VOICE-Run after me-

紅と碧湖

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1章 Run after me -若狼-

6.働く

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 俺はその雌に雇われることになった。
 みながレディ・アグネッサと呼んでいたのでそう呼ぶと、「アグネッサでいいわ」と言われて名前を聞かれた。
 名は無い、ルーカスと呼ばれていたと教えて、物忘れの病だと言ったら、アグネッサはニンマリと笑った。

「あら、なにも覚えてないの。だったらずっとあなたを帰さなくても良いって事よね」
「……思い出さなければ」
「あらあら」

 こんなところにずっといたくない。あのアルファさえいなければ、郷に戻りたい。
 郷は臭くないし、風も水も気持ち良い。郷に戻りたい。
 あいつベータはいるだろうけれど、俺は狩りルウの仕事をちゃんとやれる。オメガになるのが嫌なだけだ。あのアルファが失われれば、次のアルファが立ちオメガが決まれば、俺は郷に戻れるのだ。

「思ったより賢い子ね。いいわ、思い出したら言いなさい」

 アグネッサは歌姫という仕事をしている三十五歳だった。四十過ぎくらいの匂いがするのに、ずいぶん老けていると驚いた。
 けれど他のひと族にも年を聞いてみて、ひと族は皆そうなのだと分かった。育つのが遅いのに老けるのは早いようだ。
 人狼は三歳で木に登るし、十歳から子狼の仕事をする。十五には郷の務めを習い始め、十八で成獣となったら、老い始めるまで匂いは変わらない。四十くらいの匂い、五十くらいの匂いというのはあるが、円熟を感じさせる芳香だ。アグネッサからは香ったけれど、ひと族からこういう芳香を感じることはあまりない。やはり生き物として違うのだなと思う。
 とにかく、ここはあまり臭くない。
 ときどき郷みたいに爽やかな気持ち良い風が吹くし、ここならずっといられるかもしれない。


 アグネッサに仕える、執事と呼ばれている壮年の雄に、屋敷の部屋のひとつを使うよう言われた。
 自分の住処ができるのは嬉しい。ここを自分の匂いにできれば、かなり楽になる。
 屋敷にいれば食事も出る。身ぎれいにできるよう服なども支給する。だから誠心誠意、あるじに使えるようにと言われた。
 もちろん務めは果たす。けれどひと族が俺の主になることはない。そう思ったのが伝わったらしい。
 執事は片眉を上げ、厳しい目になった。

「いずれ分かります。あの方は仕えるに足る主です」

 食事には肉も出るし風呂も使える。そう、風呂。人狼とは違い、ひと族は体を洗うのだ。
 俺たちだって泥だらけになって働くこともある。けれど人型から狼に変化するたび、その逆のときも、新たな皮と毛を得る。人型で働いて汗をかけば森の清流で泳ぐし、自分の匂いを保つのは大切なこと。
 つまり石鹸なんてものは使わないし、香油を頭の毛や肌に擦りつけることもしない。
 そして分かった。雌たちがぷんぷん発情の匂いをさせて近寄ってくるたび、甘ったるいような気持ち悪い匂いがしたけれど、あれは香油だったのだ。
 花の良い香りがするでしょうと言われたけれど、花の匂いはもっと気持ちいい。本当の花を使っていると聞いたけれど、わざわざあんなヘンな匂いにしちゃうなんて、しかも体につけるなんて、まったく意味が分からない。
 だいたい自分の匂いが分からなくなったら困らないのかと不思議でならない。匂いは俺たちそれぞれ独特のものだ。自分から自分以外の匂いがしたら落ち着かないだろうに。
 ひと族に紛れるなら必要なことなんだろうと頑張ったけれど、香油は無理だった。自分が自分の匂いじゃなくなるのは耐え難い。
 俺は香油を使わずに知らんぷりしてたけど、誰も何も言わなかった。
 甘ったるい匂いは嫌だけれど、糞尿の臭いよりはマシだ。耐えられる範囲と思って我慢することにした。

「主の望みですから、あなたを立派な従者としましょう。学ぶべきことは多いですよ」

 執事にたくさんのことを教えられた。
 立ち方、歩き方、動き方。振る舞いや言葉遣い。行儀作法というもの。他にもいろいろ。
 メシを食うにも決まった動きがあるなんて面倒だと思ったけれど、務めに必要なら覚えるだけだ。与えられた役目をこなさないのは、人狼にとって恥ずべきことだ。
 話し方や動きができるようになると、上等な服や靴を与えられ、髪型や身だしなみを整えるやり方も教わった。覚えが良いと言われたけれど当たり前だ。俺は語り部シグマの子。郷では隠していたけど本当は賢いんだ。
 できるようになって与えられた仕事は、客が来た時に出迎えたり、屋敷を案内したり、飲み物や食事を給仕したり。要するに、心地よく過ごしてもらうための助けをするのだと理解する。
 仕事をしたらカネをくれた。といってもカネが欲しかったのは住処を得るためで、ここに住めて食うに困らなくなったので使い道は無い。
 でもここにいられなくなったら使うかもしれない。カネはためておくことにした。

 屋敷で飯を食ったりしていると、甘ったるい匂いを纏った雌たちが集まってくる。
 話しかけてくるのだが、たいていなに言ってるか分からないし、分かっても俺に関係ないとしか思えない話ばかり。まあ噂話だ。そういえば村の若い雌たちも同じような感じだった。こんな変な匂いはしなかったけど。
 ひと族の雌というのは、こういうものなんだろうか。
 村でもそうだったけれど、ここでも雌たちはよく発情していた。雌だけじゃなく若い雄は頻繁に発情するし、年を取って子を成すことができない者も発情していた。
 それでようやく分かった。
 ひと族は簡単に発情するんだ。郷を追われた雄たちもこんな感じだったのかなと思う。なにより不思議なことに、発情したから子作りしたいというわけじゃ無いようだから、無視しても失礼じゃない。



 しばらくして、不思議な訓練が始まった。
 アグネッサのすぐ後ろに従うというやつ。指導は執事だ。

「練習しましょう。つかず離れずの距離感を保ってください」

 ただついて歩いて、立ち止まれば後ろか横に立つ。誰もアグネッサに触れないよう、周りに来るひと族の位置によって、さりげなく対応を変えるのだと言われた。
 アグネッサは小さい。頭の位置は俺の胸くらい。だから少し腕を上げるだけで、アグネッサの頭をカバーできる。あとは間に割って入ってみたり、こんな感じかなとやってみる。

「良いですね。立ち姿を美しく保っている。さりげなくエレガントに主を守る立ち位置を選べています」

 執事に褒められた。

「こんなのでいいのですか」
「いいのよ、虫除けなんだから。後はそうねえ、危なそうなのやシツコイのを適当に散らして。ああでも怪我させちゃダメよ」

 アグネッサが楽しそうに言う。執事も満足そうだ。
 よく分からなかったけど、アグネッサが嫌だと思うのを近寄らせなければ良いのだと理解した。

「ルーカス、出番よ」

 何日か経って言われた。

「パーティーがあるから、あなたを連れて行くわね」

 いつもよりもっと上等な服を着せられ、頭の毛を丁寧にくしけずられ、香油を塗られそうになったのは何とか避けて、アグネッサと一緒に馬車に乗る。連れていかれたのは天井が高くて広い建物。
 たくさんのひと族がいて、アグネッサが普通に進むだけで触れそうになる。俺ともう一人、俺より背の低い若い雄で付き従い、誰もアグネッサに触れないようにする。訓練の通りに、ただついて歩くだけ。あとは立っているだけ。

「本当にこれだけで良いのですか」
「いいのよ」

 アグネッサは満足そうだった。
 結構な数の発情した雄がアグネッサに近づこうとする。子は欲しくないらしいので、発情している雄が近寄ってきたら身体を間に入れたり、飲み物を渡したり、そっと耳打ちして他へ誘導したりして邪魔した。
 雌や発情してない雄も、アグネッサから嫌がってる匂いがしたら同じようにした。怪我はさせないように、さりげなく。

「あなた、いいわね。空気が読めてる」

 アグネッサは俺を褒めて、執事は俺にエスコートの仕方を教えた。
 それから、ひと族が多く集まる場所へ行くとき、俺を連れて行くようになった。
 場所によっては、付き従うように言われるのが俺だけのこともある。ついて歩いて、必要な場面ではエスコートして、アグネッサから嫌がる匂いが出ないようにする。
 そのうち、アグネッサが外出するときには必ず呼ばれるようになった。忙しいアグネッサにビッシリ付くので、けっこう忙しい。

「お気に入りは大変だねえ」

 とか言う者はいたけど、なんのことか分からない。
 アグネッサが来いと言えば行く。居ろと言えば居る。それが俺の仕事だ。たいしたことじゃ無いと油断してはいけない。アグネッサに発情する雄はどこにでもいる。望まぬ子作りは不幸を呼ぶと俺たちは知っている。ひと族だって同じだろうと思えば、雇い主であるアグネッサを不幸にしたくない。

「おい、いい気になるなよ」

 攻撃的な匂いをぷんぷんさせて睨んできたのは、屋敷で働く若い雄。俺が来るまで、今俺がやってる仕事をしていた。

「ああ、聞いてるよ、あんたのことは」
 
 こいつは仕事じゃないときもアグネッサにひたすらくっついて、寝室や風呂までつきまとったらしい。子作りを迫ったこともあったとか。雌たちが言うには「雇い主を落として主人の椅子に座ろうとしてた」ということらしい。けれどうまく行かなくて、結果そこら辺の雌と子作りしまくっていた、とかなんとか。
 そんな話を聞かされて、だから? と思っていた。
 なんでそんな話を俺に聞かせるんだろう。関係ないのに。
 けど分かった。いずれこういうふうに言ってくるんだろうって、雌たちは分かってたんだ。
 与えられた務めをきちんとやりきるのは当然のことで、優秀だと認められれば重要な仕事を任せられるようになる。使えなければ他の務めに代わる。序列を決めるのはアルファであり、同じ階位の序列が上の者だ。自分で決めることじゃない。
 少なくとも郷のために働くというのはそういうことだ。ひと族であろうと、仕事をするのは同じだろうに。

「アグネッサが呆れるのも当然だなと思ってたよ」

 まして上位にある者が発情してないのに子作りを迫るなんて、頭を疑う。

「はっ、イイコぶりやがって! どうせおまえだって女食ってるんだろ」

 なんでそうなる。やっぱりこいつは頭がおかしい。

「……俺はあんたと違うよ」
「ずいぶんやり方が上手いんだな。いけすかねえ真面目野郎に見えるぜ? そんなわけないよなぁ? そのツラで女食ってねえわけねえよなぁ? 白状しろよ、どうやってんだ?」
「なにを言ってるんだ」
「教えてくれよ。俺も教えてやるからよ」
「なにを」

 ニヤッと笑ったそいつは、俺の胸元を掴んでグイッと顔を近づけてきた。コイツなんかクサい。

「この間、ゲイル様の屋敷に用心棒が雇われたんだってよ。お前よりデカくて強い奴らしいぞ」
「それがなにか?」

 ゲイルというのは貴族で、いつもアグネッサに発情してる。だから俺はゲイルが近寄らないようにしてた。

「ゲイル様は、ずっと前からレディ・アグネッサを狙ってる。おまえだって知ってるだろ」
「だからそれが?」
「いいところまで行ったのに、おまえが邪魔するってお腹立ちなんだと」

 そんなわけがない。アグネッサは誰にも発情していない。
 匂いが分からなくても、それくらい分かるんじゃないのか。ましてこいつは今でもアグネッサに発情してるのに、他の雄と番わせようというのか。意味が分からない。

「ゲイル様はおまえを潰すって言ってるんだってよ。せいぜい怯えてりゃいい。その澄まし顔で、潰されるのを待ってろ、クソが」

 どうしてそうなる。発情と序列を混同しているのか?
 吐きそうになり、思わず顔をしかめていた。
 ひと族には恋の病というのがあると、雌たちから聞いた。それは運命の番を見つけた俺たちに近いと思った。
 けどこいつにそんな気配はない。ところ構わず発情してるだけだ。
 それにひどく嫌な匂いがする。糞尿よりもっと嫌な匂い。ああ、クサい。

「……気持ち悪い」
「ああ? なに言った? もう一回言ってみろ」
「嫌だ。くちが腐る」
「ああ!?」

 怒鳴りながらこぶしを振り上げたので、蹴りを入れて身体を離した。まだ近づいてきそうなので気持ち悪くて目一杯腕を伸ばし、のど元を抑えて床に押さえつける。これ以上近づきたくない。触れてる手も腐りそうで気持ち悪い。

「はっ……! 離せっ!!」

 じたばたして触っちゃいそうで嫌だ。踏んじゃおうかな。でもその隙に動いたら面倒くさいな。

「おまえなんか……っ! 俺をなんだと思って……!」
「そっちこそいい気になるな」

 意識して威嚇する。
 やられたことはあるけど、やるのは初めてだ。でもなんとなく分かる。牙を剥くイメージ。

「……ひっ」

 雄は怯えたような目になって、身体の力が抜けた。すぐに手を離す。ああ気持ち悪い、手が腐りそう。

「あんたが俺に勝てるわけないだろ」

 人狼がひと族に負けるわけがない。まして糞よりクサい匂いがぷんぷんする、こんな奴に。

「……おまえ……っ、いったいなにもんだ……」
「さあね。物忘れの病なんだ」

 ニッと、牙を剥くように笑ってやった。
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