意地っ張りの片想い

紅と碧湖

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プロローグ

1.いつもと違う朝

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 俺は頭を撫でられてる。

 妙に遠慮がちに、そっと頭に触れてるのは、あいつの手。
 デカくて力強い手が、こんなふうに時々、優しい。
 黒目の大きいスッキリとした一重の目が細まって、口元が緩む。
 ちょい睨んでるみたいにも見えるけど、コレは笑顔だ。あいつの笑顔。
 いいなあ、好きだなあ、この顔。

 なにかが唇に触れる。
 ためらいがちに、けど優しく。触れて、離れる。
 ああ、あいつの唇だ。

 なんだよ、ふだんしないくせに。

 俺はフフッと笑う。
 うん、コレは夢だ。
 幸せな、幸せな、そう

 ――――夢、だ――――――




 ふわっと、意識が浮かび
 手が無意識に隣を探った。
 いない、と思って
「~~~……」
 鼻息と意味の無い音を漏らしつつ、うっすら目を開く。
 薄暗い天井がまず見えて、自動的に目だけ動かし時間を確認する。木目の際立つチェストの上で微妙な違和感主張してる、モダンと言えないこともないシンプルなデジタル時計は、十二時四十二分を表示していた。
「……そりゃ、いねえよな~……」
 呟いて、う~ん、と両腕を伸ばし、寝たなあ、と今度は口の中で呟いた。
 腹筋で上半身を起こしながら長めの前髪をかき上げ、がりがりと頭皮をかき回してたら、ふあぁぁ~、と特大のあくびが出る。そのまま首をコキコキ曲げ、肩を上下させてから、ん~、と思いっきり伸びをする。
 作夜、結構飲んだが身体は軽い。つっても七月に三十才になったんだよな。
(つか体力とか落ちてねーし)
 五才下の後輩がオッサンとか言うようになっているけど万全だ。「ざまみろ」と呟いて、もう一度時計を見る。
 無駄が一切無い、隙も緩みも媚びも無いデザインの時計は、あくまで正確に時を示す。
 いかにもあいつらしい。

 ここに越して来たのは五年ほど前、インテリアは俺が全部決めた。
 あっちはそういうのに興味なかったし、リビングはこっちの仕事上の都合でコンセプト決まってたんだけども、寝室はプライベート空間だし、前から憧れてた北欧風の白木家具で揃えるつもりだった。
 んだけど、時計だけはずいぶん頑張って譲らないのでコッチが折れた。
 あんまり興味ない、任せるつったのに、何にこだわってんだよと聞くと
『数字を表すものがあやふやなのは好かない』
 とか生真面目なしかめ面で言いやがったんで、あまりにもらしいつって爆笑して、時計については譲ると恩着せがましく宣言してやった。怒ったような顔が少し赤くなって、それをツッコミながら笑いが止まらなかった、と思い出す。
(まあ、コレにして良かったけどな)
 生活時間や休みが合わなくて顔を合わせない日があっても、この時計を見る度に、ああ、あいつだって、そんな感じがする。その程度のことで簡単に癒やされてんだから、相変わらず俺って安い。
 無自覚に笑んでる頬を気持ちの良い風が撫でた。
 カーテンが揺れてる。
 寝る前、確かに窓を閉めたから、これはあいつの仕業だなと、すぐ分かる。なのに遮光カーテンを引いたままなのは、眩しいとすぐ起きてしまう拓海の眠りを妨げずに、風だけ通そうと思ったからに違いない。
 広めセミダブルのベッドは窓際にあるから、ベッドに上がらないと窓の開け閉めはできない。仕事へ行く前に開けたんだとしたら、あのデカイ身体で、起こさないように気を遣って、きっと生真面目に息とか詰めて、そうっと窓だけ開けて、なんて目に浮かぶ。
 ニヤケちまいながら腕を伸ばし、シャッとカーテンを開いた。
 空は突き抜けたみたいにキレイなスカイブルー。所々薄く浮いた鰯雲に、秋だなあ、とか思う。いつのまにか夏が終わってたんだなあ。気づかなかった。
 こんな風に、ぼやっと空を見るのは久し振りだ。つうか今日から久しぶりの三連休。
「……しゃ!」
 気合い入れて、ベッドから降りる。もっかいデッカク伸びしながら「んぁ~~っ!」無意味に大声出す。よし、目ぇ覚めた。

 俺は家具メーカーの営業。主任やってる。
 つっても社の規模はさほど大きくない。社名は少し売れてきたけどメジャーにはほど遠いし、色々頑張らなきゃならないってレベル。
 特にこの三ヶ月ほどは、通常業務に加えて新規立ち上げに伴う業務があったんでめちゃ忙しくて、出張も重なって休日出勤が続いていた。
 が、それもようやく、めどが付いた。
 そんで強制的に、平日とはいえ四か月ぶりの三連休を取らされた。なぜって、準備をするために。
 ――――そう、準備、だ。
 昨夜、飲みながら部長が言った言葉を思い出す。
『良くやった、藤枝。これからもその調子で頑張ってくれ。もうこの件は、全部おまえに任せたからな。色々準備もあるだろうし、ひとまず身体を休めて……』
 ―――思い出した。
「………………はぁ~」
 なんかガックリ力抜けた感じで、開けようとしたドアノブを掴んだまま、でっかいため息が出た。
「そうだよ。これ言わなきゃなんないよ。あ~もうどうしよ」
 出会ってから十二年、一緒に住むようになって八年。

 その生活も、これで終わる。

 もうため息も出ず、ぼや~、っと空を見る。
 憎ったらしいくらい晴れてるし。なのに心は一気にどんよりした。
 ―――くそ、どうすんだよ俺ぇ~
 また出そうになる溜息をほっといてドアを開けた。とにかくコーヒーでもいれて落ち着こう―――
「……え」
 間抜けな声が漏れたのにも気づかず、開いたドアのノブを掴んだまま固まった。
 リビングのソファに、きっちりスーツ着たあいつが、両肘を膝に乗せた形で前屈みに座っていて、こっち見てる。混乱しながら「なんで……?」おもわず呟く。
 だってこの時間は仕事だろ? なのになんでいんの?
 くそ真面目で馬鹿みたいに丈夫で、四十度の熱出てるのに気づかないで一日仕事するような奴だよ?
 月金九時五時、しばしば残業ありで、もちろん仕事休んだことなんて無いこいつが、平日の昼間、家にいるなんてありえない。
 ありえないのにいる。
「なんだよ、なにしてんだよ」
 ちょい責める声になったけど、丹生田にゅうだ健朗たけろうは、いつもとは少し違い、どこか茫洋とした顔つきになっていた。
 さらにきっちりスーツ着てネクタイも緩んでない。
(うわぁ、やっぱかっこいいなあ………)
 なんて思っちまうのもいつものことで、ビックリしてたのもちょい飛んで、おもわずニッと笑ってしまって、すぐに思い出し、笑みはあいまいになる。

 ――――言わなきゃいけないことがある。

 ここんトコずっと、同じような夜を過ごしてた気がする。
 隣で寝てる丹生田の、まっすぐ気をつけの姿勢で上向いてる寝顔とか、穏やかな寝息とか、そんなのにめちゃくちゃ煩悩刺激されまくりながら、触れちまったらヤバいって思いながら、アタマん中ぐちゃぐちゃになりながら、丹生田の仕事を考えたり、自分の仕事を考えたり、ここまでの十二年を考えたり、コレが終わりになるって思ったら切なくて涙出そうになって――――そう。ずっとそんな毎日だった。
 出張先でも帰ったらちゃんとしなきゃ、なんて考えてたり、かなりグダグダで。
 それが作夜、動かしようもなく決定的に、いや決定はだいぶ前のことだったんだけど、なんかの拍子で変更にならねえかな、なんて逃げる気持ちもあって、んで言えないでズルズルしてた。
 それがゆうべで逃げ道なんてねえんだって突きつけられて、時間も無いんだって焦って、もう言うしか無い、なんて思いながら飲んでて。
 帰ってきて、いつのまにか寝てたんだけど、眠りに落ちるギリギリまで考えてたことはひとつ。
(しっかりしろ。笑って言え。いいかげん覚悟決めろ)
 そんな感じで自分にハッパかけて、今言え、さあ言え、なんて……でも言えずに……いつの間にか眠っちまった作夜の自分を思い出してたら、こっち見てた丹生田は、一度瞬いてから、ふ、と笑んだ。
 拓海は丹生田のこの笑顔が大好きで、簡単に癒やされてしまう。驚きとか疑問とか抱えてた懊悩おうのうとか、そんなあれこれがひとまず飛んだ。
 柔らかく頬を緩めた丹生田が、視線を時計に向ける。
「ずいぶんゆっくり寝ているんだな。いつもこうなのか?」
 時刻を確認して呟くような低い声で言った。もちろん、このリビングにも彼が決めた時計がある。シンプルで狂いのない時間を示すデジタル時計だ。
 俺も時計をちらっと見やり、笑みを返しながら、片手をドアノブに掛けたまま前髪をかき上げた。
「いや、いつもじゃねえよ。だから今日はさ、明日も休みだし、部長と飲んだし、久し振りの連休で………」
「ああ、そう言ってたな。済まん」
「別に謝らなくていいけど」
 曖昧を嫌う。間違ったと思ったら必ずきっちり謝罪する。そのかわり間違っていないと思ってる時は、絶対に折れない。そんなとこも大好きだ。
 ソファに座ったまま、丹生田は小さく頷いて、労るように言った。
「このところ藤枝は北海道へ行ったり来たりで忙しかったからな。仕事は一区切り付いたのか」
「……ああ、まあ……一応」
 問いに懊悩が思い出され、曖昧に言葉を濁す。
「……そうか」
 眼を笑みの形に細めたまま低く柔らかい声で言うと、丹生田はふいと視線を前面の窓に向け、少し肩を動かしてから、思い出したようにネクタイを緩める。そのままきちんとプレスした清潔なシャツのボタンをひとつ、ふたつと外す。
 いつから居たんだろ。一度は出社したんかな。でもそんなら、なんで今部屋にいるんだよ?
 笑みをいたままの横顔を見つめながら、拓海はようやく足を動かして寝室のドアを閉じた。
 リビングは木材と鉄で構成された、武骨な雰囲気で統一されている。
 TVボードと本棚が一体となった壁一面を覆う収納も、食卓と椅子も、ソファもセンターテーブルも、鉄とオーク材を用いた重厚な作りのもので、これは自社商品のオーダーメイドだ。
 窓に向かって設置してある、どっしりとした革張りのソファ、そこに座っている丹生田の前、センターテーブルの上の南部鉄の灰皿には、一本のタバコが半分ほど灰になった状態で、煙を一筋、立ち上らせている。
 それに目を止め、ソファと角を共有して置いてある革張りスツールに腰を下ろしながら、テーブルに置いてあった自分のタバコを手に取って確認した。灰皿の一本と同じフィルターだ。ここから抜いたらしい。
「珍しいな。タバコ」
 問いかけると丹生田は、二、三度瞬いて、灰皿に目を落とした。「………ああ」返ったのは機械的な、心ここにあらずの返答。
 丹生田はタバコを吸わない。
 嫌煙家じゃねえし、全く吸わないわけでもないけど、寝室での喫煙は厳禁されてる。家にいるとチェーンスモークしちまう拓海はたしなめられてばっかだったりする。
 テーブルにタバコが置きっぱなしなのは良くない、灰皿の始末を怠るな、なんつって良く言われてるし、丹生田がタバコ吸うのを見るのはえらく久し振り。
 そうだ、ここに引っ越すつう話をしたときに吸ってた、なんて思い出す。あれは四年……いや五年前か。
 そんなことを覚えている自分に空しくなりつつ、ヘヘッとか笑ってたら、長い沈黙の後、低い声が漏れた。
「……置いてあったからな、なんとなく。……だがもういい、実際吸っていない」
 手を灰皿へ伸ばし、そのまま消そうとした丹生田の手首を掴み、けぶるタバコを奪った。伸びた灰がぽとりと落ちる。
「なら俺、吸うよ。もったいない」
「……そうか」
 抗うことなくタバコを渡した丹生田は、また元通りソファに背を預けて、ぼんやりと窓を見る。
 また黙っちまった横顔を見つめながら、既に短かったタバコを、ひと吸いだけして灰皿へ押しつけた。
 そしてテーブル上に角を揃えておいてあるタバコとライターを手にとって、新たな一本に火をつけ、煙を吐き出す。
 ひと月遅れの八月で三十歳になった丹生田は、初めて出会った十八歳の時から印象が変わらない。
 学生時代から見たら多少痩せたが、筋肉質ですごく背が高い。眉がキリッとした男らしい顔つきの中、目が意外と優しい。健康的で清潔感あり、健やかな精神が外見に作用している感じ。温厚で口数少なく、滅多に感情を露わにしない。
 タバコを燻らせつつ、丹生田の横顔に相変わらず癒やされて、追想の海へ思考を飛ばす。
 ――――初めて会った時は、お互いまだ十八のガキだった。
 俺は茶髪のロン毛にしてて、丹生田は短めに切りそろえたダサい短髪だった。
(……あれから十二年か。早いな……)
 当時はあんまり分かってなかったけど、今思えばいきなりフォーリンラブな状態だったよなあ。
 彼女がいた時期もあるし、ぶっちゃけ女の子とキスとかそれ以上もやったことはあるし、自分は普通ってか、女の子好きなんだと思ってた。野郎ばっかでありがちなエロ系の盛り上がりにはついていけなかったりしたけど、自分は醒めたタイプなんだと思って気にしてなかった。

 けど丹生田はそれまでと絶対的に違った。

 声を聞くだけで嬉しくなる。その他大勢がいても一緒にメシ食うだけで幸せで、目を見て話なんてしたら舞い上がった。それまでそんなの無かった。なんだか分かんねえけど、ともかくめっちゃテンション上がって、最高に良い気分だったんだ。
 だから俺は一年の頃、酒飲んだりして盛り上がるとよく言ってた。

「ビバ! 賢風寮!!」

 なんだそれとか笑われながら。
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