楽茶碗

ひでとし

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1 北京

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                       楽茶碗


★この話は歴史に触発されたフィクションです。
 実在の京都の名家の楽家とは無関係です。



 1 北京

 大明国の嘉靖二十八年(1549)のことである。
国都・北京の皇宮である紫禁城の修内司(宮殿維持管理署)の下級役人の鄭建は修繕検査のために登った宮殿の屋根から宰相の厳嵩が皇子を毒殺する現場を目撃してしまった。

鄭建が登った延命宮の主殿の裏側は第四皇子の住まいの順陽宮の書院である。
鄭建が屋根の上で大棟の痛み具合を調べていると順陽宮の書院では第四皇子の朱載圳(しゅたいくん)と厳嵩が酒を酌み交わしながら和やかに談笑するのが見られた。

皇子と宰相を屋根の上から見下ろすなど朝臣として不敬極まりないが、向こうは屋根の上の鄭建には気付いていない。

鄭建としては修内司の責務を着実に果たさねばならない。
紫禁城には夥しい殿閣があり、屋根の検査は次々とこなしていかねば修理が間に合わなくなる。
不敬だからといってここで屋根を降りて検査を後日に回すと工事が遅れて面倒なことになる。

このところ、しばらく雨が続いて屋根に登れなかったために検査が出来ず、工期の余裕がないのだ。
工事が遅れれば責任を取らされて減俸処分、あるいは降格されるかもしれない。
そうなってはたまったものではない。
ただでさえ足りない俸給がさらに減ればもはや飢え死にである。
鄭建には養わねばならぬ妻と三人の子供らもいるのだ。

「皇子と宰相には気づかなかったことにして屋根の検査はこのまま続けよう、
ここだけ飛ばすわけにもいかないから・・」

鄭建はそう思って作業を続けた。

しかし、眼下に高貴な身分の第四皇子と宰相がいるのはどうしても気になる。
つい、そちらに目が行ってしまう、チラチラと覗き見ていると宰相と話していた第四皇子が笑いながら席を立った。厠にでも行ったのだろうか。
それをにこやかに見送った宰相は第四皇子が部屋を出ると急に険しい顔つきに変わり、
第四皇子が口にしていた酒杯に懐から取り出した小瓶の粉を振りかけている。

「あ、あれはなんだ?」

鄭建は気になり目が離せなくなった。

少しして部屋に戻ってきた第四皇子は酒注を手に取ると、自分の盃と宰相の酒杯に注いで楽しそうに乾杯したが、
突然に苦悶の表情に変わり、胸を抑えて苦しみだした。
第四皇子はそのまま床に倒れ声も出さずに激しく痙攣していたが、やがて動かなくなった。
死んだのだろう。

宰相の厳嵩は、第四皇子の苦しむ様子をただ傲然と見下ろすばかりであった。

毒殺を目にした鄭建は恐ろしさのあまり、手にしていた記録用の筆を落としてしまった。
筆は屋根をコロコロ転がり書院の前庭に落ち、かすかな音を立てたが宰相は気づいていないようである。

「とんでもないものを見てしまった。宰相に知れたら我が命はない」

鄭建は恐怖におののいた。

 鄭建の家は六代前からの紫禁城の役人である。朝廷の権力争いの恐ろしさは身に染みて知っている。
鄭建の祖父は先帝の兄の侍従であったが、先帝が即位するとなんの落ち度もないのに減俸を受けた。

猜疑心の強い先帝は自分の兄弟たちに皇位を奪われるのを恐れ、生まれつき病弱で皇太子から外されていた兄にさえ警戒の目を向けた。そして何かにつけて兄の力を削ごうと、兄に与する者らを次々に弾圧したのである。

そのため多くの騒動が起き、迫害された先帝の兄は心を病んで死んだ。
忠臣の祖父はそれを悲しんで殉死を遂げたが、表向きには病死の届け出がなされた。
祖父の死を受けた父は、先帝によって祖父の時と比べて位階を七等も落とされ、俸禄も百分の一という、過酷な処分を受けた。

だが、父はただ生き抜くことだけを人生の目標とした。
大官の世継ぎに生まれたにも関わらず、微禄の下級役人の身分に甘んじて、貧しさに耐え、ただ黙々と生きて68年の天寿を全うした。
父から下級役人を継いだ鄭建も父に倣ってつましい暮らしを送り、家族との平穏な暮らしを望むだけの人生を送ってきたのだった。

しかし、この一瞬の出来事で鄭建のささやかな人生は崩壊したのだ。

「目撃が宰相に知られれば待っているのは死のみだ」

鄭建は慌てて屋根を降りると、急病と偽って紫禁城を出たものの、帰り道で酔っ払った非番の上司に出くわして酒場に連行されてしまった。この上司は酒だけを人生の楽しみとしており、非番の日は朝から飲んでいるが、始末の悪いことに武人上がりですこぶる屈強かつ粗暴で、ぐいと掴まれ引きずられては非力な鄭建では太刀打ちができない。

 二刻ほど上司の酒に付き合わされた鄭建がようやくの思いで逃げ出して自宅に帰るとすでに宰相の手が回っていた。
自宅の中庭には、妻、五歳、二歳、一歳の子供らと家令の五人の死体が転がっていたのだ。
宰相の刺客が手を下して去った直後であった。

あまりのことに鄭建は膝から崩れ落ち、涙がとめどもなく流れた。
しかし、どこかで冷静さを保っていて泣いても声は出さなかった。
まだ刺客がその辺りにいるかもしれないと思ったのだ。だが、刺客は現れず、すでに立ち去ったと判った。
どうやら刺客は家令を鄭建と間違えたらしい。
もし酔っぱらいの上司に酒場に引きずりこまれなければ、鄭建も刺客に出くわしてこの場に死体となって転がっていたであろう。

愛する妻子を殺されてしまったのに生きている意味などあるのか?
自分も殺されてしまった方が良かったのかもしれない。
いっそ首を括ろうかとも思ったが、幼時から儒学の教えを受けて来た鄭建には、

「身体髪膚之を父母に受く、損なわざるを以て孝行の始めとす
(体は親から貰った大切なものなので傷付けないのが親孝行の始めである)」

の教えが染みついている。

それで、こうして生き残った以上は、自らの命と血統を残していくのが親や先祖への孝道である、と思い直した。
だが、なんという運命なのだろうか・・

しかし、もう悲しんではいらない。すぐに逃げなければ己も惨めな死を遂げるだけである。

 鄭建は朝服を脱いで庶民の姿になり、家にある金を胴巻きに入れて腹に括り付けると下水の溝から掘割に出て、船を雇って京杭大運河に出た。

華南に向かう商人のふりをして京杭大運河を二ケ月かけて杭州まで下り、杭州からは海運で福建省の福州に向った。
福州にはかつて祖父と同じく先帝の兄に仕えた謝良国の一族がおり、彼らならば鄭建を匿ってくれるだろう。
命からがら福州にたどり着いた鄭建を謝氏一族は暖かく迎え入れてくれた。

 それから鄭建は謝氏一族の屋敷で子供らに手習いと四書五経の手ほどきをして一年余を過ごしたが、北京からお尋ね者として鄭建の似顔絵が配られているのを謝氏から教えられた。
宰相の厳嵩は鄭建の探索を諦めてはいないのだ。

「恩義ある謝氏に迷惑が掛かってはいけない」

そう思った鄭建は海を渡り、琉球へ逃亡した。




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