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一章
3.消えた足跡
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夜の静けさが、龍一の部屋を満たしていた。机の上のパソコンから漏れる青白い光が、彼の疲れた顔を照らし出す。キーボードを叩く乾いた音が、部屋に響く。検索窓に「榊原龍之介」と打ち込み、エンターキーを押した。画面に表示されるのは、無関係なページばかり。かつて自分が経営していた会社も、事故の記録も、この世界には存在しない。龍一は小さく息を吐き、椅子の背に体を預けた。もう一度、別の言葉で試してみる。「事故」「CEO」「転落」。だが、結果は同じだ。頭の中がざわつく。過去の自分がいた証拠が、この世界には何一つ残っていない。いや、あったはずのものが、跡形もなく消えている。そもそも自分の記憶は過去なのか。それとも、狂ってしまったのか。龍一は目を細め、画面を見つめた。すると、記憶が静かに蘇る。薄暗いオフィスで、部下に冷たく指示を出す自分。机に投げ捨てた契約書。そして、隣で春樹が笑う声。「龍之介、まだ帰れないの?」その少し甘えたような拗ねたような響きが、耳の奥でこだまする。龍一は目を閉じ、額を押さえた。あの頃は確かにあった。なのに、なぜここでは何も見つからないのか。
「龍にぃ、ご飯できたよ!」
階下から妹・結衣の声が聞こえてきた。龍一はパソコンを閉じ、立ち上がる。階段を下りると、食卓には家族が揃っていた。父親が新聞を広げ、母親が味噌汁を椀に注いでいる。結衣が龍一の席を指さし、「遅いよー」と笑った。龍一は小さく頷き、椅子に座った。
「龍一、最近学校はどうだ?」
父親が新聞を畳みながら尋ねてくる。龍一は箸を手に取り、適当に答えた。
「普通だよ。変わりない」
「そうか。バスケ部は頑張ってるか?」
「まぁ、それなりに」
父親は呆れたように笑い、母親が「もう少し食べなさい」と皿に料理を足した。だが、龍一の耳にはその会話が遠くに聞こえる。春樹の笑顔が頭をよぎる。あの事故で死んだはずの自分が、なぜここにいるのか。この家族は、本当に自分の家族なのか。
「龍にぃ、ほんと変だよ。なんか、ボーッとしてるし。それに…」
結衣が箸を止め、龍一をじっと見つめてきた。龍一は苦笑いを浮かべる。
「そうか? いつも通りだろ」
「ううん、絶対変。昨日も遅くまで起きてたでしょ。パソコンの音してたもん」
その言葉に、龍一は後ろめたさに似たものを感じた。妹の無邪気な声が、なぜか重く響いた。
「…ちょっと調べ物してただけだ。気にすんな」
「ふーん。それならいいけど」
結衣はそう言って、再び箸を動かし始めた。龍一は黙ってご飯を口へ運ぶが、味がしない。過去が消えたこの世界で、自分は何者なんだろう。食後、部屋に戻った龍一は、ベッドに腰を下ろした。窓から差し込む月明かりが、部屋を淡く照らす。机の上に置かれた携帯が小さく震え、画面を見ると佐藤からのメッセージだった。
「明日、部活前にちょい話したいことあるんだけど、いい?」
龍一は「わかった」と返信し、携帯を置いた。佐藤が何を話したいのか、頭の片隅で気になりつつ、目を閉じる。だが、眠りは訪れず、頭の中は混乱でいっぱいだった。春人の顔が浮かぶ。あの路地で見た影。あの声。「あいつを…潰せ…」。それが何を意味するのか、わからない。でも、春人がそこにいたことが、胸に引っかかる。
夜が更ける中、龍一は枕元の時計を見た。深夜2時を過ぎている。家族はもう眠っているだろう。静寂の中で、龍一は自分の呼吸音だけを聞いていた。春樹だった頃の記憶が、頭の奥で疼く。あの優しい笑顔。あの事故で失ったはずの自分。なのに、今ここにいる。この世界は何かがおかしい。龍一は目を閉じ、記憶をたどった。オフィスの冷たい空気。部下の怯えた目。春樹の穏やかな声。それらが混ざり合い、頭の中で渦を巻く。
朝が近づくと、ようやく浅い眠りに落ちた。だが、夢の中で春樹が笑っていた。隣にいるはずの自分が、そこにはいない。春樹が一人で路地に立ち、遠くを見つめている。龍一は手を伸ばすが届かず、目が覚めた。額に汗が滲んでいる。窓の外はまだ暗く、時計は5時を指していた。龍一は重い体を起こし、学校へ向かう準備を始めた。バスケ部の朝練前、佐藤が体育館の裏で待っていた。
「おはよ、龍一。ちょっと話そうぜ」
佐藤の声は、いつもより硬い。龍一は頷き、隣に立つ。
「昨日さ、お前が路地でボーッとしてたって、春人が心配して言ってたぞ。マジでなんかあった?」
その言葉に、龍一の胸が締まる。春人が自分のことを気にしていたのか。
「…いや、なんでもない。考え事してただけだ」
「でもあそこ、お前今まで行ったことあんの? ここ数日マジでおかしいって。なんか違うお前みたいな」
佐藤が肩を軽く叩いてきた。
「…悪かった。気をつける」
「いや悪いとかじゃねーけどさ。なんかあったら言ってほしー系なのよ」
佐藤はそう言い残し、体育館へ向かった。佐藤の存在は、本来の自分にとってはとても大切なのだろう。だが今の龍一には春人の心配が胸に響いた。その先に何が待っているのか、不安と恐れを伴った感情と共に。
「龍にぃ、ご飯できたよ!」
階下から妹・結衣の声が聞こえてきた。龍一はパソコンを閉じ、立ち上がる。階段を下りると、食卓には家族が揃っていた。父親が新聞を広げ、母親が味噌汁を椀に注いでいる。結衣が龍一の席を指さし、「遅いよー」と笑った。龍一は小さく頷き、椅子に座った。
「龍一、最近学校はどうだ?」
父親が新聞を畳みながら尋ねてくる。龍一は箸を手に取り、適当に答えた。
「普通だよ。変わりない」
「そうか。バスケ部は頑張ってるか?」
「まぁ、それなりに」
父親は呆れたように笑い、母親が「もう少し食べなさい」と皿に料理を足した。だが、龍一の耳にはその会話が遠くに聞こえる。春樹の笑顔が頭をよぎる。あの事故で死んだはずの自分が、なぜここにいるのか。この家族は、本当に自分の家族なのか。
「龍にぃ、ほんと変だよ。なんか、ボーッとしてるし。それに…」
結衣が箸を止め、龍一をじっと見つめてきた。龍一は苦笑いを浮かべる。
「そうか? いつも通りだろ」
「ううん、絶対変。昨日も遅くまで起きてたでしょ。パソコンの音してたもん」
その言葉に、龍一は後ろめたさに似たものを感じた。妹の無邪気な声が、なぜか重く響いた。
「…ちょっと調べ物してただけだ。気にすんな」
「ふーん。それならいいけど」
結衣はそう言って、再び箸を動かし始めた。龍一は黙ってご飯を口へ運ぶが、味がしない。過去が消えたこの世界で、自分は何者なんだろう。食後、部屋に戻った龍一は、ベッドに腰を下ろした。窓から差し込む月明かりが、部屋を淡く照らす。机の上に置かれた携帯が小さく震え、画面を見ると佐藤からのメッセージだった。
「明日、部活前にちょい話したいことあるんだけど、いい?」
龍一は「わかった」と返信し、携帯を置いた。佐藤が何を話したいのか、頭の片隅で気になりつつ、目を閉じる。だが、眠りは訪れず、頭の中は混乱でいっぱいだった。春人の顔が浮かぶ。あの路地で見た影。あの声。「あいつを…潰せ…」。それが何を意味するのか、わからない。でも、春人がそこにいたことが、胸に引っかかる。
夜が更ける中、龍一は枕元の時計を見た。深夜2時を過ぎている。家族はもう眠っているだろう。静寂の中で、龍一は自分の呼吸音だけを聞いていた。春樹だった頃の記憶が、頭の奥で疼く。あの優しい笑顔。あの事故で失ったはずの自分。なのに、今ここにいる。この世界は何かがおかしい。龍一は目を閉じ、記憶をたどった。オフィスの冷たい空気。部下の怯えた目。春樹の穏やかな声。それらが混ざり合い、頭の中で渦を巻く。
朝が近づくと、ようやく浅い眠りに落ちた。だが、夢の中で春樹が笑っていた。隣にいるはずの自分が、そこにはいない。春樹が一人で路地に立ち、遠くを見つめている。龍一は手を伸ばすが届かず、目が覚めた。額に汗が滲んでいる。窓の外はまだ暗く、時計は5時を指していた。龍一は重い体を起こし、学校へ向かう準備を始めた。バスケ部の朝練前、佐藤が体育館の裏で待っていた。
「おはよ、龍一。ちょっと話そうぜ」
佐藤の声は、いつもより硬い。龍一は頷き、隣に立つ。
「昨日さ、お前が路地でボーッとしてたって、春人が心配して言ってたぞ。マジでなんかあった?」
その言葉に、龍一の胸が締まる。春人が自分のことを気にしていたのか。
「…いや、なんでもない。考え事してただけだ」
「でもあそこ、お前今まで行ったことあんの? ここ数日マジでおかしいって。なんか違うお前みたいな」
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「…悪かった。気をつける」
「いや悪いとかじゃねーけどさ。なんかあったら言ってほしー系なのよ」
佐藤はそう言い残し、体育館へ向かった。佐藤の存在は、本来の自分にとってはとても大切なのだろう。だが今の龍一には春人の心配が胸に響いた。その先に何が待っているのか、不安と恐れを伴った感情と共に。
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