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兵士たちの壁ドン
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「奥様って、ただの子爵家のお嬢さまだったはずよね」
壁にどんっと押し付けられて、セイディのきつい眼差しを受けているのは兵士仲間のバアルだ。王都からダイナリア領へと、エメリーンのお供として旅をしたバアルから、情報を引き出そうというのだろう。豊満な胸が押し付けられそうな状況に、バアルは無表情で「さっきよりはかなりマシだな」と思っていた。
「どういうことだ。奥様について、報告漏れの内容があるのではないか」
バアルが兵士長のルドガーからそう問われたのも、つい先ほどのことだ。ルイとエメリーンをそれぞれ部屋へと送り終わるまで、ルドガーを含めてバアルもセイディも貝のように口を閉ざしていたが、その後は慌ただしくバアルのところに質問責めに現れた。
「俺は何も知らない。先ほど、驚いていたのは俺も同じだ」
ルドガーに答えたのと同じ内容を、セイディにも伝える。セイディはルドガーと同じく、納得がいかないようなムッとした表情をしたが、本当なのだから仕方がない。
――本当にどういうことなんだ?
馬車での旅路の間、バアルの目に映るエメリーンは、とても気弱そうな令嬢に見えた。もちろんエメリーンが、すでに辺境伯夫人であることは分かっていたが、馬車の中でおとなしく盗賊や魔物に怯える、ただのお嬢様だとしか感じなかったのだ。それに、「とても繊細な方のようだから、なるべく接触を控えて」と侍女のマーサに言われていたせいもあり、旅の間にバアルはほとんどエメリーンと話をしていない。
――マーサなら、もう少し何か知っているかもしれないな。
御者を務めていたブラッドは、口下手なために御者になったという男のため、まったく当てにならない。そもそもエメリーンとブラッドが話しているところを、バアルが道中一度たりとも見ていないのだから、期待をするほうがおかしいだろう。
――それにしても、さっきはすごいものを見た。
バアルが思い出しているのは、先ほど見たエメリーンの木のぼりだ。ジャンプしても届く範囲には枝一つない大木を、エメリーンはシンプルだがいつもと長さの変わらないドレスを着たまま、しかもヒールの高い靴を履いたまま、するするとてっぺんまで登ったのだ。そして下りるときはさらにスムーズで、飛ぶように枝を伝い、あっという間に地面の上にいた。
驚くべきことに、そんなことをやってのけたエメリーンのドレスは、破れるどころかほつれもないのだ。微かな汚れは、エメリーンがスカートを軽くはたいただけで落ちてしまった。あれだけのことをして、靴にも傷一つ付いていないなど、バアルは自身の目で見たはずなのに、目の前で起きたことがとても現実とは思えなかった。
「あんなの……ありえない」
バアルが思ったことと寸分たがわぬ感想を口にしたのは、セイディだった。
「なんなの、あの人」
「なんだろうな……」
先ほどほんの一瞬だけバアルの方を見たエメリーンの目は、バアルが知っていたはずの、弱気なエメリーンとは別人のように見えた。
――どれほど特殊な訓練をしたら、あんな動きができるんだ?
バアルがルドガーを見ると、無表情だが頬がわずかに引き攣っている。
――そりゃそうだよな。元下級貴族の令嬢にこんなことが出来るんじゃ、警備に穴がないか再検討しなきゃいけないレベルだ。
王都にいるヒューバートへも連絡が行って、オルクス子爵家を探らせることになるだろうが、果たして辺境伯であるヒューバートはどうするだろうか、とバアルは思案して眉間に皺を寄せた。
――帰ってくるかもな。
辺境伯が領地に帰ってくる。そんな当たり前のことを思って、バアルはため息を吐いた。
先ほど、別人のように見えたのはエメリーンだけではない。おとなしい子供だと思っていたルイが、無邪気にはしゃいだ声を上げて、目を輝かせていた。
ルイの変わりように驚きはしたものの、それが決して悪い変化ではないことは明らかだった。ヒューバートから放置されていると言っても過言ではないルイの境遇が、少しでも良い方に変わるのであれば、それを拒むものはこの屋敷にはいない。使用人たちのほとんどは、今では内心、領地に帰ってくることが少ないヒューバートではなく、ずっと側にいるルイの味方だ。バアルがエメリーンの護衛として辺境伯領へ戻ることを選んだのも、辺境伯であるヒューバートの側にいるよりも、ルイの側にいたいと思ったからに他ならない。
ヒューバートはバアルにとって悪い主人ではないし、悪評を垂れ流すようになった理由については同情している。だがそれは、幼いルイには関係がないことだ。
「変わればいいな……」
「まあ、ルイ様が楽しく過ごせるのは良いことだと思うわ」
何が、とはバアルは口にしなかったが、セイディも頷いた。しぶしぶと言った風なのは、セイディにはもう一つ、エメリーンの存在を認めたくない理由があるからだろう。
「でも、ヒューバート様は……」
口ごもったセイディが言わんとしていることはバアルにも分かる。ヒューバートがルイの変化を気に掛けることはきっとないだろう。
「変わればいいな……」と、バアルはもう一度、今度はセイディにも聞こえないほどの声量で呟いた。暗い過去に囚われたままのヒューバートを、エメリーンなら変えることが出来るのではないか。バアルは今日、そんな淡い期待を抱いた。
壁にどんっと押し付けられて、セイディのきつい眼差しを受けているのは兵士仲間のバアルだ。王都からダイナリア領へと、エメリーンのお供として旅をしたバアルから、情報を引き出そうというのだろう。豊満な胸が押し付けられそうな状況に、バアルは無表情で「さっきよりはかなりマシだな」と思っていた。
「どういうことだ。奥様について、報告漏れの内容があるのではないか」
バアルが兵士長のルドガーからそう問われたのも、つい先ほどのことだ。ルイとエメリーンをそれぞれ部屋へと送り終わるまで、ルドガーを含めてバアルもセイディも貝のように口を閉ざしていたが、その後は慌ただしくバアルのところに質問責めに現れた。
「俺は何も知らない。先ほど、驚いていたのは俺も同じだ」
ルドガーに答えたのと同じ内容を、セイディにも伝える。セイディはルドガーと同じく、納得がいかないようなムッとした表情をしたが、本当なのだから仕方がない。
――本当にどういうことなんだ?
馬車での旅路の間、バアルの目に映るエメリーンは、とても気弱そうな令嬢に見えた。もちろんエメリーンが、すでに辺境伯夫人であることは分かっていたが、馬車の中でおとなしく盗賊や魔物に怯える、ただのお嬢様だとしか感じなかったのだ。それに、「とても繊細な方のようだから、なるべく接触を控えて」と侍女のマーサに言われていたせいもあり、旅の間にバアルはほとんどエメリーンと話をしていない。
――マーサなら、もう少し何か知っているかもしれないな。
御者を務めていたブラッドは、口下手なために御者になったという男のため、まったく当てにならない。そもそもエメリーンとブラッドが話しているところを、バアルが道中一度たりとも見ていないのだから、期待をするほうがおかしいだろう。
――それにしても、さっきはすごいものを見た。
バアルが思い出しているのは、先ほど見たエメリーンの木のぼりだ。ジャンプしても届く範囲には枝一つない大木を、エメリーンはシンプルだがいつもと長さの変わらないドレスを着たまま、しかもヒールの高い靴を履いたまま、するするとてっぺんまで登ったのだ。そして下りるときはさらにスムーズで、飛ぶように枝を伝い、あっという間に地面の上にいた。
驚くべきことに、そんなことをやってのけたエメリーンのドレスは、破れるどころかほつれもないのだ。微かな汚れは、エメリーンがスカートを軽くはたいただけで落ちてしまった。あれだけのことをして、靴にも傷一つ付いていないなど、バアルは自身の目で見たはずなのに、目の前で起きたことがとても現実とは思えなかった。
「あんなの……ありえない」
バアルが思ったことと寸分たがわぬ感想を口にしたのは、セイディだった。
「なんなの、あの人」
「なんだろうな……」
先ほどほんの一瞬だけバアルの方を見たエメリーンの目は、バアルが知っていたはずの、弱気なエメリーンとは別人のように見えた。
――どれほど特殊な訓練をしたら、あんな動きができるんだ?
バアルがルドガーを見ると、無表情だが頬がわずかに引き攣っている。
――そりゃそうだよな。元下級貴族の令嬢にこんなことが出来るんじゃ、警備に穴がないか再検討しなきゃいけないレベルだ。
王都にいるヒューバートへも連絡が行って、オルクス子爵家を探らせることになるだろうが、果たして辺境伯であるヒューバートはどうするだろうか、とバアルは思案して眉間に皺を寄せた。
――帰ってくるかもな。
辺境伯が領地に帰ってくる。そんな当たり前のことを思って、バアルはため息を吐いた。
先ほど、別人のように見えたのはエメリーンだけではない。おとなしい子供だと思っていたルイが、無邪気にはしゃいだ声を上げて、目を輝かせていた。
ルイの変わりように驚きはしたものの、それが決して悪い変化ではないことは明らかだった。ヒューバートから放置されていると言っても過言ではないルイの境遇が、少しでも良い方に変わるのであれば、それを拒むものはこの屋敷にはいない。使用人たちのほとんどは、今では内心、領地に帰ってくることが少ないヒューバートではなく、ずっと側にいるルイの味方だ。バアルがエメリーンの護衛として辺境伯領へ戻ることを選んだのも、辺境伯であるヒューバートの側にいるよりも、ルイの側にいたいと思ったからに他ならない。
ヒューバートはバアルにとって悪い主人ではないし、悪評を垂れ流すようになった理由については同情している。だがそれは、幼いルイには関係がないことだ。
「変わればいいな……」
「まあ、ルイ様が楽しく過ごせるのは良いことだと思うわ」
何が、とはバアルは口にしなかったが、セイディも頷いた。しぶしぶと言った風なのは、セイディにはもう一つ、エメリーンの存在を認めたくない理由があるからだろう。
「でも、ヒューバート様は……」
口ごもったセイディが言わんとしていることはバアルにも分かる。ヒューバートがルイの変化を気に掛けることはきっとないだろう。
「変わればいいな……」と、バアルはもう一度、今度はセイディにも聞こえないほどの声量で呟いた。暗い過去に囚われたままのヒューバートを、エメリーンなら変えることが出来るのではないか。バアルは今日、そんな淡い期待を抱いた。
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