VOICE-Run after me-

紅と碧湖

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1章 Run after me -若狼-

5.町

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 夜半。
 村は寝静まっていた。
 ひと族は夜になると色々鈍くなる。けれど俺たちは、月が天空にある間こそ感覚が研ぎ澄まされ、身体も軽くなる。それに、これ以上月が細ったら身体が重くなり、長く走ることは無理になるだろう。
 “あいつベータ”も同じだと分かっていたけど、動くなら少しでも早いほうが良いと判断した。
 俺は狩りルウだ。
 “あいつベータ”より身が軽い。“あいつベータ”より長く走れる。“あいつベータ”より気配を消すのに長けている。
 強い決意と共に、村でもらった農夫の服とウサギのベストを着てブーツを履く。

「ルーカスの持ち物ってこれだけだもの。何か思い出すと良いね」

 リリはそう言って、俺の服を洗ってのしを掛け、きれいに畳んでくれた。でも目立つ格好らしいから身につけるのはやめておく。もしかしたら二度と着ないかも知れない、けど捨て置く気になれなくて、布に巻いて背中にくくりつける。月が細ってきて、どうせ変化はできないから、農夫の服でいいのだ。
 密かに小屋を出ると意識を集中し、周囲を探る。うん、大丈夫。あいつの気配はしない。
 月が細って衰える前に逃げるんだ。ひと族の多いところへ。紛れて分からなくなるほどひと族がたむろするところへ。そうなれば“あいつベータ”に俺は探せない。きっと逃げ切れる。逃げ切ってやる。

 俺はめいっぱい気配を殺し、夜陰を走る。
 少しでも早くひと族に紛れたい。
 なので馬車で五日ほどかかるという町へ向かうことにする。昼歩いて夜走り、二つめの夜が明ける前に町に着いた。
 町は高い塀に囲まれ、門が閉じていた。ひと族は昼に活動し、夜は眠る。寝ている間に獣に襲われないようにしているのかな。この程度の塀、飛び越えるなど人狼には造作もないこと。だけど紛れるなら目立たない方がいいだろう。
 朝になるのを待って開いた門から町に入る。
 塀の外で待ってる間、ちょっと変な臭いにおいがしたけど、ひと族はいろいろ鈍いからこういうの気にならないんだろうと思っていた。この中で紛れるんだから、これくらいは我慢できるようにならなくちゃ。
 そう思ってた、のに。
 門を越えたらいきなり、いろんな匂いが溢れててクラッとした。
 息を詰めるようにしてもひどくくさい。あの高い塀は、これを外に漏らさないためにあったんだろうか。息を詰めるようにしても匂いは消えない。これはひどい。耐えられそうにない。ここにいたら毛や肌や服もこんなふうに臭くなるのか? いや、この中に紛れるんだ。そう決めたんだ。
 必死に感覚を抑えながら歩く。
 バカみたいにたくさんひと族がいて、進むごとにどんどん臭くなっていく。
 なんで糞尿の匂いがこんなにするんだ。ひと族は糞の始末をしないのか。良くこんなところで暮らせるなとイライラしながら歩いて、匂いに耐えきれなくて倒れそうになった頃、大きな川に行き着いた。
 流れる川からは水の匂い。魚の匂いもする。
 ここも臭い、けどまだマシだと鼻を癒しながら川縁にしゃがみ込む。川の水は濁っているし、ちょっと臭い。これは飲めるんだろうか。しゃがんだ膝の間に頭を突っ込むと、自分の匂いの方が強くなって、ちょっと楽だ。
 ずっと詰めていた息を、はあっと吐き出した。
 痕跡を残さないよう、飲まず食わずでここまで走った。村のメスたちがおいしいお店がたくさんあると言っていたから、町に入ればなにか食えると思っていた。けれど臭いにやられた。腹は減っているけど食う気分になれない。

「どうしよう」

 呟いて、頭をくしゃくしゃ乱す。
 こんな臭いところで、これからやっていけるだろうか。けれどここなら“あいつベータ”に見つかることはないだろう。いや、優れた“狩りルウ”が来たって大丈夫だ。町じゅうがこんな匂いじゃ、俺を見つけるなんてできるわけがない。隠れるならここが良い。

「……そうだ。思い出せ」

 気配を消す訓練をした時、感覚を抑えるやり方は学んだ。
 狩りに出たとき見つけた獣に察知されないように、感覚を殺して存在を薄める。もし郷を脅かすものがいたなら、気配を薄めて郷へ知らせる。それも“狩りルウ”の大切な役目だと教えられた。
 それを思い出してみる。
 ……まず感覚を薄める。気配が薄まる感じ。自分を薄める感じ。耳を閉ざし、鼻も閉ざして。
 やってみたら少し楽になった。ホッと息を吐いたら感覚が戻ってきて、ウッとなる。

(失敗した。けど……なんとかなるかな……)

 ふと水の方から気配が近づいてくるのに気づいた。ひと族の声も。顔を上げると舟が近づいてきていた。
 郷にも川を渡る舟はあるけど、船を操る人狼の他に二匹しか乗れない。それと比べるとずいぶん立派な舟だ。馬車といい、家といい、ひと族はこういうのを作るのが上手い。
 川岸にある板に舟を着けたひと族のオス何人かが板の上に荷を上げ始め、ぷんと魚の匂いがした。
 魚の匂いが鼻を癒す。肩の力が少し抜ける。
 荷揚げしてるひと族からも魚の匂いがしていて、なんだかホッとした。魚はあまり食べないけど、川縁ここも臭くないわけじゃないけど、さっきまでよりずっと良い。ここにもこういう場所があるんだ。
 うん、頑張ればやっていけるかもしれない。
 夜になって、少し元気が出たので魚を捕って食べ、そっと川で水浴びをして臭さを紛らわせた。村で貰った服も臭くなっているような気がして洗った。
 次の日も、そのまた次の日も川縁にいた。少しずつ身体を慣らそうと町に入る。感覚を閉ざす訓練だ。疲れたり耐えられなくなったら、また川縁に戻る。
 月が痩せて鼻が鈍くなってくると、だいぶ楽になった。
 なので町を歩く時間を増やす。
 歩いているとあちこちで雌たちが発情していて、飲み物や食い物をくれた。ときどき雄も発情していたのが不思議だったけどメシは貰った。

 俺は学んだ。
 発情しているひと族は、頼みを聞いてくれる。
 発情に付き合うつもりは無い、けど利用はできる。これで生きていけるかも知れない。
 やがて分かった。ひと族の町で暮らすにはカネが必要なのだ。食べるのも飲むのもいちいちカネがかかるし、寝るところもカネがないとダメだと知った。
 発情している奴は言うことを聞くけど、カネはなかなかくれない。なら奪うのが手っ取り早い。
 けれど目立つのはマズイ。ひと族の中にいると俺はただでさえ目立ってしまうらしい。これ以上目立つような真似はしたくない。見つかりやすくなってしまう。
 そういえば、と思い出す。雌にカネをくれと言ったとき、怒った顔になっていた。

「ひとにそんなこと言ってないで働きなさいよ」

 なるほど、働くとカネを貰えるのか。ひと族がみんなしていることなら目立たずにカネを手に入れられるし、務めを果たすと考えるなら人狼にもできる。
 そこでメシをくれるひと族に、できそうな仕事があったら働きたいと言ってみた。けれど仕事をするには誰かの紹介が必要だと断られ続けた。夜はメシをくれるひと族が寝るし、疲れるので川縁で休んだ。


 月が満ちてくると、やっぱり町中には居られなくなる。
 俺はまた川縁で一日過ごす生活に戻った。魚を捕るひと族は毎日来るので、ぼんやり見てたら、「おう、兄ちゃん」声をかけられた。

「しょっちゅうここに居るけど、仕事は」
「探してるけど」
「見つからないのか」
「ほんじゃあ、少し手伝ってくれ」

 魚を捕る仕事は、あまり臭くなくて助かった。

「兄ちゃん細っこいのに力あるなあ。少ないけど、これ持ってけ」

 魚を少しと、カネも少しだけ貰った。

「どこに住んでるんだ?」
「家は無いんだ」
「ああ? 男前がなに言ってんだよ」
「おめえさんなら、女がほっとかねえだろ」

 メシを食わせてもらうことはあると言ったら、ゲラゲラ笑われた。

「メシだけじゃねえだろーが!」
「他のモンもたんまり食ってんだろ!」

 どういうことか聞いて、雌と子作りすることを『食う』と言うのだと知ったけれど、そんなことはしてないと言っても信じて貰えなかった。
 魚を捕る仕事をするおっさんたちのことを漁師というのだと理解した頃、俺は時々漁師の手伝いをして少しだけカネをもらうようになった。
 月が満ちていたら川縁で暮らす。
 月が痩せたら町へ入って、仕事は無いか探しながら発情してる奴にメシを食わせて貰う生活に戻る。
 漁師のおっさんたちが、住むところがある方が仕事が見つかると言った。ひと族と同じ住処が要るということだろう。つまりひと族と同じように夜寝なければならない。そんなことできるんだろうか。
 人狼は基本的に夜行動することが多い。でもひと族の町でやっていくなら、仕事をするにしてもひと族のフリをしないとダメだろう。
 住処を得るにはカネが要る。
 しばらくカネをためて、試しに宿に泊まってみようと思う。新月なら大丈夫かもしれない。


 新月になった。
 この時期は感覚が鈍くなるから、町中でもわりと楽に過ごせる。
 けど宿は無理だった。川縁の方が安心できる。
 やっぱり臭いし、すぐ隣の部屋にひと族の気配がするのが落ち着かないし、夜遅くまで起きてるひと族の声がうるさいし、新月でもやっぱり、どうしても臭い。感覚を慌てて閉じて、それでも臭くてうるさくて、ここで暮らしていけるのか、すごく不安になった。
 せっかく少しずつ増えてたカネの使い道が無くなった。
 ガッカリして、眠るなんてできなくて、朝、宿を出てまた川縁に行った。
 漁師のおっさんたちは既に仕事をしているようでいなかった。鼻が少し癒えてから、まずカネを使おうと思った。町中に住むなんて無理だと分かったから、他のことにカネを使うのだ。
 そうだ、食事をするのにもカネがかかるのだ。住むところを借りなくてもカネはいる。そうだ、肉を食おう。元気になれば頑張れるかもしれない。
 食い物屋の多い通りはとても臭いので、少し離れた肉の匂いがする店に入る。ここなら肉の匂いで臭いのもいくらか誤魔化せる気がした。
 店に入ると四十過ぎくらいの雌がいて、じっと俺を見ていた。見返すと、ちょっと発情したので近寄る。その雌の周りには何人か雄がいて、みんなその雌に発情して、喋りながら食っている。本当にひと族は不思議だ。発情しながらメシを食うなんて、器用だなと思う。
 近寄ると、雌から発情の匂いはなくなっていた。

「あなたも一緒にお食べなさいな。好きなものを頼むと良いわ」

 雌がそう言ってメシを食わせてくれた。
 カネを使うつもりだったのに、使わずにたっぷり肉を食った。
 雄たちの中には発情してないのもいたけど、その雌は誰にも発情してなかったけど、その代わりに、ひどく甘いようなヘンな匂いがした。
 メシを食うのに良い匂いではなかったけど、新月だったからなんとか耐えられたし、久しぶりにたっぷり肉を食って、身体に力が戻るような気がした。
 ニッコリ礼を言うと、雌もニコニコした。

「あなた、惜しいわね。着るものに気を遣えばもっと良くなるのに」
「あまりカネがないんだ」

 部屋を借りなくても、メシを食うにはカネが必要だ。着るものなんて何でも良い。
 けれどその雌は、にっこり言った。

「あら、じゃあ買ってあげる。いらっしゃいな」

 メシを食い終えてから雌の所有らしい馬車に乗れと言われた。俺は馬に怯えず仕事をするよう言い聞かせ、馬車に乗った。
 馬はきちんと仕事をして、馬車が町の奥にある高い塔のような建物に近づいていく。そっちに行く途中には、ひどく臭い広場があって通りたくなかったので、こっちの方に行ったことが無かった。
 馬車の中はすぐ近くにひと族がいるし、やっぱり臭いところを通るときは臭くて必死に感覚を抑えていた。
 でも馬車を降りて気づいた。その高い塔の周りは、あんまり臭くなかったんだ。いや臭いけど、ここなら耐えられる。
 その雌は俺に服を買うと言って、いくつかの店に入り、あれが良いこれが良いといろいろ言った。
 けど、それどころじゃあない。この辺なら感覚を殺すのにそこまで頑張らなくて済む。これなら住んでも大丈夫かもしれない。満月になる前にここにねぐらが欲しい。
 肉の店でも服の店でも、この雌は偉そうで、馬車を操る雄もこの雌に従っているようだった。
 もしかしたらひと族のなかでは力を持っているのかもしれない。

「このあたりで働けないかな」

 そう聞いてみると、雌はちょっとびっくりした顔になって、すぐにっこりした。

「あら、それならうちに来なさいよ」
「あんたと子作りする気は無いよ。ねぐらが欲しいんだ」

 発情の匂いはしなかったけど、ひと族は簡単に発情する。だから言ったのに、雌はとても楽しそうに笑った。

「わたしも今さら子供なんて欲しくないわ。あなた面白いわね。良い虫除けになりそう」
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