喋れなかったことがあった。店長が異変に気づいて救急車を呼んだところ、脳卒中だったらしい。気づくのが早かったのでこのおばあちゃんは助かった。つまり、このコンビニは深く町に根づいている。商品とお金のやりとりだけでなく、個人の付きあいもあった。
私は、このゆるさが好きだ。いろいろな人達の、いろいろな日常を見ているようで、雑談も楽しい。けれど相手が華さんとなれば話は別。憂鬱になる。
「わたし、また来ますね。このお店、気に入っちゃった」
「勘弁してよ……」
華さんにも聞こえるようにぼやいたけれど、彼女はまったく動じない。やっぱり、このタイプの人は苦手だ。
* * *
華さんがコンビニに来るようになって何日も経った。追い返したりそっけない態度をとったりしたけれど、彼女は諦めない。
「こんにちは。お邪魔します」
その日も華さんがやってきた。相手が華さんだとわかれば、私の接客スマイルも失われる。露骨にため息を吐いて、はっきりと不快感を示す。
「いらっしゃいませー。どうぞお帰りください」
「千歳さんのいじわる――店長さん、お邪魔しますね」
華さんは来るたびに控え室や調理室に向けて挨拶をしていた。姿が見えなくても声をかける。その気遣いは店長の心をがっしりと掴んで、今や華さんが来るたび鼻の下を伸ばしてデレデレしている。それに加えて「女の子は愛嬌だよ。千歳ちゃんにはそれが足りてない」などと言ってくるので、私は複雑なところだ。
そんな店長は今日も華さんの来訪を嬉しそうにしていた。目元口元ゆるゆるで、店の奥に飾っている恵比須様みたいな顔をして言う。
「やあ華ちゃん、体調は大丈夫かい?」
「ええ。最近落ち着いているので」
「そりゃよかった――ほら千歳ちゃん、パイプいす出してあげて」
「なんで私が……店長が持ってきてくださいよ……」
ぼやきながら見ると、今日の華さんはいつもと違う気がした。相変わらずマスクに帽子の厳重装備だけれど、どうも顔色がよくない。
「具合悪いなら帰りなよ」
私がそう言うも、華さんは「だいじょうぶ」と言ってパイプいすに座った。ただでさえ白い肌が今日は一段と白く、むしろ青に近い気さえする。
「今は島のアパートに住んでいるんだっけ。病院に入院しないの?」
「通っているだけよ。わたし、もう入院なんてしたくないから」
一度も入院したことのない私には、それがどういうものか想像がつかない。「ふうん」とそっけなく相づちを打って、カウンター下の、華さんから見えない位置でスマートフォンを操作する。一言の短いメッセージを送り終えたとき、華さんがしんみりと告げた。
「わたしね、高校一年生の秋に病気がわかったの。それから抗がん剤治療を受けることになって、しばらく入院していたのよ」
「その間って学校はお休み?」
「うん。早く治して学校に行こうって思ってた。わたし、野球部のマネージャーだったから部活のことが気になっていたの。早く治して、甲子園を目指すみんなを手伝わなきゃって」
今の華さんしか知らない私には、野球部のマネージャーだった彼女が想像できない。
私は部活と無縁の生活だったけれど、マネージャーをしていた同級生が肉体労働だと嘆いていた。中身たっぷりのウォータージャグを両手にひとつずつぶらさげて歩く姿は逞しく、これは鍛えられるだろうなと思ったぐらいに。体も腕も細くて白い華さんに、あのウォータージャグは不似あいだ。
もしかしたら、と気づいた。病気になる前の彼女はもっと健康的で、重たいものを持ってもおかしくないような姿をしていたのかもしれない。彼女は明日の天気でも話すような軽さで自分の病を語るから、感覚がわからなくなる。
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